第9話 七つの会議
『七つの会議』から連想したのは、何かを決めるときの手順と、決める権利のことでした。
七つという数を飾りにせず、龍之介が少しずつ自分の答えに近づく構成にするのが難しかったです。
今回は、紙に書かれた短い言葉にも目を留めていただけたらと思います。
会議というものは、たいてい時間がかかる。
議題を一つ決めるために人が集まり、二つの意見に分かれ、三つ目の案が出たあたりで誰かが最初の議題を忘れる。小説家になる前、僕が短期間だけ勤めていた会社では、会議のための事前会議というものまで存在した。これについては、いまも悪い冗談だったと信じている。
ところが、その日の我が家には会議室も議長もいなかった。
参加者は、二人。
そして僕は夜になってから気づくことになる。
どうやら僕らは、一日かけて七つの会議をしていたらしい。
朝、食卓にはパンが二枚、いつもの青と白のマグカップが二つ。青いほうが僕で、白いほうがまいさんだ。
それと、昨夜は背表紙しか見なかった文庫本が一冊。
池井戸潤『七つの会議』。
会社の中で起こった出来事が、立場の違う人間の言葉によって少しずつ別の顔を見せる話だ。たった一つの小さなネジの違和感から、組織全体の隠蔽やそれぞれの事情が浮かび上がり、異なる立場の人々を描いた連作を通して「誰が何を隠し、何を守ろうとしたのか」が問われていく。会議という題名だからといって、議事録の書き方を教える本ではない。そんな本をわざわざ娯楽として読むほど、世の会社員たちは会議に飢えていないだろう。
僕は表紙を眺めて、少し首をかしげた。
いままでの本には、たいてい何かの入口があった。糸、鍵、鏡、写真。だが、会議となると話が違う。扉を開けるのではなく、向かい合って話すしかない。
まいさんは昨夜、ちゃんと話したいことがある、と言った。
だから今朝は、たぶんその続きが始まるのだ。
昨日と同じ食卓の配置だった。ただし、いつもの二人分の目玉焼きはなかった。冷蔵庫に卵が一個しか残っていなかったのだ。
結婚一周年を迎えた夫婦にしては、ずいぶん計画性のない朝である。
僕は最後の卵を、まいさんのためによく焼いた。
「りゅうくん、いいの?」
「僕はパンだけでいいよ。昨日食べすぎたし」
「ほんとに?」
「ほんとに」
妻はしばらく僕を見たあと、フライパンの目玉焼きをフライ返しで半分に切り、その片方を僕の皿へ移した。
「じゃあ、半分こ」
「いや、僕は――」
「半分でも嫌?」
「……それは嫌じゃない」
「ふふ。よかった」
黄身の火の通り具合に、少々問題は残った。まいさんの好みに合わせてよく焼いた卵を、半熟好きの僕が半分引き受ける形になったのだ。
しかし、妻が卵を分けてくれたことについて文句を言うほど、僕は愚かではない。小説家としては売れていなくても、夫としての生存本能ぐらいはある。
まいさんが、あの買い物メモを食卓に置いた。
裏には、僕が書いた『明日の朝も、ふたり分。』の文字がある。
「これ、捨てなくてよかったね」
「メモの役目はもう終わってるけどな」
「そう?」
「パンと卵は買っただろ」
「卵は、また買わないとね」
「……確かに」
妻は笑って、その紙を白い指先で丁寧に二つ折りにした。
「ねえ、りゅうくん。明日の朝も一緒に食べようね」
「もちろん」
「でも、食べたくない朝は、ちゃんと言ってね」
「なにそれ。急に食生活の自由宣言?」
「ふふ。だって、毎日一緒がいいのと、毎日一緒じゃなきゃいけないのは、違うでしょ」
僕はパンをかじりかけたまま、妻を見た。
白いマグカップに口をつける彼女の艶やかな唇と、部屋着の襟元から覗く白い鎖骨が朝の光に照らされている。
違う、と言われればそのとおりだ。
ずっと一緒にいたいからこそ、相手に無理をさせたくない。その程度のことは分かる。
しかし最近の僕には、まいさんがごく普通のことを言うたびに、額に小さな疑問符が浮かぶという、実に不便な習慣ができていた。
「……そうだね」
「うん」
それで、最初の話は終わった。
終わったはずだった。
九時半。
僕が書斎で原稿を開いていると、まいさんがノックした。
「りゅうくん、今いい?」
「どうぞ。売れない作家の書斎は年中無休です」
「じゃあ、年中無休じゃなくてもいいから、原稿を見せて」
「ひどい。仕事がないことを前提にされた」
「ふふ。お仕事してるの、知ってるよ」
