第25話 あなたは、私のお母様ではありません
床へ落ちた競売槌の音が、小夜会の隅まで響いた。
「辺境伯家の使者が帰った?」
「『アルヴェイン公爵令嬢が婚約進行を推奨しない以上、我が家は望まれていない』と。婚約の正式発表だけでなく、冬の薬草と塩の共同輸送まで再検討すると……!」
クラリッサの指先が冷えた。
「待って。私は公告を一度保留して、条件を――」
「お手紙には『婚約進行は推奨しない』とありました!」
ロザリーの声は裏返り、整えた髪から一本、二本と細い毛が落ちた。
「私は、怖いと言いました。でも、逃げたいとは言っていません。辺境伯様に分かっていただけるか、自分で聞こうとしていたのです」
「最終便が出ると聞いて、条件のないまま公告されるよりはと……」
「だから、私の代わりに決めたのですか」
クラリッサは返せなかった。
確かにロザリーへ尋ねた。頷きも得た。セリアの時と同じ失敗はしていないつもりだった。
だが、尋ね方が違っていただけだ。
時間がないという焦りの中で、説明し、選ばせ、頷かせた。『発表文書を止める』と『婚約の進行を止める』の境目を、自分に都合よく曖昧にした。
「あなたが迷っているうちに、既定案が通るのが怖かったの」
「私も怖かったです!」
ロザリーの涙が落ちた。
「でも、怖いまま聞くのも、断られるのも、私の役目でした。研究が大切だから、自分で言いたかった。私が本気だと、私の口で伝えたかったのに」
クラリッサが差し出しかけた手を、ロザリーは一歩下がって避けた。
「私を守ろうとしてくださったことは分かります。でも、私の未来は、クラリッサ様が失敗しないように管理する仕事ではありません」
周囲には、慈善会の客も、薬草園の職員もいる。誰もが息を潜めていた。
クラリッサは、その視線よりも、ロザリーの目に浮かぶ失望が痛かった。
「クラリッサ様。あなたは、私のお母様ではありません」
一語ずつ、震えながら、それでもロザリーは言い切った。
「私の人生を、勝手に決めないでください」
クラリッサの喉が塞がった。
謝罪を口にすれば、今度はロザリーに『許す役』を押しつける気がした。それでも、黙って逃げるわけにはいかない。
「……ごめんなさい」
それだけしか言えなかった。
ロザリーは答えず、競売会場を出ていった。
追わないことだけが、今のクラリッサにできる唯一の自制だった。
翌朝、視察から戻ったレオナールは、ヴァレル家とグレン辺境伯家から届いた抗議書を読んだ。
クラリッサの文面は、法的には婚約延期命令ではない。だが、差出人の権威を考えれば、そう受け取られて当然だった。
彼は前日の廊下を思い出した。
速達便の表書きを見て、問いを飲み込んだ自分を。
「私は、彼女の判断を尊重したのではない」
誰もいない執務室で、レオナールは呟いた。
「止めるべきか迷い、関わらない方を選んだだけだ」
クラリッサの責任が消えるわけではない。
同時に、自分が安全な場所から採点するだけの人間でよいはずもなかった。
同じ頃、ベアトリス夫人は王妃へ、クラリッサの主催権停止を正式に進言していた。
照会一通で、婚約だけでなく領地間の輸送交渉にまで影響が出た。善意を理由に見逃せる規模ではない。
クラリッサは呼び出し状を受け取り、署名欄を長く見つめた。
昨日まで他人へ『自分で責任を負いなさい』と言ってきた。
今度は、自分の番だった。




