第30話 ベアトリス夫人にも、理由がある
ロザリーとグレン辺境伯の婚約は再確認書によって継続となり、止まっていた領地間取引も新しい契約で動き始めた。
ただし、ロザリーからクラリッサへ新しい言葉は届いていない。
一週間の謹慎を終えて公務へ戻ったクラリッサは、ベアトリス夫人の私室へ呼び出された。
「ヴァレル伯爵家からの報告書を読みました」
ベアトリス夫人は羊皮紙へ目を落とした。
「あなたは謝罪後、求められるまで接触しなかったそうですね」
「はい。あれ以上、私が手を出してよい問題ではありませんでした」
「身を引くのも責任の取り方です。失敗を成功談へ塗り替えなかった点は認めます」
誇り高い夫人なりの評価だった。だが、次の声は硬い。
「それでも私は、あなた方が口にする『個人の意思』を、手放しでは信じられません」
ベアトリス夫人は、若い頃に起きた王族の婚約破棄について語った。
王族は身分違いの娘との真実の愛を叫び、大公家との契約を捨てた。面子を潰された大公家は王室に反旗を翻し、国は二つに割れた。
「父と兄を二人、亡くしました」
夫人の指が、カップの縁で止まった。
「故郷の村も焼けました。上に立つ者が感情を免罪符にすれば、顔も知らない誰かが血を流す。私はそれを見たのです」
軽々しく否定できる話ではなかった。
クラリッサは膝の上で手を組み直した。
「その喪失を前に、個人の自由は大切だとだけ申し上げるつもりはありません」
「ならば、役割で縛る必要もお分かりでしょう」
「いいえ。八歳の私に『泣くな』と命じてよかったことにはなりません」
カップが、かすかな音を立ててソーサーへ戻った。
「……必要だと思いました」
「その教育で、ジュリアン殿下の暴走は止まりましたか」
ベアトリス夫人は答えなかった。
「殿下は契約の重さを教えられず、ただ従う側に座らされていた。だから『真実の愛』という言葉一つで、鎖を切った気になれたのです」
「意思を聞けば、二度と戦が起きないと?」
「いいえ。話し合いだけで人は善くなりません」
クラリッサは即答した。
「だから記録と手続きが要るのです。結ぶ前に、負う責任を本人へ説明する。家族のいない場でも意思を聞く。一度の返事で決めず、後から異議を申し立てられる道を残す。『聞いていなかった』では逃げられない契約にするのです」
ベアトリス夫人の目が細くなる。
「あなた自身が、ロザリー嬢の曖昧な頷きを承諾として扱ったばかりではありませんか」
「はい。ですから、私一人を信じる制度にしてはいけません」
痛いところを突かれても、目は逸らさなかった。
「相談役を交代制にする。照会文には別の者の署名も要る。記録を本人が確認できるようにする。私の善意も、夫人の恐怖も、間違うことを前提に組みます」
長い沈黙の後、ベアトリス夫人は机から白紙の羊皮紙を一枚抜き、二人の間へ置いた。
「冬至会議までに草案を」
「協力してくださるのですか」
「私は賛同者ではありません。あなたの案の穴を、誰より厳しく探す反対者です」
クラリッサは思わず笑った。
「願ってもないお役目ですわ」
二人の間に置かれた羊皮紙は、まだ白い。
だからこそ、そこには誰か一人の正解ではないものを書き始める余地があった。