妻は予備の椅子を引き、僕のすぐ隣に座った。
百六十センチの僕の隣に百七十センチの彼女が座ると、肩の位置が近く、彼女の黒髪から漂う甘い香りと体温がふわりとこちらへ流れ込んでくる。
前に読んでもらった短編の続きが、画面に表示されている。扉を開けた男が、何かを見てしまう話だ。
書き始めたころは、どこか遠い国の、どこか遠い人間の話のつもりだった。
今では、パソコンの画面が僕の告解室のように見えて仕方ない。教会関係者には怒られそうだが、こちらだって好きでこうなったわけではない。
「この前、赤字を入れたところ、直したんだ?」
「うん。主語を隠しすぎるな、ってやつ」
「読んでいい?」
「もちろん」
まいさんは身を乗り出して画面を数行読み、ふと手を止めた。彼女の柔らかい二の腕が僕の肩にわずかに触れ、その熱に意識が引っ張られる。
「でも、作者が見せたくないページまで読んじゃったら、どうしよう」
「そんなの、見せる前に隠すよ」
「隠してなかったら?」
「……聞いてくれればいいんじゃない?」
妻の視線が僕に向いた。至近距離で見つめられ、長い睫毛の奥の黒い瞳に僕自身の顔が映る。
「そっか。聞けばいいんだね」
「難しい話でもないだろ」
「うん。でも、読む側って、つい先が気になっちゃうから」
「編集者の職業病か」
「りゅうくんも同じでしょ」
否定できない。
本に挟まった写真の端を、見えない部分まで見ようとしたのは僕だ。
それどころか、あの鏡の小部屋で遮光カーテンの端を握りしめ、見知らぬ男に抱き寄せられる彼女の姿から目を逸らせなかったのも僕自身だ。
僕の書いた原稿を読む妻と、妻の渡した本を読む僕。
立場が反対になるだけで、ずいぶん聞こえ方の違う話になる。
まいさんは一枚だけ原稿を印刷してほしいと言った。
僕がプリンターから取った紙を渡すと、妻は細い赤ペンで余白に小さな四角を描いた。
「チェック?」
「まだ決めてないところ」
「どこを?」
「主人公が、先を読むかどうか」
僕はその赤い四角を見つめた。
正解の印ではない。
空っぽの、小さな枠だった。
昼前、台所のテーブルは出版社の出張編集部になっていた。
まいさんが仕事の企画書を確認し、僕が自分の原稿を直していたのである。
出版社の社員でもない僕が隣で同じ顔をしているのは、少々詐欺的だった。向こうは本当に給料が出る仕事で、こちらはまだ一円にもなっていない。
まいさんが赤ペンを置いた。
「りゅうくん、さっきの主人公だけどね」
「うん」
「相手に合わせて、好きでもないことを好きって言ってない?」
「……そう読める?」
「少しだけ」
僕は該当する箇所を探した。
男が、相手のすすめる本を受け取る場面だ。『面白そうだ』と彼は言う。けれどその直前、地の文には『読みたくなかった』とある。
「矛盾してるな」
「うん。でも、人間ってそういうこともするよね」
「相手を傷つけたくないから?」
「それもあるかもしれない。でもね、言われた側は、ほんとに好きなんだって思っちゃう」
彼女は紙を僕のほうへ向けた。
「嫌なら嫌って、言わせてあげてもいいんじゃないかな」
「小説の中では、そんなに簡単に言えないよ」
「ふふ。現実でも簡単じゃないね」
僕は黙った。
確かに簡単ではない。
だが難しいという理由だけで、何も言わなくていいことにはならない。
「まいさん」
「なあに?」
「昨日、僕が焼いたトースト、ちょっと焦げてただろ」
「……うん」
「おいしいって言ったじゃん」
「おいしかったよ」
「ほんと?」
「端は苦かった」
「正直すぎる!」
まいさんは声を立てて笑った。笑った拍子に彼女の胸元が揺れ、テーブルの下で彼女の長い脚が僕の膝に軽く触れた。
「でも、りゅうくんが焼いてくれたのは嬉しかった。本当だよ」
なるほど。
おいしかったことと、焦げていたことは、同時に成立するらしい。
あの部屋で妻を見たとき、胸が痛んだことと、目を逸らせないほど昂ぶってしまったことが同時に成立したのと同じように。
僕は原稿の『面白そうだ』の横に、もう一行加えた。
『今は、まだ読む気になれない。』
妻はその一文を見て、余白に赤い四角をもう一つ増やした。
昼食は、冷蔵庫の残り物を寄せ集めたパスタだった。
僕が茹ですぎた麺と、まいさんが作ったトマトソース。夫婦の共同作業という言葉は、ときどき失敗を二人で分担するためにある。
