第14話 好きです。でも、王太子妃にはなりたくありません
「西部のサリス伯爵家からの寄付金ですが、昨年の実績から二割減額されています。その代わり、彼らが推している新しい商会の品を晩餐会で使ってほしいとの要望が」
「寄付の減額は今年の不作を考慮すれば妥当です。商会の品については、品質を王室御用達の基準で厳格に審査させなさい。基準を満たせば前菜の香辛料として採用、満たさなければ却下。その旨を伯爵へ角が立たないよう通達して」
「はっ。次に、東国からの使節団の歓迎式典ですが、隣国の公使が『席順が我々より上座なのは納得いかない』と苦情を申し立てております」
「隣国公使の席は変えません。我が国と東国との通商条約締結が目前であることはご存知のはず。ただし、式典後の小夜会では隣国公使を国王陛下の最も近くに配置し、面目の釣り合いを取ります。スケジュールの再調整を」
王宮に設けられた社交季運営のための執務室。
クラリッサは次々と運び込まれる決裁書類に目を走らせながら、数人の文官を相手に、淀みなく秒単位で裁定を下していた。
予算のすり合わせ、各派閥のパワーバランスを考慮した席順の調整、外国使節の好みに合わせた食材の手配、貴族間の水面下の諍いの仲裁。
これらはすべて、秋の社交季を滞りなく進めるために必要な裏方の仕事だ。
その執務室の隅に置かれたソファーで、一人の少女がすっかり言葉を失い、青ざめた顔で座っていた。
王妃からの依頼で、一日実地見学に同行させているミレーヌ・ベル男爵令嬢である。
彼女の目には、クラリッサが何十人もの人間を動かし、何千万という金と国同士の利害を瞬時に天秤にかけていく姿が、まるで異次元の光景のように映っているはずだ。
やがて、午前中の急ぎの決裁がすべて終わり、クラリッサが「少し休憩をいただきます」と告げると、文官たちは一斉に深く一礼して退室していった。
静寂が戻った執務室で、クラリッサはペンを置き、凝り固まった肩を軽く回した。
「……お疲れ様。退屈だったかしら、ベル男爵令嬢」
「い、いえ……!」
ミレーヌは弾かれたように姿勢を正し、両手を膝の上で握りしめた。
「あの、クラリッサ様は、毎日このようなお仕事を……?」
「ええ。社交季の間は特に忙しいけれど、それ以外の時期も、各領地の陳情を聞いたり、外交の事前準備をしたりと、休む暇はあまりないわね」
クラリッサは立ち上がり、侍女が用意してくれていた紅茶のポットから、自分とミレーヌのカップに温かいお茶を注いだ。
「これが、王太子妃が日常的にこなすべき実務の、ほんの一部よ」
カップをミレーヌの前に置き、クラリッサは淡々と告げた。
「華やかなドレスを着て、殿下に微笑みかけて、優雅にお茶を飲むだけが仕事ではないの。国と家の利害を背負い、個人の感情を殺して決断を下し続ける。一歩間違えれば、派閥争いや国際問題に発展する。……それが、王族の『役割』よ」
ミレーヌの肩が、ビクリと震えた。
大茶会で東国の茶器の解説をしたのとは、次元が違う。自分の判断一つで、大勢の人生や国の行方が左右されるプレッシャー。
彼女は、紅茶の液面を見つめたまま、俯いてしまった。
「ジュリアン殿下は、『僕が支えるから大丈夫だ』とあなたに仰ったわね」
クラリッサの声に非難の色はなかった。ただ、事実だけを述べている。
「殿下は優しい方よ。でも、殿下ご自身が、この実務の泥臭さや重責を本当の意味で理解していない。王太子妃の仕事は、愛や優しさだけで乗り切れるものではないわ」
ミレーヌは、唇を噛み締めた。
ジュリアンから情熱的に愛を囁かれ、きらびやかな夜会で手を取られた時、彼女は夢を見ているような心地だったのだろう。「自分は選ばれた特別な存在なのだ」と。
だが、その『特別』の裏側には、到底背負いきれない鋼鉄の重りがあった。
「ミレーヌ嬢。王妃陛下は、あなたにこの現実を知ってほしいと望まれた」
クラリッサは、ゆっくりと紅茶を口に含み、静かに問いかけた。
「それを踏まえた上で。……あなた自身は、どうしたいの?」
執務室に、重い沈黙が落ちた。
