第17話 恋人ではなく、逃がしてくれた友人でした
モレル子爵邸の令嬢の私室は、ひんやりとした静けさに包まれていた。
クラリッサとレオナールは、隠し引き出しから見つかった書類の束を、小さな机の上に並べて精査していた。
「……見事なものです。自分が実母から受け継いだ特有財産である鉱山の一部と、王都の貸家の権利書。それらがいかにして婚約者である男爵家から狙われていたか、日付と内容付きで克明に記録されています」
レオナールが、感心したような、それでいて重苦しい声で言った。
「ええ。男爵家からの手紙の写しには、『結婚前にすべての財産の管理権を譲渡する誓約書にサインしろ』という、脅迫に近い文言までありますわ」
クラリッサは書類から目を離し、部屋の隅で縮こまっている侍女長へ視線を向けた。
「侍女長。セレスティナ嬢と一緒に姿を消したという『若い詩人』についてですが……」
「はい……」
「彼は本当に、ただの詩人なのですか?」
クラリッサの静かな問いに、侍女長は観念したように息を吐き、真実を語り始めた。
「……お嬢様と一緒に発たれたのは、領地にいた頃からの幼馴染の青年です。彼は確かに詩を詠むのが趣味ですが、本業は法律や算術を学んでいる書記官の卵でして……お嬢様は彼を兄のように慕い、この理不尽な財産問題についてずっと相談に乗ってもらっていたのです」
クラリッサは、書類の最後に挟まれていた手記を開いた。
『結婚すれば、すべてを奪われる。私の人生を守るために、私は逃げます』
「馬車と修道院を手配したのは、その青年ですか」
「お嬢様に頼まれて、安全な場所までお送りしただけです。どうか、あの方まで罪人にしないでください」
侍女長は床へ額がつきそうなほど頭を下げた。
クラリッサの扇が、手の中できしんだ。
「罪人にされるべきなのは、別の方々ですわ」
*
翌日の午前。王宮の面会室。
呼び出された男爵とその息子である若い婚約者は、どこか意気揚々とした足取りで部屋に入ってきた。
「クラリッサ様、レオナール公爵閣下。呼び出されたということは、ついにあの恥知らずな女の不貞の証拠が見つかったのですね?」
父親である男爵が、下卑た笑みを隠しきれない顔で身を乗り出す。
「ええ、証拠ならたっぷりと見つかりましたわ」
クラリッサが冷ややかに答えると、男爵親子は「おお!」と歓喜の声を上げた。
「さすがは王室調停官と社交季責任者様です! では、有責による婚約破棄の手続きと、違約金代わりの財産譲渡の書類をすぐにでも――」
「見つかったのは、あなた方の『横領未遂』と『脅迫』の証拠です」
レオナールが氷のような声で告げ、手にしていた書類の束を、バサリとテーブルの上に放り投げた。
そこに記された文字を見た瞬間、男爵親子の顔から血の気が引き、歓喜の表情が凍りついた。
「なっ……こ、これは……っ」
「モレル子爵令嬢の部屋の隠し引き出しから見つかりました。彼女の特有財産を、結婚前に不当な手段で譲渡させようとした手紙の数々。そして、彼女がそれにどれほど怯え、追い詰められていたかを示す手記です」
レオナールの言葉に、息子である婚約者が慌てて声を荒らげた。
「ひ、卑怯だ! 女のくせに、家の財産に執着して裏でこそこそと記録をつけるなど、なんと浅ましい! 妻になるのだから、家長である私がすべてを管理して当然だろう!」
「当然ではありません。特有財産は彼女個人のものです。事前の合意なき強制的な譲渡は、ただの略奪ですわ」
クラリッサは、冷え切った目で婚約者を睨みつけた。
金をすべて握って生活費すら渡さず、そのうえ『誰が養っていると思っている』と威張る。前世でも見た、金で相手を縛る暴力だ。目の前の男は、それと同じ顔をしていた。
「だ、だとしても!」
婚約者は食い下がる。
「彼女が別の若い男と姿を消したことに変わりはない! 王太子殿下のように、真実の愛に狂って俺という婚約者を捨てたんだ! 不貞を働いた女を有責にするのが、社交界のルールだろう!」
ジュリアンが振りかざした「真実の愛」という言葉を、己の強欲を正当化する盾として使おうとする。その卑劣な態度に、クラリッサの中のおばちゃんの怒りが、ついに沸点に達した。
「黙りなさい」
クラリッサの低く、凄みのある一喝に、婚約者はビクッと肩を跳ねさせた。
「愛の逃避行などではありません。一緒にいたのは、彼女が法律の相談をしていた同郷の幼馴染です。これは駆け落ちではなく、あなたの横領から正当な財産を守るための『避難』ですわ!」
「ひっ……!」
「自分の強欲を棚に上げ、弱い立場の令嬢を『不貞の悪女』に仕立て上げて世間の噂を利用しようとするなど、人間の屑のすることです!」
クラリッサは立ち上がり、扇でピシャリとテーブルを叩いた。
「こんな恥知らずな企み、決して許しておけませんわ。今夜の夜会で、この証拠をすべて公開し、あなた方の悪事を社交界の皆様の前で暴いて差し上げます! 貴族社会から完全に追放される覚悟をなさい!」
男爵親子は絶望に顔を歪め、「そ、それだけは……!」「どうかご慈悲を!」とその場に泣き崩れた。
(ええ、絶対に許さない。徹底的に公にして、二度と社交界を歩けないようにしてやるわ!)
クラリッサが息巻いて、さらに追撃の言葉を放とうとした、その瞬間だった。
「……お待ちください、クラリッサ嬢」
ずっと横で黙って聞いていたレオナールが、静かに立ち上がり、クラリッサの前にスッと手を出した。
「レオナール様……? 何を止める必要がありますの。彼らの罪は明白です」
クラリッサが振り返ると、レオナールの静かな視線は、怒るでもなく、ただ静かにクラリッサを見据えていた。
「彼らの罪は明白です。ですが……悪事を、公開すべきではありません」
「なんですって!?」
クラリッサは目を丸くした。
正当な怒りに燃える彼女の言葉を、同じ事実を調べていたレオナールが、真っ向から否定したのだ。




