第24話 その婚約、私が止めます
中間大晩餐から数日後、王宮の薬草園では、冬の慈善施療院へ送る苗の選別が行われていた。
クラリッサが帳簿を片手に温室を回っていると、植木鉢の陰から細い悲鳴が聞こえた。
「あっ」
研究ノートと鉢を同時に抱えたロザリーが、盛大に土をこぼしていた。右手には青いインク、左の頬には乾いた泥がついている。
「ご、ごめんなさい! この株、辺境にしかない鎮痛草と葉の形が似ていて……」
「謝る前に鉢を置きなさい。研究熱心なのは結構だけれど、鼻から床へ突っ込んだら薬草より先にあなたが施療院行きよ」
クラリッサは袖をまくり、ロザリーと一緒に土を鉢へ戻した。舞踏会では人の顔を見られないほど無口な娘が、根の張り方を語り始めると止まらない。その早口に、クラリッサは何度も笑わされた。
ところがグレン辺境伯の名を出した途端、ロザリーの声が消えた。
「明日の正式発表、楽しみね」
「……はい」
肯定の割に、研究ノートを抱く腕が白くなるほど強い。
「何があったの」
ロザリーは温室の隅にある作業台へ目を落とした。
「先日、辺境伯様に研究の話をしたのです。結婚後も続けたいと。けれど、ずっと微笑んで頷くだけで……一言も、約束はしてくださいませんでした」
「研究をやめろとは?」
「言われていません」
「続けてよいとも?」
「……それも」
辺境伯領は雪深く、魔物被害も多い。十九歳の新妻が、三十七歳の領主を前にどこまで条件を主張できるのか。ロザリー自身にも分からないのだろう。
「私、怖いです」
その一言が、クラリッサの古い傷へ触れた。
八歳で王太子妃の役を背負わされ、泣くことさえ許されなかった自分。国のためなら我慢すると即答したアメリア。二人の姿が、泥のついたロザリーへ重なる。
「なら、発表を待ってもらう?」
セリアの時とは違う。今度は先に尋ねた。
けれどロザリーは、すぐに答えなかった。
「分かりません。延期したいのか、私が臆病なだけなのか……。ただ、怖くて」
「破談を望んでいるわけではないのね」
「はい。辺境伯様は誠実な方です。私、自分で確かめたい。でも――」
温室の外から、文官が駆け込んできた。
「クラリッサ様。北部向けの発表文書について、至急ご確認を。雪で街道が閉じる前の最終便が、第四の鐘に出ます。ロザリー様の婚約条項も、本日中に封をしなければ既定案のまま公告されます」
残りは一刻もない。
既定案には、研究継続も、費用も、採集旅行も一言も書かれていなかった。今日見送れば次の便は十日後。だが、見送るという通知自体が両家の体面を傷つける。
クラリッサはロザリーへ向き直った。
「私から、発表文書だけを一時保留にする照会を出すわ。婚約を止めるのではない。条件が空欄のまま公告されるのを待ってもらうだけ」
「あの、でも、私から父へ――」
「最終便に間に合わない。あなたの希望は、後で必ず追記できるようにするから」
ロザリーは迷った末、かすかに頷いた。
その頷きが『発表文書の確認』に対するものなのか、『クラリッサへ任せる』という同意なのか。確かめるべきだった。
執務室へ戻ったクラリッサは、急いで照会文を書いた。
『当事者の重要条件が未確認であるため、本日の公告をいったん保留されたい。確認が終わるまで、現行条件での婚約進行は推奨しない』
前半だけなら、単なる事務上の留保だった。
問題は後半だ。筆頭公爵家の令嬢であり、社交季責任者であるクラリッサが『婚約進行は推奨しない』と書けば、受け取る側には事実上の延期要求となる。
書記官が言いよどんだ。
「『公告を保留』まででよろしいのでは」
クラリッサの頭には、温室で震えていたロザリーしかなかった。
「いいえ。条件確認前に両家が押し切らないよう、念を入れて」
封蝋を押す。
その瞬間、廊下を通ったレオナールが、速達便を抱える書記官へ目を留めた。
「ヴァレル家の婚約照会ですか」
「はい。クラリッサ様から、公告前の緊急確認です」
レオナールは一度、閉じた扉を見た。
以前なら入って文面を確かめただろう。だが彼は、自分が口を挟みすぎればクラリッサの判断まで奪うのではないかと考えた。
「……分かりました。私は視察へ出ます。戻りは明朝です」
問いを一つ飲み込み、彼は去った。
夕刻、北部への最終便は二通の書状を載せて出発した。
一通はヴァレル伯爵家へ。もう一通はグレン辺境伯家へ。
クラリッサは、せめて十日分の猶予を作れたと思っていた。
自分の署名が、相手の目にはどれほど大きく見えるのかを、読み違えたまま。
その夜、慈善会の競売を兼ねた小夜会で、薬草園の苗が次々と競り落とされていた。
クラリッサが最後の落札額を確認していると、入口でざわめきが起きる。
「クラリッサ様!」
泥の代わりに涙で頬を濡らしたロザリーが、息を切らして立っていた。
「王都に待機していた辺境伯家の使者が、照会文の控えを見た途端、正式な返答も待たず北部へ出立してしまいました。父は、取引まで止まるかもしれないと……。どうして、あんな書き方をなさったのですか!」
競売槌が、クラリッサの手から滑り落ちた。




