第21話 お母様は、私に聞かなかった
翌朝、クラリッサは王宮の執務室へ向かう前に、アルヴェイン公爵家の本邸へ馬車を走らせた。
急な訪問だったが、母であるソフィアは日当たりの良い豪奢な私室で、驚きとともに娘を温かく迎え入れてくれた。
「クラリッサ、いらっしゃい。最近は社交季の取り仕切りで忙しくしているようね。お父様から、あなたが立派に務めを果たしていると聞いて、安心していたところよ」
四十六歳になるソフィアは、クラリッサと同じプラチナブロンドの髪を美しく結い上げ、母親らしい柔らかな笑みを浮かべていた。
侍女が湯気を立てる紅茶と焼き菓子をテーブルに並べ、一礼して退出する。
部屋に二人きりになったところで、クラリッサは紅茶のカップには手を伸ばさず、真っ直ぐに母を見据えた。
「お母様。今日は、お母様に一つ、お聞きしたいことがあって参りました」
「なあに? 改まって」
「十三年前のことです」
クラリッサの静かな、だが確かな重みを持った声に、ソフィアが小首を傾げる。
「私が八歳の時。学習室で、ベアトリス夫人に『未来の王妃は、個人の感情で泣いてはいけない。殿下の過ちを防ぎ、完璧な秩序を体現しなさい』と厳しく叱責された日のことを、覚えていますか」
その言葉に、ソフィアの柔らかな笑みがピタリと凍りついた。
「……ええ。覚えているわ」
「あの時、お母様はその部屋にいて、私が泣いているのを黙って見ていました。そして、ベアトリス夫人の言葉に、痛ましそうな顔をしながらも頷いていらした」
クラリッサは、決して声を荒らげることなく、ただ事実だけを並べた。
「なぜですか、お母様。なぜあの時、八歳の子どもが異常な重圧に耐えかねて泣いているのを、庇ってくださらなかったのですか」
ソフィアはカップを持つ手を震わせ、カチャリと音を立ててそれをソーサーに戻した。
彼女は深く目を伏せ、やがて、絞り出すように口を開いた。
「……辛かったわ。私だって、お腹を痛めて産んだ愛娘が泣いているのを、平気な顔で見ていたわけじゃないのよ」
「ならば、なぜ」
「あなたの未来のためだと、信じていたからよ」
ソフィアが顔を上げると、その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「あなたがジュリアン殿下の婚約者に選ばれた時、アルヴェイン家は歓喜に包まれたわ。この国の王妃になるということは、女性にとって一番の誉れであり、誰よりも尊く、誰よりも幸せになれるということだと、私は本気で信じていたの」
それは、貴族の女性として育てられたソフィアにとって、疑いようのない世界の真理だったのだろう。
「そのためには、どんなに厳しい教育でも耐え抜かなければならない。一時的な苦痛からあなたを庇って甘やかしてしまえば、将来、王妃となったあなたが困ることになる。……だから、心を鬼にして見守るのが、親としての私の『役割』だと思ったのよ」
ソフィアの頬を、一筋の涙が伝った。
「でも、私が信じた幸せは、あなたを苦しめただけだった。ジュリアン殿下に婚約破棄を言い渡され、大勢の前で恥をかかされるなんて……。本当にごめんなさい、クラリッサ。私がいけなかったのよ。親として、あなたを守ってあげられなかった」
涙ながらに謝罪する母の姿に、嘘はなかった。
ソフィアは、娘を権力の道具として扱っていたわけではない。彼女なりに、娘の最大の幸福を願う親としての純粋な『善意』から、あのような態度をとったのだ。
だが、前世で三人の子どもを育て上げたクラリッサには、その『善意』がどれほど残酷な結果をもたらすかが、痛いほどによく分かった。
「……お母様。お母様は『私の幸せのため』と仰いますが、私が本当は何を望んでいるか、私自身に聞いたことがありましたか?」
「え……?」
「王妃になれば幸せになれる。それは、お母様が信じた『正解』であって、私の心ではありません。お母様は、私に用意した正解を与えようとするあまり、私の声を聞くことを放棄していたのです」
(――あなたが用意した安全な正解へと、『支配』しているだけではないですか?)
突然、昨日レオナールから投げかけられた冷徹な言葉が、脳裏を鮮烈によぎった。
クラリッサは、頭をガツンと殴られたような衝撃を受け、目を見開いた。
(……同じだわ)
私は今、お母様を『私の意思を聞かなかった』と責めている。
けれど、つい先日、セリア嬢の不安を聞いた瞬間に「私が破談にしてあげる」と勝手に答えを出そうとしたのは誰だ?
かつて、ミレーヌ嬢がジュリアンに近づくのを、「王太子の不確定要素を排除するため」という大義名分のもとに、彼女の事情も意思も聞かずに冷たく遠ざけていたのは誰だ?
「クラリッサ……?」
突然押し黙ってしまった娘を、ソフィアが不安そうに覗き込む。
「……いえ」
クラリッサは小さく息を吐き、ソフィアを責めていた視線をスッと和らげた。
お母様をこれ以上責めることなんてできない。私自身が、その「良かれと思って」という厄介な病に、何度も取り憑かれそうになっているのだから。
「もういいのです、お母様。お母様が私のことを愛してくれていたことは、痛いほど分かりましたから」
クラリッサは、母を断罪するのではなく、互いの不完全さをそのまま受け入れることにした。
「私も、お母様と同じ間違いを犯しかけているのです。他人の問題に勝手に正解を与えようとして……本当に、親子ですね」
自嘲気味に笑うクラリッサに、ソフィアは目を丸くした後、ハンカチで涙を拭った。
しばらくの静寂の後、ソフィアが穏やかな、そしてどこか誇らしげな顔でクラリッサを見つめた。
「……あなたは、本当に立派な大人になったわね」
「そんなことは……」
「いいえ。私があなたくらいの頃は、家の決めに従うことしかできなかった。でも、あなたは違うわ」
ソフィアは、テーブル越しにクラリッサの手を優しく包み込んだ。
「あなたは、私よりずっと、人の心を見ようとしているのね。だから、今の社交界で、若い令嬢や令息たちがみんな、あなたを頼るのでしょう」
それは、母からの心からの称賛であり、肯定だった。
本来なら、「ええ、私はお母様とは違いますから」とでも言って、胸を張って褒め言葉を受け取るべき場面だ。
しかし、クラリッサは自分の手が、母の温かい手の中で微かにこわばるのを感じていた。
(人の心を、見ようとしている……?)
本当にそうだろうか。
その『人の心を見ようとする善意』でさえ、一歩間違えれば、自分の価値観で相手の答えを奪い、支配することに繋がってしまう。
自分はまだ、レオナールに指摘されなければ、そのブレーキを踏むことすら危うい未熟な人間だ。
「……」
クラリッサは、母の言葉を肯定することも、否定することもできなかった。
ただ黙って、すっかり冷めきってしまった紅茶の水面を見つめながら、自分の内側にある『過干渉』という怪物の輪郭を、恐れと共に噛み締めていた。