以前のクラリッサなら、「あなたのような下級貴族に務まるわけがないのだから、身の程を知りなさい」と答えを押し付けていたかもしれない。セリアの時のように、先走って「私が断ってあげましょう」と言ってしまっていたかもしれない。
だが、今は違う。
クラリッサは沈黙に耐え、ただひたすらに、ミレーヌ自身が答えを出すのを待った。
どれほどの時間が経っただろうか。
ミレーヌは、ポツリと、震える声で口を開いた。
「……私は、ジュリアン殿下のことを、お慕いしております」
それは、保身のための嘘でも、権力への媚びでもない、一人の少女の純粋な恋心だった。
「私のような者にも優しく声をかけてくださり、真っ直ぐに愛を伝えてくださるお姿に、心惹かれました。……好きです。そのお気持ちに、嘘はありません」
クラリッサは黙って頷いた。
だが、ミレーヌはゆっくりと顔を上げ、涙の滲む瞳でクラリッサを真っ直ぐに見つめ返した。
「でも……私には、王太子妃というお役目は務まりません」
「……」
「今日、クラリッサ様のお仕事ぶりを拝見して、はっきりと分かりました。あの方の隣に立って、この国を背負う覚悟なんて、私には……ありません。殿下のお気持ちは嬉しくても、そのお立場を引き受けることは、私には絶対にできません」
「そう」
クラリッサは、それを褒めることも、否定して同情することもなかった。ただ、一人の自立した人間の意思として、静かに受け止めた。
「それが、あなたの出した答えなのね」
「はい……」
ミレーヌが安堵したように息をつき、涙を拭った、その時だった。
少しだけ開け放たれていた執務室の重い扉の向こう側から、ガタッと何かがぶつかるような音がした。
クラリッサが視線を向けると、扉の隙間から、見覚えのある金糸の髪と、青ざめて硬直した横顔が見えた。
(……ジュリアン殿下)
クラリッサは内心で小さく息を飲んだ。
おそらく、別件の公務の聴取か何かで、近くの部屋に呼び出されていたのだろう。たまたま廊下を通りかかり、ミレーヌの声を偶然聞いてしまったに違いない。
『好きです。でも、王太子妃にはなりたくありません』
その言葉は、ジュリアンの価値観を根底から破壊するには十分すぎる威力を持っていた。
彼にとって、「愛しているなら、当然僕の隣(王太子妃)を望むはずだ」というのは、疑いようのない大前提だったのだから。
自分が与えようとした「真実の愛」と「最高の地位」が、ミレーヌにとっては喜びではなく、到底背負えない恐怖でしかなかったという事実。
「ミレーヌ……っ」
扉の向こうで、ジュリアンの掠れた声が聞こえた。
彼が思わず執務室の中へ踏み込もうと一歩を踏み出した気配がする。
しかし、すぐさまその動きは阻まれた。
「お待ちください、殿下」
付き従っていた侍従の、冷徹な制止の声が響く。
「殿下は現在、ミレーヌ・ベル男爵令嬢との私的接触を禁じる仮処分の身でございます。これ以上の接近は、王室調停官への報告義務が生じます」
「だ、だが、僕は彼女と話さなければ……!」
「なりません。ご自室へ戻られますよう」
事務的で冷酷な規則の壁が、ジュリアンを立ち止まらせた。
彼には、執務室へ飛び込んでミレーヌを問い詰める権利も、愛を叫んで無理やり説得する権利もない。王族としての契約を軽んじた代償が、ここで彼の手足を完全に縛り付けていた。
「……」
扉の隙間から見えていた影が、力なく俯くのが分かった。
ジュリアンは冷たい石造りの廊下に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。
『好きでも、王太子妃にはなりたくない』。
彼にとっては矛盾でしかないその残酷な真実だけを胸に抱えたまま、王太子は音もなく、その場から足を引きずって去っていった。
クラリッサは、扉の向こうの気配が完全に消えるのを静かに見届けてから、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。
(さあ、ジュリアン殿下。愛しているなら説得すればいい、なんていう乱暴な理屈が通用しないと知って……あなたはどうするおつもりかしら?)
大人の階段の前に突き落とされたかつての婚約者に、クラリッサは少しだけ同情にも似た問いを向けていた。




