第15話 愛しているなら、説得すればいい?
ミレーヌの言葉を廊下で聞いてから数日後。
公式聴取の席に現れたジュリアンは、眠れていない顔をしていた。それでも目には、まだ捨てきれない期待が残っている。
「僕は考えた。彼女が恐れているのは王太子妃の責務だ。ならば、僕がもっと支えればいい。それでも駄目なら……王太子位を退くことも、選択肢には入ると思っている」
以前のような大演説ではなかった。だが、結論を本人より先に決めていることは変わらない。
「殿下。ミレーヌ嬢は、説得してほしいと申しましたか」
「言ってはいない。だが僕が諦めたら、彼女を見捨てることになる」
「断られた相手から離れるのは、見捨てることではありません」
クラリッサの言葉に、ジュリアンは唇を結んだ。
レオナールが机へ三枚の紙を並べる。一枚目は王太子家の歳費、二枚目は国境軍の配置、三枚目は王室が保証する交易契約だった。
「退位後の収入は」
「領地を一つ賜れば――」
「誰が運営します」
「それは、代官を」
「報酬は。凶作時の備蓄は。あなたが抜けることで宙に浮く軍と条約の引き継ぎは」
ジュリアンの答えが止まった。
「王位は、恋人へ差し出す花束ではありません。捨てれば、下で支えている者の暮らしまで地面へ落ちる」
長い沈黙の末、ジュリアンは三枚の紙へ目を落とした。
「……この数字を、僕は読めていなかった」
「読もうとしなかったのです」
「叔父上。写しを、部屋へ持ち帰ってもいいですか」
反論ではなく、初めて出た質問だった。
レオナールは書記官に写しを作るよう命じた。成長と呼ぶには小さすぎる。それでもクラリッサは、その一歩を笑わなかった。
聴取の後、クラリッサとレオナールは地味な外套へ着替え、王都の南通りへ出た。
報告書だけでは分からないものを確かめるため、噂の恋愛劇を自分たちの目で見ることにしたのだ。
劇場前には、開演前から若者の列ができていた。屋台は『真実の愛の蜜菓子』を売り、露天商は王子と可憐な娘を描いた安物の版画を掲げている。冷酷な婚約者役の女だけが、鼻を尖らせた醜い顔に描かれていた。
「ずいぶん似ておりませんわね、私」
「鼻の角度は、王太子殿下の方に似ています」
レオナールが真顔で返し、クラリッサは外套の襟に顔を埋めて笑いを堪えた。
劇が始まる。
王子役が「愛のためなら王冠など捨てる」と叫ぶと、客席は足を鳴らして沸いた。婚約者役が契約や家の責任を口にすれば、果物の皮まで飛んだ。
クラリッサは笑えなくなった。
幕間、すぐ後ろにいた若い令息が恋人へ囁いた。
「僕も家へは何も言わない。先に町を出よう。真実の愛なら、後から認めさせられる」
娘の顔には喜びより困惑が浮かんでいたが、舞台の歓声にかき消され、令息は気づかない。
クラリッサが振り向きかけると、レオナールが袖を軽く引いた。
「ここで一組を叱っても、明日は別の十組が同じ台詞を使います」
「……分かっています」
二人は劇場支配人から脚本の初稿と改訂記録を買い取り、外へ出た。初稿にはなかった『王冠を捨てる』という台詞が、夜会の三日後に追加されていた。
帰り道、クラリッサは賑わう看板を振り返った。
「一人の思いつきが、菓子と版画と台詞になって売られていくのね」
「ええ。だから上に立つ者は、自分の言葉が自分だけのものではなくなることを知らなければならない」
冬至会議に提出する資料へ、紙の数字だけではない一項目が加わった。
劇場の歓声。その場にいた若者の言葉。そして、困っていた娘の顔。
ジュリアンには、いずれあの席へ座ってもらう。
自分が始めた物語を、客席から最後まで見てもらうために。