食後、妻が食器を片づけている間に、僕は本棚へ向かった。
東野圭吾『秘密』。
その間に、四年前の写真が挟まっている。
今より少し若いまいさん。右端で半分だけ途切れた男の顔。裏面に書かれた「17」。
昨日の朝、僕はこの写真を思い出しながら起きた。
今朝は、それを考える余裕があった。
余裕があることと、答えが見つかることは別問題だけれど。
「また見てたの?」
振り返ると、まいさんが立っていた。
僕は写真を隠さなかった。
「うん。答えがないから、つい」
「……そっか」
「ねえ。この数字さ」
僕は裏面を示した。
「聞いてもいい?」
「いいよ」
妻はすぐに答えた。
だから僕は、かえって言葉に詰まった。
いまここで聞けば、「17」の意味は分かるかもしれない。
あの男の正体も、なぜ顔の右半分が切り落とされているのかも、写真の外側にあった出来事も。
知ることができる。
けれど、何を聞きたいのか、僕はまだきちんと選べていなかった。
「……ごめん。今日は、やっぱりやめとく」
「いいよ」
「せっかく聞いていいって言ってくれたのに」
「だから、いいんだよ」
まいさんは写真に手を伸ばしかけて、止めた。
「りゅうくんが知りたいときに聞いて。わたしが話したいことも、ちゃんとあるから」
「……うん」
「でも、急いで答えを作ってほしくないな」
僕は、写真の片側しか写っていない男を見た。
先日、僕は妻の行動について三つの仮説を立てた。
そのうち一つを、最もありそうな説明として選んだ。
しかし最もありそうなことが、最も正しいこととは限らない。
「分かった。勝手に続きを書かない」
「ふふ。小説は書いていいんだよ」
「現実のほうは、って意味」
妻は小さく頷いた。
僕は写真を『秘密』に戻した。
それから、しばらく表紙を見つめていた。
何を話さずにおくかを、初めて自分で選んだ気がした。
午後三時。
書斎の奥の廊下を掃除していると、あの小さな扉の前に来た。
銀色の鍵は、まだ僕の引き出しにある。
遮光カーテンのことも、マジックミラーのことも、その向こうにある広い仕事部屋のことも、僕は忘れていない。
忘れられる程度のことなら、そもそもここまで原稿をこじらせていないだろう。
「そこ、掃除する?」
まいさんが、掃除機のコードを直しながら尋ねた。かがみ込んだ彼女のタイトなボトムスが、豊かな腰から太ももにかけての曲線をくっきりと浮かび上がらせる。あの日、鏡の向こうで背の高い男の手が触れていた腰のラインと重なり、僕の視線が一瞬だけ熱を帯びて吸い寄せられた。
「外だけでいいかな。奥は今度にする」
「そっか」
その返事が、やけに軽かった。
僕は扉を見た。
ここまで来れば、あの鍵をもう一度使うことは難しくない。
でも、簡単だからといって、今すぐ開ける必要があるわけでもない。
「まいさん、鍵さ」
「うん?」
「僕が持っててもいいの?」
「うん。返してもいいよ」
「……どっちでも?」
「りゅうくんが決めて」
「変な場所だな、あの部屋」
「そうだね。前の人が残していった設備だけど、最初はわたしもびっくりしたよ」
妻はそれ以上言わなかった。
僕も『見た』とは言わなかった。
言えば、きっと会話の続きは別のものになる。
それなのに、沈黙は前ほど苦しくなかった。
「もし、途中まで読んで嫌になったらさ」
僕は扉から目を離さずに言った。
「閉じてもいいんだよね」
「……うん」
「後で続きを読みたくなるかもしれないけど」
「そのときは、そのときだよ」
僕は掃除機の電源を入れた。
低い音が廊下に響いた。
あの扉は、閉じたままだった。
僕がそう決めたからだ。
夕方になって、僕らはまた机に向かった。
まいさんが編集している企画書に、登場人物の一覧や協力者の控えがあった。男性の名前がいくつも並んでいる。仕事用の仮名や、過去の展示に関わった人たちの控えだというので、僕はそれ以上見なかった。
それでも、妙なことに気づいた。
最近の僕は、物語に見知らぬ男が出てくるというだけで、その人物の役目を勝手に決めそうになる。
妻の写真に写る四年前の男。
鏡の向こうにいた背の高い男。
僕の原稿に出てくる、名前のない人物。
全員を一つの「妻を奪う男」という記号の役柄に押し込めたくなるのだ。
「まいさん、編集するときさ」
「うん?」
「読者が嫌いそうな登場人物でも、作者が大事にしてたら残す?」
「場合によるかな」
「歯切れの悪い答えだな」
