第12話 白い結婚なら、二人とも同じ意味ですか?
セリア嬢の婚約条件交渉を無事にまとめた翌日の午前中。
午後には王妃から招待された私的な茶会を控えているため、クラリッサは王宮のサロンの一角を借りて、早急に処理すべき書類仕事を進めていた。
そこへ、一人の若い令嬢――いや、数ヶ月前に結婚したばかりの新妻が、侍女に付き添われて駆け込んできた。
「クラリッサ様……っ、どうか、お助けください……!」
エマ・ランドル子爵夫人。まだ十八歳の彼女は、化粧が崩れるのも構わずに泣きじゃくっていた。
クラリッサはペンを置き、すぐに彼女を人目のつかないパーテーションの奥の席へと導いた。
「落ち着いて、エマ夫人。何があったの?」
「夫が……ルーカス様が、私に『白い結婚』を宣言したのです! 初夜の寝室で、『君を愛することはない。指一本触れないと誓おう』と冷たく言い放たれました……っ。私、妻として完全に拒絶されているのです。もう、実家に帰りたい……!」
エマは両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
親同士が決めた政略結婚で、夫から「愛さない」「触れない」と冷酷に言い渡される。それは、貴族の恋愛劇において最も定番とも言える悲劇の始まりだった。
だが、クラリッサは同情する前に、微かな違和感を覚えていた。
(エマ夫人の旦那様であるルーカス子爵って、確か王宮の財務局で働いている、ひどく実直で真面目な方よね。彼が、ただの悪意で若い妻を虐げるとは思えないのだけれど……)
「……とりあえず、お相手の言い分も聞いてみましょう」
クラリッサは侍従を呼び、財務局の執務室にいるはずのルーカス子爵をサロンへ呼び出させた。
数分後、慌てた様子でやってきたルーカスと共に、なぜか王室調停官のレオナールまでがふらりと姿を現した。
「揉め事の気配がしましたのでね。立会人が必要でしょう?」
レオナールがしれっと隣の椅子に腰を下ろすのを横目に、クラリッサはルーカスに向き直った。
「ルーカス子爵。単刀直入に伺います。あなたはエマ夫人に、『白い結婚』を宣言されたそうですね?」
ルーカスは気まずそうに視線を逸らし、コクンと頷いた。
「……はい。確かに、初夜の日にそう告げました」
「ひどい……っ」
エマが再び泣き出しそうになるのを手で制し、クラリッサは二人を交互に見つめた。
「では、お二人に質問です。お二人にとって『白い結婚』とは、具体的にどのような意味なのでしょうか? 流行りの言葉ではなく、あなた方ご自身の言葉で説明しなさい」
その問いに、夫婦はポカンと顔を見合わせた。
「意味、ですか?」とエマが戸惑いながら口を開く。
「それは……私が女として魅力がないから、抱きたくないし、妻として愛することもできない、という意味です。私の存在そのものを拒絶する言葉ですわ」
エマの悲痛な声に、ルーカスが雷に打たれたように目をひん剥いた。
「なっ……違う! そんな意味で言ったんじゃない!」
ルーカスは慌てて身を乗り出し、必死の形相で弁明を始めた。
「エマはまだ十代で、実家の借金の肩代わりとして、私のような十歳も年上の面白みのない男の元へ嫁がされたんだ。そんな彼女に、無理やり夫婦の義務を強要するなんて、あまりにも可哀想じゃないか!」
「え……?」
「だから、彼女の自由を最大限に尊重し、私が無理に手を出さない(指一本触れない)と約束したんだ。いずれ彼女が王都の生活に慣れて、本当に好きな相手ができたなら、離縁してそちらへ行けるように(愛さない=妻という立場に縛り付けない)、私なりの最大の配慮をしたつもりだったんだぞ!?」
沈黙が落ちた。
エマは涙を引っ込め、ポカンと口を開けて夫を見つめている。
「……つまり、旦那様は、私を嫌っていたわけではないのですか?」
「嫌うわけがないだろう! 君のように可憐で素直な娘が妻になってくれて、私は夢のように嬉しかった。だが、私のエゴで君の未来を潰したくなかったんだ!」
