第29話 ごめんなさい。今度は、あなたが決めて
ヴァレル伯爵邸の応接室で、ロザリーは座ろうとしなかった。
クラリッサも椅子には近づかず、扉のそばで深く頭を下げた。
「私の思い込みと、権限の重さへの甘さで、あなたの選ぶ機会を奪いました。ご両家の関係と領地の取引にも損害を出しました。本当に申し訳ありません」
なぜ焦ったか。どれほど心配していたか。説明したい言葉は、すべて飲み込んだ。
「謝罪は、受け取ります」
ロザリーの声は硬かった。
「ですが、今はクラリッサ様へ相談したいことはありません。研究の条件も、辺境伯様とのことも、自分で考えます」
「分かりました」
「私から連絡するまで、こちらへいらっしゃらないでください」
胸に刺さったが、クラリッサは頷いた。
「ええ。約束します」
許してほしいとも、何か手伝えることはないかとも言わず、退出した。
馬車が門を離れる時、二階の窓にロザリーの姿が見えた。クラリッサは手を振らなかった。
謹慎が明けた日、婚姻登録局から一冊の記録が届いた。
ロザリーが、自ら窓口へ出向いて『婚約条件再確認書』の白紙書式を請求したという。研究費、温室、採集旅行、領地での薬草利用。誰にも代筆させず、担当官へ質問を重ねたことまで記録されていた。
クラリッサは報告を閉じた。
連絡してよいとは言われていない。祝いの手紙も送らなかった。
さらに四日後、両家から正式な再確認書が提出された。
グレン辺境伯は、微笑んで聞いていたのは研究を軽んじたからではなく、知らない分野へ口を挟むのをためらったからだと認めた。ロザリーも、分かってくれているはずだと期待し、質問しなかった自分の側の不足を認めた。
婚約は継続となった。
止まっていた薬草と塩の共同輸送は、違約金を含む新契約を交わした上で再開された。損失がなかったことにはならない。
報告書の末尾に、ロザリー本人の短い追記があった。
『先日の謝罪は受け取りました。今回の話し合いは、私と辺境伯様で行いました。結果だけ、ご報告いたします』
感謝も、親しげな呼びかけもない。
それでよかった。
失った信用は、物語の都合で一晩では戻らない。クラリッサは追記へ返信せず、両家の再確認書を正式な記録として綴じた。
「おはようございます」
レオナールが別の書類を持って入ってきた。
「ヴァレル家の件は、当事者間でまとまりました」
「ええ。読みました」
「私は何もしていませんわ」
「それを、わざわざ卑下する必要もないでしょう」
レオナールは新しい仕事の束を机へ置いた。狩猟会の安全計画、冬至の席次、外国使節の宿泊費。誰かの人生を解く問題ではなく、クラリッサが引き受けた公務だ。
「まず、こちらから片づけましょう」
「そうね。湯が冷める前に始めましょうか」
クラリッサはペンを取った。
ロザリーとの距離は、まだ戻らない。
戻るかどうかも、クラリッサが決めることではなかった。




