第11話 結婚は、条件を話しても壊れません
王宮の西翼にある、豪奢なタペストリーが飾られた応接室。
長方形のテーブルを挟んで、セリアの家族と、彼女の婚約者となる北部領主の伯爵とその親族が向かい合って座っていた。
クラリッサは上座の端に『立会人』として席を取り、静かに事の成り行きを見守っていた。
「伯爵殿。この度は、娘が急にこのような場を設けたいなどと我が儘を申し立てまして、誠に申し訳ございません」
開口一番、平謝りしたのはセリアの父親だった。彼はクラリッサの存在があるため強く出られないものの、額に汗を浮かべ、家同士の体面を気にして縮こまっている。
一方、十歳以上年上の伯爵本人は、落ち着いた身なりで、威圧感のない誠実そうな顔立ちをしていた。彼は戸惑ったようにセリアの父親を制した。
「いえ、構いません。ただ、セリア嬢がこの婚約に何らかの不安を抱いておられると伺い、私も驚いておりまして。……私に至らない点があったのなら、どうか率直に聞かせていただきたい」
伯爵の温和な声に促され、全員の視線がセリアに集まった。
セリアは膝の上で両手を握りしめ、顔を青ざめさせている。
クラリッサの唇が開きかけ、閉じた。今日は、隣で話を遮られないよう見張る係だ。
代わりに一度だけ、セリアへ頷いた。
その視線を受け取ったセリアは、一つ深呼吸をすると、震える手で用意してきた書類をテーブルの中央に差し出した。
「伯爵様。私……結婚そのものが嫌なわけでは、決してないのです。伯爵様はとても誠実でお優しい方だと存じておりますから」
「では、何が……」
「怖いのです。結婚すれば、私は遠い北部の領地に定住することになります。王都にいる家族や友人と、二度と会えなくなってしまうのではないかと……それが、不安で」
セリアは涙声になりながらも、決して目を逸らさなかった。
「それに、私には亡き母から受け継いだ私有財産がございます。大した額ではありませんが、母の形見です。……遠方へ嫁げば、その管理権もすべて婚家に奪われ、自分の自由になるお金や思い出の品が手元に残らないのではないかと。その二つが、どうしても不安なのです」
セリアの言葉が響き終わると、応接室に静寂が落ちた。
「お前、伯爵殿に向かって――」
父親が息を吸った瞬間、クラリッサは焼き菓子の皿をすっと差し出した。
「お父様も、まず一口いかが?」
「な、なぜ今……」
「声を荒らげるより先に、最後まで聞いてくださいな」
「……ああ」
その横で、伯爵がようやく何かに気づいたように目を見開いた。
「そうか……恥ずかしながら、君をそこまで不安にさせていたとは、まったく気づかなかった。私の配慮不足だ。本当にすまない」
伯爵は、怒るどころか、心底申し訳なさそうに深く頭を下げたのだ。
「え……?」
セリアが拍子抜けしたように瞬きをする。
「北部の冬は雪深く、社交もままならない。だから、冬の間は王都のタウンハウスに滞在してもらい、こちらの家族や友人と過ごしてもらおうと考えていたんだ。手続きを急いだのも、雪が降る前に君を安全に迎え入れたかったからで……説明が足りていなかったね」
「冬の間は、王都に……?」
「ああ。それに、君の母君の形見の財産を取り上げるような真似など、絶対にしない。君の特有財産は、結婚後も君個人の名義で管理すればいい。……そんな不安を抱えたまま嫁がせようとしていたなんて、私はなんと愚かだったのか」
セリアの目から、張り詰めていた涙がこぼれた。伯爵が差し出したハンカチを、今度は迷わず受け取る。
王都で過ごす時期、母の形見の名義、婚家で担う仕事。二人は一項目ずつ確かめ、最後にそれぞれの手で確認書へ署名した。
「結婚前に聞いてくれてよかった。これで私も、君を迎える準備を間違えずに済む」
「私も……知らないまま怖がらずに済みます」
帰り際、セリアは自分の署名を指でなぞり、晴れやかな顔で一礼した。
クラリッサはその写しを、冬至会議へ提出する運営記録に綴じた。自分の演説より、震えながら書かれたセリアの筆跡の方が、ずっと雄弁だった。
「あの……クラリッサ様」
不意に背後から声をかけられ、クラリッサが振り返ると、そこに一人の令嬢が立っていた。
本日の顔合わせに、セリアの精神的な支えとして同席していた彼女の友人、ロザリー・ヴァレル伯爵令嬢だ。
十九歳の彼女は、社交界の華やかな噂話よりも、博物学や薬草の研究に熱中しているという、少し変わった令嬢として知られていた。
「どうしたの、ロザリー嬢? セリア嬢の婚約がまとまって、本当に良かったわね」
「はい……! あの、少しお聞きしてもよろしいでしょうか」
ロザリーは、興奮したように目を輝かせ、テーブルの上の確認書を見つめていた。
「もし、結婚後も自分の研究を続けたいとか、研究費を出してほしい、採集旅行に行かせてほしいと望む場合も……婚約の前に『条件』として、あのように契約書に書けるのでしょうか?」
その具体的な質問に、クラリッサは少しだけ目を丸くした。
貴族の令嬢が結婚後に学問や研究を続けることは、決して一般的ではない。だが、クラリッサは前世で「結婚したら仕事を辞めるのが当然」という古い価値観と戦いながら働き続けた経験がある。
「ええ、もちろんよ」
クラリッサは、ロザリーの真剣な瞳に向かって力強く頷いた。
「家同士の取り決めに反しない限り、双方の合意があればどんな条件でも文書化できますわ。後から『そんなはずじゃなかった』と嘆くくらいなら、最初に希望をすり合わせておくべきですもの」
「双方の、合意……」
ロザリーは、何かを自分に言い聞かせるようにその言葉を反芻し、「ありがとうございます!」と深くお辞儀をして去っていった。
*
執務室に戻ったクラリッサは、ソファーへ体を沈めた。
代わりに話すより、黙って待つ方がずっと疲れる。けれど、セリアの最後の笑顔を思えば悪くない疲れだった。
「レオナール様の言う通り、少しは私も学習できたかしらね」
一人ごちて温かい紅茶に口をつけた時、執務室のドアがノックされた。
「クラリッサ様。エレノア王妃陛下の筆頭侍女様が、お見えでございます」
侍女が銀盆に載せて持ってきたのは、王室の正式な文書ではなく、封蝋だけが押された一通の私的な手紙だった。
『明日の午後、私的な茶会へご招待します』
王妃からの直筆のメッセージだった。
クラリッサは姿勢を正し、短い文面の続きに目を走らせる。
『ミレーヌ・ベル男爵令嬢の今後の教育について、あなたに相談があります。……明日は、アメリアにも同席させます』
アメリア王女。
王太子ジュリアンの妹であり、十八歳になったばかりの、ひどく聡明で責任感の強い少女だ。
王族の恋愛劇に巻き込まれたミレーヌの処遇、そして、アメリアの同席。
ミレーヌの処遇と、責務を疑わないアメリア。二つの問題が、クラリッサの中で一本の線につながった。