「編集って、正解を出す仕事じゃないから」
妻は赤いペンを指先でくるりと回して、少し考えた。
「その人が何を考えてるか、ちゃんと書けてるなら残すよ。作者にとって都合のいい道具や、ただの人数合わせの記号になってるだけなら、考え直してもらう」
「……道具」
「うん。登場人物にも、その人なりの事情や意思があるように描いてほしいから」
僕は、写真の右端を思い出した。
あの男にも、鏡の向こうにいた男にも、それぞれ固有の名前と生活がある。
僕が知らないだけで、何かを考えて、何かを断ったり選んだりする一人の人間なのだ。
もし今後、僕らの人生に誰かが関わるなら、僕やまいさんの都合だけでその人の気持ちを勝手に決めてはいけない。
これは推理小説の技術ではなく、人間同士の礼儀に近い。
「他人に役を頼むなら、ちゃんと本人に聞くべきだよな」
「もちろん」
「主人公だけで決めていいわけじゃない」
「うん。たとえ物語の中でもね」
妻はまっすぐ頷いた。
僕はその顔を見て、安心したような、かえって胸の奥がざわつくような、奇妙な気分になった。
妻は今、編集の話をしていた。
たぶん。
少なくとも、僕らはそういうことにしていた。
夕飯のあと、まいさんは仕事のノートを閉じ、僕に一枚の紙を差し出した。
「これ、今日の原稿の続き。読んでみて」
「僕の原稿を、僕が読むの?」
「赤字のところだけでいいから」
紙には、僕が昼前に印刷した文章が載っていた。
余白に、赤い小さな四角が七つ並んでいる。
六つには、まいさんの字で一言ずつメモが付いていた。
最初の枠には『ふたり分』。
二つ目には『読んでもいい?』。
三つ目には『嫌なら』。
四つ目には『まだ聞かない』。
五つ目には『途中で閉じる』。
六つ目には『ほかの人の意思』。
七つ目だけは、何も書いていなかった。
僕は少しの間、紙を見つめた。
……おい。
待ってくれ。
これでは、まるで今日一日の会話が、全部『七つの会議』の議題だったみたいじゃないか。大きな事件の尋問ではなく、朝食や原稿、掃除といった日常の小さなネジを一つずつ確かめ直すような七つの対話。
いや、まさか。
僕は自分から話したことも多かったはずだ。
彼女はただ、気になった言葉を書き留めただけかもしれない。
しかし、それにしては数がきれいに七つにそろいすぎている。先日、新人作家の原稿の形容詞を七回まで数えたと言っていた彼女のことだ、偶然と片づけるほうが難しい。
「まいさん。この四角、いつ書いたの?」
「最初の一個は、朝だよ」
「残りは?」
「話してるうちに、かな」
「……全部、予定してたとか?」
「ふふ。りゅうくんはどう思う?」
来た。
最近すっかり聞き慣れた、最も信用ならない質問形式である。
「編集者として、ずいぶん手際がいいなとは思う」
「ありがとう」
「褒めてないんだけど」
「知ってる」
彼女は笑った。
僕も、つられて笑ってしまった。
これだけ質問を重ねて、結局、妻が何をどこまで考えていたのかは分からない。
七つの会議が、最初から企画されていたのかどうかも。
「七つ目、空いてるね」
「うん」
「忘れた?」
「忘れてないよ」
「じゃあ、どうして?」
妻は細い赤ペンを机の上で僕のほうへ滑らせた。彼女の白い指先が、僕の手の甲にそっと触れる。
「そこだけ、わたしが書いたら違う気がして」
「……僕が書くの?」
「うん。りゅうくんに、決めてほしいの」
僕は赤ペンを受け取った。まいさんの指の温もりが、ペンの軸にまだ残っていた。
すぐに何かが書けると思ったのに、意外なほど手が動かなかった。
何を書けばいい。
鏡の向こうで見たもののことか。
古い写真のことか。
まだ知らない過去のことか。
そもそも、妻の渡す本をこれからも読みたいのか。
最後の問いを考えたところで、僕は気づいた。
今日、まいさんが聞いてきたのは、僕に何かを強制するための質問ではなかった。
僕が「いい」と言うことも、「嫌だ」と言うことも、そのどちらも答えになる。
それが、六つの会話を通して僕が受け取ったことだった。
ただし、ここまでが妻の意図だったかどうかは、相変わらず分からない。
まったく、編集者という仕事は厄介である。
僕は七つ目の赤い枠の横に、短い言葉を書いた。
『次の頁は、ふたりで決める。』
まいさんが、僕の肩越しに顔を寄せてそれを読んだ。甘い吐息が耳元をかすめる。
