第13話 王妃様も、聞かれたことがなかった
王宮奥のエレノア王妃の私室は、装飾より執務机と書棚が幅を利かせていた。開いたままの外交文書には、王妃自身の細かな書き込みが並んでいる。
「よく来てくれましたね、クラリッサ」
上品な刺繍が施されたソファーで出迎えてくれたエレノア王妃は、威厳に満ちた声でクラリッサを労った。
「お招きいただき、光栄に存じます。王妃陛下」
クラリッサが完璧なカーテシーを披露すると、王妃の隣に座っていた少女もスッと立ち上がり、優雅に礼を返した。
「ごきげんよう、クラリッサ様。本日はご一緒させていただけて嬉しいですわ」
ジュリアン王太子の妹である、アメリア王女だった。
十八歳になったばかりの彼女は、兄のような派手な華やかさこそないものの、知性を感じさせる涼やかな顔立ちをしている。何より、背筋をピンと伸ばして座るその凛とした姿には、王族としての強い責任感が滲み出ていた。
(……昔の私に、そっくりね)
クラリッサは内心で少しだけ苦笑した。
ジュリアンに婚約破棄を突きつけられる前――つまり前世の記憶を取り戻す前の『クラリッサ・アルヴェイン』も、アメリアのように常に気を張り詰め、役割を完璧にこなすことだけを考えて生きていたのだから。
「さあ、かけてちょうだい。あなたには、今季の社交を一人で背負わせてしまって申し訳なく思っているのですよ」
「とんでもございません。私が私のために選んだ仕事ですから。……それで、本日のご用件は何でしょうか? ミレーヌ・ベル男爵令嬢の教育について、ご相談がおありとのことでしたが」
クラリッサが席につくと、王妃の筆頭侍女が手際よく香りの良い紅茶を注いで下がった。
王妃はカップの縁を指でなぞりながら、静かに本題を切り出した。
「ええ。ジュリアンを惑わせたあの娘について、あなたに頼みがあるのです」
王妃の言葉に、アメリア王女の表情が少しだけ強張ったのが見えた。兄の不祥事は、真面目な彼女にとっても心苦しいものなのだろう。
「ジュリアンは謹慎中も、『ミレーヌを王太子妃として教育してくれ』『彼女なら立派にやれる』と寝言のような手紙を私に送ってきています。あの愚か者は、王太子妃という立場がいかに重く、血を吐くような努力を要求されるものか、まったく理解していない」
「……はい」
「だからこそ、クラリッサ。あなたにお願いしたい。ミレーヌ嬢を一日、あなたの社交季の公務に同行させ、王太子妃の役割という厳しい現実を、実地で彼女に見せてやってほしいのです」
それは、いわば『現実という名の冷水』を浴びせる役割だった。
「私でよろしいのですか?」
「あなただから頼むのです。他の者に任せれば、おそらく嫌がらせやいびりの場になってしまうでしょう。今のあなたなら、ただ淡々と『現実』だけを見せることができるはずですから」
王妃は、そこで声をわずかに硬くした。
「ただし、一つだけ約束してちょうだい。厳しい現実を見せるのは構いません。ですが、それを見た彼女がどうするか、その『答え』はあなたが決めないで」
返事をするまでに、一拍かかった。レオナールから投げつけられた「傲慢」という言葉が、まだ痛む。
「承知いたしました。私はあくまで、彼女に判断材料を提示するだけに留めます」
「ええ、頼みましたよ」
王妃は紅茶を一口飲むと、ふと目を細めて窓の外の空を見つめた。
「最近のあなたは、トラブルを裁定する際、必ず『本人の意思』を確認しているそうですね。それはとても素晴らしいことです。……私が国王陛下に嫁いだ時、『王妃になりたいか』などと意思を聞く者は、この王宮に一人もいませんでしたからね」
その穏やかな告白に、クラリッサは少し驚いて王妃を見た。
「王妃陛下も、聞かれなかったのですか?」
「ええ。当時の私は有力な公爵家の娘で、ただ国と家のために決められた『役割』だった。そこに個人の感情を挟む余地などありませんでした」
政略結婚。それは、今の若い貴族たちが「愛がない」と忌み嫌い、ジュリアンが「古い因習だ」と切り捨てたものだ。
だが、王妃の顔に悲壮感はなかった。
「それでも、私は今の結婚を不幸だとは思っていませんよ」
王妃は、優しく、しかし確固たる誇りを持って微笑んだ。
「役割を果たすために共に過ごす中で、情愛は後からでも十分に育むことができました。陛下とは、今では良き戦友であり、夫婦です。何より、この国を根底から支えているという自負があります。……政略結婚だからといって、必ずしも人が不幸になるわけではないのです」
クラリッサの脳裏に、前世の台所が浮かんだ。
夫とは見合いに近い出会いだった。けれど子どもが熱を出した夜には交代で抱き、給料日前には二人で家計簿を覗き込み、焦がした鍋をどちらが洗うかで笑った。
(あれも、ちゃんと愛だったわ)
「……王妃陛下のおっしゃる通りですわ」
クラリッサたちがしんみりとした空気に包まれていた時、ずっと黙って話を聞いていたアメリア王女が、凛とした声で口を開いた。
「王妃教育が、身を削るほど厳しいものであることは存じております。ですが、王族として生まれたからには、国のために必要な縁談を受けるのは当然の義務ですわ。そこに、個人の『なりたい』『なりたくない』という意思など、本来必要ないはずです」
アメリアの声に迷いはない。だが、カップの取っ手を握る指だけが白くなっていた。
泣くなと命じられ、背筋だけを伸ばしていた八歳の自分が重なる。
(……危ういわ)
クラリッサは何も言わず、その横顔を覚えておくことにした。
やがて茶会も終わりに近づき、数日後の公務にミレーヌを同行させる具体的な段取りがまとまった。
「では、お茶会の手配や事前の連絡は、私が整えておきますわ」
「ええ。よろしく頼みます」
クラリッサが立ち上がり、優雅なカーテシーをして退出の挨拶をした時だった。
扉へ向かって歩き出したクラリッサの背中に、エレノア王妃が静かに、しかし深い重みを持った声をかけた。
「クラリッサ」
「はい」
「好きな人と結婚することと、その人の役割を背負うことは、同じではありません」
クラリッサは振り返り、王妃の真意をはかるように視線を合わせた。
「あの男爵令嬢に……ミレーヌ嬢に、その違いを分からせてあげてください」
「……かしこまりました」




