第19話 助けたことを、誰にも知られなくていい
修道院での面会から数日後。
王宮の執務室で、クラリッサとレオナールは、セレスティナ・モレル子爵令嬢の婚約解消と財産保全に関する最終的な法的手続きの書類をまとめていた。
事態は、驚くほど静かに、そして確実に収束へと向かっていた。
「……法務局の審査が降りました。男爵家の横領未遂の証拠は十分に認定され、『不貞の駆け落ち』という彼らの主張は完全に退けられました」
レオナールが、決裁印の押された羊皮紙をデスクに置きながら淡々と告げた。
「当然の結果ですわね。それで、彼らへの処分は?」
「セレスティナ嬢の特有財産の保全は法的に確定。男爵家には、虚偽の申し立てによる契約違反の有責者として、莫大な違約金が課されます。加えて、今回の調停および調査にかかった費用は、全額彼らの負担となります」
男爵家の金庫と帳簿には、その日のうちに法務局の封印が貼られた。王宮への出入り証は回収され、取引商会三社から信用停止の通知が届く。翌朝には、差し押さえ対象となった王都屋敷から、宝飾箱を積んだ荷車が出ていった。
被害者の名や事情は伏せられたまま、加害者だけが、自分たちの署名した虚偽と脅迫の代金を払うことになった。
「これでよかったのですわよね」
クラリッサは、手元にある一通の手紙にそっと触れた。
それは、実家から離れた安全な領地に身を寄せたセレスティナから届いた手紙だった。そこには、クラリッサとレオナールへの深い感謝と、これからは母の残してくれた財産で静かに、自由に生きていくという希望が綴られていた。
社交界では未だに、「子爵令嬢が詩人と真実の愛に狂って駆け落ちした」と、面白おかしく噂されている。だが、公式な記録上は、単なる「家同士の合意による円満な婚約解消」として処理された。彼女の私的な経済事情や、実家の恥が世間に晒されることは一切なかった。
逃亡に協力した「若い詩人」の幼馴染も、悲劇のヒロインを救い出したロマンチックな英雄としてもてはやされることはない。彼は単なる「実務的な財産管理の代理人」として書類に名を連ねただけだ。
クラリッサが小さく息を吐くと、向かいの席に座るレオナールが、スッと一枚の書類を差し出してきた。
「南部の婚姻における特有財産の判例です。先ほど探しておいででしたね」
「あら、ありがとうございます」
クラリッサが言葉にする前に、レオナールは彼女が何を必要としているかを正確に読み取っていた。
数日間、この一件の事後処理を共同で行ってきたが、二人の仕事のペースは恐ろしいほどに噛み合っていた。
クラリッサが当事者の感情の機微を掬い上げて方針を決め、レオナールがそれを最も確実で冷徹な法的手続きに落とし込む。無駄口を叩かずとも、互いが何を考え、次にどう動くかが手に取るように分かった。
「それにしても、この記録は……」
クラリッサは、レオナールが手元でまとめている分厚い調書に目を落とした。
「ええ。王太子殿下が振りかざした『真実の愛』という耳障りのいい言葉が、個人の正当な権利や財産を不当に奪うための免罪符として悪用された、動かぬ実例です」
レオナールは、冷たい声でそう言い切った。
「殿下はご自身の言葉がどれほど社会の秩序を乱しているか理解していませんが、この調書があれば言い逃れはできません。冬至会議において、王太子の責任を問うための極めて重要な資料になります」
レオナールは調書を閉じ、冬至会議の資料箱へ収めた。
*
その日の夜。
すべての事後処理を終え、クラリッサとレオナールは、王宮の裏門から一台の馬車に同乗して帰路についていた。
王都の街並みはすでに夜闇に包まれ、等間隔に並んだガス灯のオレンジ色の光が、車内を規則正しく照らし出しては消えていく。
「……終わりましたわね」
馬車の心地よい揺れに身を任せながら、クラリッサはポツリとこぼした。
緊張の糸が解けたせいか、二十一歳の身体が急激な疲労を訴え、声が少しだけ掠れていた。
「ええ。お疲れ様でした」
向かいの席のレオナールが、静かに労いの言葉をかける。
「結局、悪者は公衆の面前で裁かれず、私が彼女を助けたことも、誰にも知られないまま終わりましたわね」
「……それが、不満ですか?」
レオナールの問いに、クラリッサはふんわりと笑って首を横に振った。
「いいえ。セレスティナ嬢の平穏が守られたのだから、これが一番良かったのです。……悪役を大声で断罪してスッキリするなんていうのは、当事者ではない見物人の、ただの娯楽でしかありませんもの」
「そうですね」
大声で悪人を裁く爽快感より、当事者の実利と平穏を選んだクラリッサを、レオナールは深く、静かな瞳で見つめていた。
やがて、彼は窓の外に向けていた視線をクラリッサに戻し、ぽつりと呟いた。
「クラリッサ嬢」
「はい」
「……あなたは誰かを救う時、自分が傷つくことや、損をすることを、まったく計算に入れませんね」
その言葉の温度に、クラリッサは思わず息を呑んだ。
レオナールの声は、いつもの冷徹な調停官のものとは違っていた。
それは、クラリッサの自己犠牲にも似たお節介さを愛おしむようであり、同時に、彼女が一人で泥を被ろうとする危うさを、本気で案じているような響きだった。
「私はただ、困っている子を放っておけない質なだけで……」
「ええ。分かっています」
レオナールはそれ以上、褒めも慰めもしなかった。
車内には、車輪が石畳を拾う音と馬蹄の響きだけが続いた。それなのに沈黙は重くなく、クラリッサは肩の力を抜いて座席へ背を預けた。
(明日もこの人と同じ部屋で仕事をするのね)
そう考えただけで胸の奥が少し温かくなり、自分で自分に戸惑った。




