第22話 私も、あなたを役割で見ていました
母との対話を終え、アルヴェイン公爵邸から王宮へ戻ったクラリッサの心には、重く、そして静かな波が立っていた。
自分が良かれと思って他人の人生に介入しようとする危うさ。それを自覚した時、クラリッサは、前世の記憶を取り戻す以前の『自分自身の罪』に思い至らざるを得なかった。
(八歳のあの日から、私は自分に『完璧な王妃』という役割を課して、個人の感情を殺してきた。……でも、私が殺していたのは、自分の感情だけじゃなかった)
完璧な秩序を守るためなら、他人の感情すらも切り捨てて構わない。
そう信じ込んでいたかつての自分が、どれほど残酷な振る舞いをしていたか。その最大の被害者は、他でもないミレーヌ・ベル男爵令嬢だった。
私は婚約破棄を突きつけられた被害者ぶっているが、決して完全な無罪などではない。過去の行いを無かったことにして、正しい大人を気取ることは許されなかった。
クラリッサは、王宮の庭園の奥にある、人の寄り付かない静かな東屋にミレーヌを招いた。
秋の風が木々を揺らす中、東屋にやってきたミレーヌは、どこか強張った面持ちだった。先日、クラリッサの執務室で自らの意思をはっきりと口にして以来、二人の間には奇妙な連帯感のようなものが生まれていたが、それでもミレーヌにとって、クラリッサがかつて自分を冷たく見下ろしていた公爵令嬢であることに変わりはない。
「よく来てくれたわね、ミレーヌ嬢。さあ、かけてちょうだい」
クラリッサは人払いをし、侍女が用意しておいた紅茶を自らの手でミレーヌのカップに注いだ。
「ありがとうございます、クラリッサ様。……あの、今日はどのようなご用件でしょうか。私、何か粗相を……」
ビクビクと上目遣いになるミレーヌを見て、クラリッサは小さく首を振った。
「違うの。今日は、あなたに謝罪しなければならないことがあって、来てもらったのよ」
「謝罪、ですか?」
ミレーヌは驚いて目を丸くした。身分が上の公爵令嬢が、男爵令嬢に頭を下げるなど、通常ではあり得ないことだからだ。
クラリッサは姿勢を正し、膝の上で両手を組んで、ミレーヌの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ええ。秋の夜会で、ジュリアン殿下に婚約破棄を宣言されるより前のことよ。……殿下があなたに惹かれ、言葉を交わすようになった頃から、私があなたに対して行ってきたことについてです」
前世の記憶が戻る前の、クラリッサとしての記憶。
王太子が身分違いの男爵令嬢に入れ込んでいるという噂を耳にした時、クラリッサは彼女を呼び出して平手打ちをしたり、ドレスを切り裂いたりといった、犯罪的な嫌がらせはしなかった。
しかし、それよりももっと陰湿で、精神を削るような圧力をかけていた。
すれ違う時に向ける、氷のように冷たく蔑む視線。茶会に呼ばれたかと思えば、彼女の席だけを王太子から遠く離れた末席に配置し、周囲の令嬢たちに暗黙の了解で彼女を無視させるよう仕向ける空気。王宮の廊下で王太子と話しているのを見かければ、完璧な礼法と笑顔で間に割って入り、ミレーヌを言葉巧みに追い払う。
「あの頃、私があなたに向けた敵意と冷遇は、間違いなくあなたを傷つけ、深く追い詰めるものでした。どんな理由があろうと、それは私の傲慢であり、許されることではありません。……本当に、申し訳ありませんでした」
クラリッサが深く頭を下げると、ミレーヌは弾かれたように立ち上がり、慌てて手を振った。
「あ、頭を上げてください、クラリッサ様! 私の方こそ、殿下のお気持ちに流されて、婚約者のいらっしゃる方に近づいてしまったのですから……っ」
「いいえ。座って聞いてちょうだい」
クラリッサは顔を上げ、ミレーヌを再び椅子に促した。
「言い訳にするつもりはないわ。でも、私がなぜあんなことをしたのか……私が当時、何を考えていたのか、知っておいてほしいの」
ミレーヌは戸惑いながらも、静かに座り直した。
「私にとって、ジュリアン殿下は『愛する婚約者』ではありませんでした。彼は、私が生涯をかけて守り、支えなければならない『国家の象徴』であり……同時に、絶対に失敗させてはならない『管理すべき相手』だったのです」
八歳の頃から叩き込まれた、完璧な王妃としての役割。
ジュリアンが王の器に足らない行動をとれば、それはすべて、手綱を握りきれなかったクラリッサの責任になると思い込んでいた。
