第10話 止めてほしいとは、言っていません
「年上の方との婚約について、ご相談したいことがございます」
執務室に現れたセリア伯爵令嬢は、眠れていない顔をしていた。クラリッサは書類を脇へ寄せ、侍女に温かいハーブティーと、砂糖を多めにした焼き菓子を頼んだ。
「空腹のまま人生相談をすると、ろくな結論にならないの。まず一口」
命じる口調なのに、不思議と怖くない。セリアは小さく笑い、焼き菓子を半分食べてから話し始めた。
婚約相手は、王都から馬車で数日かかる北部領主。十歳以上年上で、顔合わせから正式発表まで、家同士の話が驚くほど速く進んでいるという。
「怖いのです。夜も眠れなくて……」
クラリッサの手が、呼び鈴へ伸びかけた。
「分かったわ。では、今日の手続きだけでも一度止めて――」
「お待ちください」
セリアはカップを置いた。声は小さいが、はっきりしていた。
「止めてほしいとは、言っていません」
クラリッサの指が、呼び鈴の手前で止まる。
「……そうね。ごめんなさい。続きを聞かせて」
昨日レオナールと交わした口論が頭をよぎったが、言い訳にはしなかった。呼び鈴から手を引き、背もたれに寄りかかる。今度は口を挟まない。
「お相手は誠実な方でした。結婚が嫌なのではありません。ただ、北部へ行けば、王都の家族や友人と二度と会えないのではないかと……」
さらに、亡き母から受け継いだ宝石と貸家の権利が、結婚後は夫の管理になるのではないか。その不安を父に話しても、「嫁げば慣れる」と取り合ってもらえなかったらしい。
「なるほど。怖いのは花婿ではなく、何も見えないまま生活が変わることなのね」
セリアが強く頷いた。
クラリッサは白紙を一枚取り出し、中央に線を引いた。左に『知っていること』、右に『まだ知らないこと』と書く。
「王都へ戻れる時期。母君の形見の名義。婚家で任される仕事。まずは分からないものを並べましょう」
「それを聞いたら、縁談を嫌がっていると思われませんか」
「質問しただけで壊れる婚約なら、嫁いだ後はもっと壊れやすいわ」
セリアは恐る恐るペンを取り、やがて自分の字で項目を増やし始めた。
「冬は王都のタウンハウスで過ごしたい、です。母の形見は、自分で管理したい。それから……婚家で何を期待されているのかも、先に知りたいです」
「いいわ。では明日の顔合わせで、あなたが尋ねるの」
「クラリッサ様が説明してくださるのでは?」
「私が言ったら、伯爵は私の顔色を読むでしょう。これはあなたの暮らしの話よ。私は隣で、話を遮られないよう見張る係」
セリアは質問書を両手で持ち直した。
「……分かりました。自分で聞きます」
「ええ。では、もう一つ食べて帰りなさい。明日は長丁場よ」
差し出された焼き菓子を見て、セリアの強張った口元がわずかにほどけた。