「……これでいい?」
「うん。僕は、これがいい」
「そっか」
妻は嬉しそうに笑った。
その顔を見たとき、僕は自分の選んだ言葉を、初めて本当に好きになれた気がした。
「でも、まいさん」
「なあに?」
「分からないことは、これからも出てくると思う」
「うん」
「そのたびに全部、うまく説明できるとは限らない」
「……うん」
「僕が聞きたいときは、ちゃんと聞く。まいさんも、話したいときは言って。答えられないなら、そのことも言ってほしい」
妻はしばらく黙った。
今日、彼女が初めて何も言わない時間だった気がする。
そして、ゆっくり頷いた。
「約束する」
その声に冗談はなかった。
「わたしも、りゅうくんが嫌なことは嫌って言ってほしい。無理しなくていいから」
「うん。僕も約束する」
過去について、まだ聞いていないことはある。
聞けば、簡単には済まないことだってあるのだろう。
それを今ここで解決したつもりにはならない。
ただ、これからのことを片方だけで決めない。その一点について、僕らはきちんと言葉にできた。
あの部屋で何を見たかについては、まだ一度も直接話していないのに。
僕は紙を裏返した。
朝、まいさんが折りたたんだ買い物メモが、原稿の下に挟まっていた。
『明日の朝も、ふたり分。』
昨日の夜に僕が書いた、あの言葉。
それを見て、今日最初の会話を思い出した。
僕は最初、妻と朝食を食べる約束を確認したつもりだった。
けれど、本当に確認していたのは、約束に「嫌だ」と言える余地があるかどうかだったのかもしれない。
同じ会話なのに、一日が終わるころには別の意味に聞こえた。
夫婦でも、知らないことはなくならない。
絶対に。
だが、だからこそ何も決められないわけではない。
知らないことを知らないと言い、怖いことを怖いと言い、それでも隣にいたいと思うことはできる。
知らないことが消えないのなら、たぶん、僕らは何度でも話すしかない。
売れない小説家としては、たいそう地味な結論である。
しかし、夫としては悪くない。
寝る前、まいさんは書斎にもう一度やってきた。湯上がりの柔らかい部屋着姿で、湿った黒髪から石鹸の香りが漂っている。
赤い四角が七つ並んだ原稿を、僕はまだ机に置いていた。
彼女はその紙を見て、少し笑った。
「りゅうくん、次の本はどうする?」
「……また来たか」
「ふふ。嫌なら、今日は置かないよ」
僕は妻の顔を見た。
そういえば、今朝からずっと彼女は同じことを言っていた。
無理なら言って。
読みたくなければ閉じて。
聞きたいなら聞いて。
いままでなら、僕はその言葉の裏ばかり探していただろう。
だが、たまには表に書いてあるとおりに読んでもいい。
「置いてほしい」
「ほんと?」
「うん。読むかどうかは、見てから決める」
「……そうだね」
妻は一冊の文庫本を机に置いた。
表紙は上を向いている。
僕は、今度こそ題名を読んだ。
湊かなえ『告白』。
ずいぶん率直な二文字だった。
これまでの本に比べれば、むしろ親切なのかもしれない。
ただし、誰の告白なのか。
何を告げられるのか。
それだけは、やはり分からない。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「次の頁も、一緒に決めようね」
「……うん」
まいさんは笑った。
僕も笑った。
その笑顔の裏に、知らないことはまだある。
きっと、これからもなくならない。
でも今夜は、知らないことがあるのを理由に、妻の手を離したくはなかった。
昨夜、まいさんは、ちゃんと話したいことがあると言った。
今日の七つの会話が、その答えだったのだろうか。
それとも、彼女にはまだ話したいことがあるのだろうか。
今の僕には、どちらとも決められなかった。
七つ目の赤い四角には、僕の字が残っている。
明日の朝食が二人分になるかどうかも、次の本を読むかどうかも、誰かが一人で決めることではない。
僕は『告白』を手に取り、一頁目を開いた。
答えは、まだ書かれていない。
少なくとも、僕が今夜読める場所には。
第9話、読んでくださってありがとうございます。
誰かが問いを用意したとしても、最後にどんな答えを書くかは別の問題です。
龍之介が選んだ言葉を、皆さんはどう読みましたか。
次回は第10話『告白』。
言葉にしたら終わり、とはいかないのが人間関係なのかもしれません。




