第16話 駆け落ちした令嬢は、本当に恋をしたのか
ジュリアン王太子が秋の夜会で引き起こした騒動は、本人が謹慎処分を受けている間にも、王都の空気を確実に変えつつあった。
市井の劇場では「身分差を乗り越え、親の決めた婚約を破棄して結ばれる真実の愛」を描いた演目が連日満員となり、若い貴族たちの間でもその言葉は一種の熱病のように蔓延していた。
だが、その熱が単なる流行り言葉の域を超え、ついに具体的な事件を引き起こすことになった。
「――セレスティナ・モレル子爵令嬢が、若い詩人と共に姿を消しました」
王宮の執務室を訪れた王室調停官レオナールは、いつになく厳しい表情でそう告げた。
クラリッサはペンを動かす手を止め、眉をひそめた。
「失踪、ですか? 事件に巻き込まれたのではなく?」
「ええ。屋敷の者は、二人が連れ立って馬車で出立するのを目撃しています。社交界では早くも、『王太子殿下に続いた、真実の愛による駆け落ちだ』と面白おかしく噂が広まっているようです」
クラリッサは深々とため息をついた。
恐れていた事態だ。ジュリアンが公の場で振りかざした免罪符が、家の義務や契約を放棄するための格好の言い訳として使われ始めている。
「それで、調停官殿がわざわざ私のところへいらした理由は?」
「彼女の婚約者である男爵家から、捜索と事態の収拾について、社交季責任者であるあなたと私の双方に要請がありました。今、彼らを別室に待たせてあります」
クラリッサはレオナールと共に、王宮の面会室へと足を運んだ。
そこには、セレスティナの婚約者である若い男爵令息と、彼の父親である男爵が、ハンカチで目元を押さえながら座っていた。
「おお、クラリッサ様、レオナール公爵閣下……! 我が息子の婚約者が、あのような恥知らずな真似をするとは!」
父親の男爵は、クラリッサたちの顔を見るなり、大仰な身振りで嘆き悲しんでみせた。
「まったくです! 彼女はあのうだつの上がらない詩人にたぶらかされたのです! 『真実の愛』などという流行り言葉に踊らされ、神聖な婚約を反故にするなど、決して許されることではありません!」
婚約者である息子も、同調するように語気を強める。
男爵親子の訴えを聞くうち、クラリッサの首筋がじりじりと粟立った。
本当に大切な娘が消えたなら、まず安否を尋ねるはずだ。だが二人の口から出るのは、『不貞』『駆け落ち』という決めつけばかりだった。
その違和感の正体は、男爵の次の一言で完全に露呈した。
「公爵閣下。あのような不貞を働いた女を、我が家に迎えるわけにはいきません。明らかな有責による婚約破棄です。ついては、事前の婚約契約に基づき、彼女が実母から相続する予定だった領地の一部や財産の管理権は、慰謝料としてこちらへ移されるべきだと考えます」
クラリッサは、思わず扇を握る手に力を込めた。
(なるほど、そういうことね)
悲劇の被害者面をしているが、彼らの本当の目的は令嬢を取り戻すことではない。彼女を『真実の愛に狂って駆け落ちした有責者』に仕立て上げ、その財産を合法的に奪い取ることだ。
「……お言葉ですが、男爵」
レオナールが、一切の感情を排した氷のような声で応じた。
「ご令嬢が本当に駆け落ちをしたのか、それとも別の事情があるのか。事実確認が済む前に、財産の移行など認められるはずがありません。王室調停官として、まずは厳正な調査を行わせていただきます」
「そ、それはそうですが……あれだけ世間で噂になっているのですよ?」
「噂で法は動きません。お引き取りを」
レオナールの有無を言わせぬ一瞥に、男爵親子は舌打ちを飲み込み、そそくさと面会室を後にした。
扉が閉まり、足音が遠ざかったのを確認すると、クラリッサはレオナールに向き直った。
「……どう思われますか、調停官殿」
「どうもこうもありません。あれは、婚約者を心配する人間の顔ではない」
レオナールもまた、呆れたように小さく息を吐いた。言葉を尽くすまでもなく、二人の意見は完全に一致していた。
「駆け落ちというより、財産目当ての罠か……あるいは、令嬢が何らかの理由で逃亡を図ったと考えるのが自然ですね」
「ええ。『真実の愛』という流行を隠れ蓑にして、私欲を満たそうとしている者がいるわ。社交界の風紀を預かる者として、私も見過ごせません」
クラリッサが毅然と告げると、レオナールは微かに口角を上げた。
「心強い。では、共同で事実確認に当たりましょう」
その日の午後、クラリッサとレオナールは、セレスティナの実家であるモレル子爵邸を訪れた。
当主である子爵は領地に滞在中で不在だったため、屋敷は混乱の極みにあった。二人は侍女長を落ち着かせ、令嬢の残された私室に案内してもらった。
部屋の中を見渡したクラリッサは、すぐに一つの結論に達した。
「……これは、情熱に任せた衝動的な駆け落ちではありませんわね」
「同感です」
レオナールが頷く。部屋には争った形跡も、慌てて荷物をまとめたような散乱もなかった。貴重品や当面の着替えなど、逃亡に必要なものだけが極めて冷静に、周到に持ち出されている。
「それに、一緒に姿を消したという『若い詩人』のことですが」
クラリッサは、先ほど侍女たちから聞き出した証言を口にした。
「彼は、令嬢が幼い頃から領地で家族ぐるみの付き合いがあった、同郷の幼馴染だそうですわ。燃え上がるような恋の相手というよりは、『一番信頼できる友人』という立ち位置のようです」
「なるほど。状況証拠は揃いつつありますね」
レオナールが部屋の棚を調べている間、クラリッサは令嬢の書物机の周りを確認していた。
もし、本当に「真実の愛」に狂った駆け落ちなら、相手と交わした情熱的な恋文の一つくらい、隠してあるはずだ。
クラリッサは、机の引き出しの奥に、巧妙に二重底になっている部分があるのを見つけた。
「レオナール様、こちらを」
隠し引き出しの中から出てきたのは、分厚い書類の束だった。
一番上の表紙には、震える筆跡で『セレスティナ・モレル所有財産目録』とある。
その下には婚約者の家の印が押された書状が重なり、結婚前に鉱山と貸家の管理権を譲るよう迫っていた。
「恋文ではありませんね」
レオナールの声が低くなる。
クラリッサは次の一枚をめくった。そこに残された短い記録を読み、息を止めた。




