第20話 未来の王妃は、泣いてはいけません
王宮での執務を終え、王都にあるアルヴェイン公爵家の別邸に戻ったクラリッサは、静寂に包まれた自室のベッドに横たわっていた。
目を閉じても、帰りの馬車の中でレオナールに向けられた言葉が、じんわりとした熱を持って耳の奥に蘇ってくる。
『あなたは誰かを救う時、自分が傷つくことを計算に入れない』
言い返せなかった。
世話焼きなのは前世からだ。けれど、なぜ自分の痛みまで後回しにするのか。その問いに触れた途端、忘れたふりをしていた学習室の匂いが蘇った。
*
それは、今から十三年前。クラリッサが八歳になったばかりの頃の記憶だ。
ジュリアン王太子の婚約者に選ばれ、王宮での過酷な王太子妃教育が始まって数ヶ月が過ぎた頃だった。
高い天井に囲まれた豪奢な学習室で、小さなクラリッサは机に向かい、泣いていた。
理由は些細なことだったはずだ。分厚い他国の歴史書の年号を間違えたか、複雑な宮廷礼法のステップを踏み外したか。
子どもらしい遊びの時間をすべて奪われ、毎日大人たちから「未来の王妃として完璧であれ」と要求される日々。張り詰めていた糸がプツリと切れ、どうしても涙が止まらなくなってしまったのだ。
「うっ……ひっく……ごめんなさい……」
ポロポロと涙をこぼし、小さな手で目を擦る八歳のクラリッサ。
そこへ、足音もなく近づいてきた影があった。
教育係であり、貴族婚姻・礼法統括の重鎮であるベアトリス夫人だった。当時の彼女はまだ四十代半ばだったが、その冷徹な威圧感は今と何も変わらない。
ベアトリス夫人は、泣きじゃくる幼いクラリッサを慰めることも、抱きしめることもしなかった。
ただ、見下ろすような冷たい視線で、静かに、しかし絶対的な重みを持って告げたのだ。
『涙を拭きなさい、クラリッサ様。未来の王妃は、個人の感情で泣いてはいけません』
『でも……できないの、難しくて……』
『できなければなりません。王妃とは、国王を支え、王家という絶対の秩序を守る存在です。殿下が過ちを犯さぬよう事前にすべての芽を摘み、常に完璧な正解を体現する。それが、あなたに与えられた役割です。……個人の悲しみや苦しみなど、王家の御前では何の意味も持ちません』
幼いクラリッサは、袖が濡れるまで涙を拭った。
その日から、人前で泣く回数は減った。代わりに、ジュリアンの忘れ物も失言も交友関係も、先に見つけて片づけるようになった。
ベッドの上で、クラリッサは目を開けた。
(……あの日からだったのね)
ミレーヌへの嫉妬が、まったくなかったとは言わない。だが、その下には「王太子の過ちを事前に取り除け」と刻み込まれた恐怖があった。
理由が何であれ、ミレーヌを冷たい視線で遠ざけ、傷つけた責任まで消えるわけではない。
(アメリア王女……)
ふと、王妃の私的茶会で同席した、ジュリアンの妹の顔が浮かんだ。
『王族として生まれたからには、国のために必要な縁談を受けるのは当然の義務ですわ』
迷いなく言い切った十八歳の横顔は、涙を拭いた八歳の自分とよく似ていた。
クラリッサは小さく息を吐き、寝返りを打った。
だが、記憶の底から、もう一つ、どうしても見過ごせないものが浮かび上がってきた。
十三年前の、学習室。
ベアトリス夫人に「泣いてはいけない」と冷たく言い放たれ、必死に涙を堪えていた八歳のクラリッサ。
あの時、その部屋にはもう一人、大人がいた。
クラリッサの実の母である、ソフィア・アルヴェインだ。
彼女は、ベアトリス夫人の少し後ろに立ち、泣いている我が子を抱きしめることもせず、ただ痛ましそうな顔をして、ベアトリスの言葉に小さく頷いていた。
(……どうして)
クラリッサは、胸の奥がキュッと痛むのを感じた。
(なぜ、お母様はあの時、私を庇ってくれなかったの?)
前世で三人の子どもを育てた今のクラリッサなら、絶対にあり得ない。自分の子どもが異常な重圧に耐えかねて泣いているのに、他人がそれを「役割のために感情を殺せ」と叱りつけているのを、黙って見過ごす親がどこにいるというのか。
家のため? 王命だから?
それとも、それが本当に娘の幸せに繋がると信じていたから?
「……ごめんなさい、お母様。今の私には、あなたをただの優しい母親だったと、受け流すことはできないわ」
クラリッサは、暗闇の中で静かに呟いた。
翌朝、王宮の執務室へ向かうはずだった馬車を、アルヴェイン公爵家の本邸へ回させた。
母ソフィアに、今度こそ自分の口で尋ねるために。