「ルーカス様……っ! 私、ルーカス様のこと、結婚前からずっとお慕いしておりましたのに……! 私を遠ざけようとするから、嫌われているのだとばかり……!」
ポロポロと、今度は嬉し泣きの大粒の涙がエマの頬を伝い落ちた。
ルーカスは「えっ、そうだったの?」と完全に間抜けな声を出し、慌てて懐からハンカチを取り出して妻の涙を拭い始めた。
隣に座るレオナールが、小さく息を吐いて肩をすくめるのが見えた。
(……ほらね。やっぱり、言葉の定義が違っていただけじゃない)
クラリッサは深くため息をつき、扇で机を軽く叩いて二人の注意を引いた。
「お分かりになりましたね。お二人は、『相手への気遣い』の方向が致命的にすれ違っていただけです」
「はい……お恥ずかしい限りです」
「『白い結婚』だの『真実の愛』だの、劇の台詞のような曖昧な言葉に逃げるのはやめなさい。夫婦になったのですから、自分はどうしたいのか、相手にどうしてほしいのか、具体的で分かりやすい言葉で話し合うべきです」
クラリッサの説教に、ルーカスとエマは揃って深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。クラリッサ様に聞いていただかなければ、取り返しのつかないことになっておりました」
エマは真っ赤な顔で立ち上がり、ルーカスの腕を抱きしめた。
「では……あの、今夜から、その……これからのことを、たくさん話し合ってみます」
「あ、ああ……そうだな」
顔を真っ赤にして見つめ合う新婚夫婦は、何度もクラリッサにお礼を言いながら、足早にサロンを去っていった。
パーテーションの奥には、クラリッサとレオナールの二人だけが残された。
「見事な調停でした。さすがです」
レオナールが、ティーカップを傾けながら静かに微笑む。
「お恥ずかしい。ただの言葉足らずの喧嘩ですから、私が口を挟むまでもなかったかもしれませんわ」
「いいえ。あのままなら、彼らは勘違いしたまま離縁していたでしょう」
レオナールはカップをソーサーに置き、ふと、その黒い瞳でクラリッサを真っ直ぐに見つめた。
「それにしても」
「はい?」
「他人の結婚や恋愛は、あれほど見事に整理して解決に導くというのに……ご自分の恋愛となると、ずいぶんと放置されているのですね」
「……え?」
クラリッサの思考が、一瞬だけ完全に停止した。
レオナールの声は、普段の冷徹な調停官のものとは違っていた。少しだけ意地悪で、それでいて、どこか甘さを帯びた、大人の男の声だった。
ドクン、と。
心臓が、自分でも驚くほど大きな音を立てて跳ねた。
前世の四十九年間の人生で、クラリッサは「激しい大恋愛」などしたことがなかった。お見合いに近い形で堅実な夫と出会い、生活を共にし、家族としての情愛を育んできただけだ。
今生の二十一年の人生でも、ジュリアンとは幼い頃からの政略婚であり、常に「未来の王妃としての評価」だけを気にして生きてきた。
だから――。
三十代の、成熟した知性と落ち着きを持つ魅力的な男性から、こんな風に『異性』として真っ直ぐに意識を向けられた経験など、クラリッサの二つの人生のどこを探しても、存在しなかったのだ。
「な、何を仰いますの! 私は今、婚約停止中の身。恋愛などと、そんな不謹慎な……!」
クラリッサは、自分が信じられないほど上擦った声を出していることに気づき、顔がカッと熱くなるのを感じた。
レオナールは、微かに目元を和らげただけだった。
「そうですね。……今はまだ、冬至会議までは、そういうことにしておきましょう」
その言葉の奥にある意味を考えたくなくて、クラリッサは勢いよく立ち上がった。
「し、失礼いたします! 午後からは王妃様のお茶会に招かれておりますので、準備がございますの!」
これ以上彼と一緒にいたら、ペースを完全に乱されてしまう。
クラリッサは、逃げるようにパーテーションの奥から飛び出した。
背後から、レオナールの静かな笑い声が聞こえたような気がして、クラリッサはさらに歩みを速めた。