「だから、殿下があなたという身分違いの少女にうつつを抜かし始めた時、私は嫉妬したわけではなかった。ただ、王家の秩序が乱れることを恐れたのです」
「秩序、ですか……」
「ええ。私は、ジュリアン殿下を一人の青年として見ていなかったように、あなたのことも、一人の心ある少女としては見ていなかったの」
クラリッサは、過去の自分の罪を抉り出すように、はっきりと告げた。
「あの頃の私の目に映っていたあなたは、『排除すべき不確定要素』でしかなかった。完璧な盤面を乱す、ただの邪魔な駒。だから、あなたが私の冷たい視線を受けてどれほど傷つき、怯えているかなど、想像しようともしなかったわ」
それは、痛烈な自己批判だった。
「ジュリアン殿下が、あなたの本当の意思を聞かずに『悲劇のヒロイン』という役割を勝手に押し付けていたのと同じよ。私も、あなたをただの『邪魔な役割』として見ていた。あなたという一人の人間を見ていなかった。……それは、とても残酷で、身勝手なことだったわ」
クラリッサは、自分が単なる「婚約破棄された可哀想な被害者」ではないことを知っている。
ジュリアンの暴走の責任は彼自身にあるが、ミレーヌを追い詰め、二人の関係をこじらせる一因を作ったのは、間違いなく過去のクラリッサの圧力だったのだ。
「だから、謝りたかったの。私こそが、あなたを深く傷つけた加害者の一人だったのだと」
東屋を吹き抜ける風が、庭園の木々の葉をカサカサと鳴らした。
ミレーヌは、膝の上に置いた両手を握り締め、じっと俯いていた。
クラリッサは答えを急かさなかった。過去の傷は、謝られたからといってすぐに消えるものではない。
やがて、ミレーヌはゆっくりと顔を上げた。
彼女の目には、以前のようなおどおどとした怯えはなかった。
「……はい。正直に申し上げますと」
ミレーヌは、微かに震える声で、しかしはっきりと紡いだ。
「当時のクラリッサ様は、本当に恐ろしかったです。言葉で罵られるよりも、あの冷たい視線で見つめられるだけで、自分がこの王宮に存在してはいけない汚いもののように思えて……殿下がお優しくしてくださるほど、クラリッサ様が怖くて、いつも震えていました」
ミレーヌは、自分が受けた恐怖を誤魔化すことなく、正面から伝えた。
「ええ。当然よ」
「でも……」
ミレーヌは、少しだけ眉を下げ、クラリッサを真っ直ぐに見つめ返した。
「でも、クラリッサ様も、苦しかったのですね。王太子妃という重いお立場と、『役割』という見えない鎖に縛られて。ご自分の感情を押し殺して、必死に国を守ろうとされていたのですね」
「……」
「殿下が私に『ヒロイン』を求めたように。クラリッサ様も、私を『悪役』にしたかったわけではなく、ただご自分の『役割』を守りたかっただけだと……今なら、少しだけ分かる気がします」
ミレーヌの言葉に、クラリッサは胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼女は、ただの庇護されるべき弱い少女ではない。自分の傷を認めながらも、相手の背景を想像し、理解しようとする強さを持っている。
ジュリアンには、到底釣り合わないほどの賢さと優しさを。
「ありがとう、ミレーヌ嬢。でも、すぐに許してくれとは言わないわ。あの頃の私があなたに与えた恐怖は、消えるものではないもの」
クラリッサが苦く微笑むと、ミレーヌはふわりと、花が咲くような柔らかい笑みを浮かべた。
それは、王太子に向けられていたような作り物の愛想笑いでも、怯えを含んだものでもない、心からの笑顔だった。
「いいえ。……今のクラリッサ様なら、もう怖くありません」
ミレーヌは、温かいお茶の入ったカップを両手で包み込んだ。
「自分の過ちを認めて、真っ直ぐに謝ってくださるクラリッサ様は……あの頃の、氷の彫刻のような公爵令嬢よりも、ずっと素敵で、人間らしくて、私は好きです」
その言葉に、クラリッサは少しだけ目を瞬かせ、やがてふっと肩の力を抜いた。
「……そう。ありがとう」
役割という重い鎧を脱ぎ捨てた今。
二人は初めて、王太子を挟んだ敵同士ではなく、一人の人間同士として穏やかな時間を共有していた。
この数日後、社交季の中盤を飾る最大の行事、『中間大晩餐』が控えている。
クラリッサがこれまで順番に解きほぐしてきた若者たちの問題が、一つの大きな結果となって表れる夜が、すぐそこまで迫っていた。




