第10話 告白
『告白』という題名は力が強いので、登場人物に何かを言わせるだけの回にはしたくありませんでした。
話されたことと、聞き手が受け取ったこと。その間にある距離を考えながら書いています。
緊張感だけでなく、二人が同じ食卓にいる温度も残すようにしました。
楽しんでもらえたら嬉しいです。
告白という言葉には、妙なところがある。
口にした途端、何もかも明らかになるような気がするのだ。
実際には、ひとつのことを話すためには、その前に話しておかなければならないことがいくつもある。順序を間違えれば、正しい話でも嘘に聞こえる。肝心な部分を省けば、嘘をついていなくても、聞いた人間は間違った話を持ち帰る。
湊かなえの『告白』のページをめくるとき、僕はいつもその残酷な構造を思い出す。命の重さをめぐる生徒たちの残酷な告白と、語り手が入れ替わるたびに真実がグロテスクに反転していく恐怖。あの小説の中では、誰もが「自分語り」をしながら、実は致命的な何かを隠し続けている。
編集者が聞けば、構成の問題ですね、と言うかもしれない。
小説家が聞けば、そんなに簡単なら世の小説はもっと短くなっている、と答えるだろう。
そして僕は、そのどちらでもない一人の夫として、机の上の文庫本を眺めていた。
湊かなえ『告白』。
題名に比べて、妻の置き方はずいぶん慎重だった。机の端に、背表紙を僕へ向けて一冊。まるで、手に取るかどうかはこちらで決めてほしい、とでもいうように。
昨日、僕は七つ目の赤い四角に書いた。
『次の頁は、ふたりで決める。』
書いた本人が、翌朝にはその一文の重さに驚いている。
名文を書いたつもりはない。そもそも、そう思って書いたものほど後でひどいことになるのが、売れない小説家の日常である。
それでも、消したくはなかった。
「りゅうくん、今日のコーヒー、ちょっと薄かった?」
「ん? いつもどおりだよ」
「そう? さっき、いつもよりお湯を多くしたかもって思って」
「だったら、いつもと違うんじゃない?」
「ふふ。そうかも」
まいさんは笑った。
いつもの青と白のマグカップ。僕の青いカップにはミルクが少し入り、彼女の白いカップにはブラックコーヒーが注がれている。結婚して一年、そこだけは迷わず作り分けられるらしい。
テーブルの上には、昨日の原稿から外した一枚の紙があった。七つの赤い四角。その最後だけに僕の字が入っている。
「昨日の続き、読んだ?」
「『告白』?」
「うん」
「少しだけね」
「どうだった?」
「読んでるつもりなのに、読まされてる気分になることがある」
「編集者としては、褒め言葉かな」
「いや、だいぶ怖い褒め言葉だよ」
妻はトーストの焦げた端をちぎりながら、少し考えた。
「ねえ。途中でやめたくなったら、やめていいからね」
「昨日も聞いたな、それ」
「大事なことは何度でも言うの」
「売れない原稿に赤字を入れるときも?」
「もちろん。十回でも二十回でも」
「やめる自由が急に遠ざかった」
まいさんは声を出して笑った。
その顔を見ていると、今日が特別な日だとは思えない。僕らが毎朝している、取り留めのない会話。ただ少し違うのは、僕が何を聞いても、その先に別の意味を考えるようになったことだ。
「僕は、もう少し読んでみるよ」
妻がこちらを見た。
「……そっか」
「まだ最後まで読めるかは分からないけど」
「うん。決めなくていいよ、今は」
それから彼女は、僕の皿に残っていたパンの耳を指した。
「それ、食べないならもらっていい?」
「どうぞ」
「ありがとう」
こんなふうに、彼女にはごく簡単に答えられる質問と、答えの入り口さえ見つからない質問がある。
そして僕は、その両方に同じ声で返事をしている。
午前中は原稿を進めた。
正確にいえば、進めようとした。
一枚書いて半分消し、消した半分のうち三行を戻した結果、増えた文字数は四十六。これだけで昼飯にありつけるなら、物書きほど恵まれた職業はないだろう。
机の上の『告白』を閉じる。
その下に、昨日はなかった細い紙が挟まっていた。
『続きを読みたくなったら、銀色のしおりを使ってね。』
しおり?
僕は首をかしげ、引き出しを開けた。
そこには、銀色の鍵があった。
冗談みたいに分かりやすい。
いや、これを「分かりやすい」と思ってしまうこと自体、もうおかしいのかもしれない。本の世界で鍵としおりは、たいてい別々の仕事をしている。僕の家では、ついに兼業を始めたようだ。
紙の端をよく見ると、赤い小さな四角が一つあった。
七つ目の四角と同じ形。
その中は空白だった。
僕は鍵を取った。
机に残した原稿には、何も書き加えなかった。
今の僕にとって必要なのは、結論を書くことより、結論を書く前に考える時間だった。
書斎の奥の廊下を進み、小さな扉に銀色の鍵を差し込む。
乾いた音がして、鍵が回った。
薄暗い小部屋。背の低い棚と椅子が一脚。
そして、窓のない壁を覆う厚手の遮光カーテン。
僕は椅子の背に手を置いた。
あの日、あのカーテンの向こうで何を見たか。
長身の男の広い肩の向こうで、タイトなスカートを張りつめさせていたまいさんの豊かな腰と太ももの曲線。男の背中を掴んでいた白い指先。
それを思い出すだけで、下腹部の奥にあの厄介な熱が疼く。
けれど、今日ここへ来たのは別の理由からだった。
僕は壁際のスイッチに手を伸ばし、室内の照明を落とした。
音を立てないように注意しながら、遮光カーテンを数センチだけ横へ引く。
マジックミラーの向こう側に、細い光の筋が走った。
隣の広い仕事部屋。
見慣れたスタンドライトの淡い光の中に、見覚えのある男がいた。地味な上着を着て、資料の束を封筒に出し入れしている。
その直後、奥の扉が開いた。
まいさんが入ってきた。
いつもの仕事着に身を包んだ百七十センチの長身。黒髪を後ろでまとめ、手には薄いファイルを持っている。
僕は息を詰めた。
妻が仕事相手と家で打ち合わせをすること自体は珍しくない。
ただ、納得できる説明があることと、それが真実のすべてであることは別だ。
「今日は、どこからにしましょう」
男が尋ねた。
まいさんは椅子に腰掛け、ファイルを机の真ん中へ置いた。
「一番、説明しにくいところからでもいいですか」
「もちろん。途中で止めても大丈夫です」
「……ありがとうございます」
まいさんは少し考えた。
「最初に、ひとつだけ」
「はい」
「私の話を、誰かのためのきれいな話にはしたくないんです」
男は返事を急がなかった。
「誰かを守るためだったとか、そういうことですか」
「はい。そう書くと、ちゃんとした理由があるみたいでしょう」
「実際には?」
「……そんなに立派じゃなかったと思います」
言葉がそこで途切れた。
僕はマジックミラーの向こうの妻を見つめた。
彼女の言う「誰か」とは誰なのだろう。
「夫は、小説を書いています」
まいさんが言った。
僕は、他人の会話の中で自分の職業が紹介されるたび、なぜか心臓が跳ねるのを覚えた。
「そうでしたね」
「文章が好きなんです。あの人の」
男が頷いた。
「でも、あの人の文章って、ときどき勝手に先へ進んじゃうところがあるんですよ」
そこは作者の前でも言ってほしかった。
「書いてないところを、読者が想像できるのはいいことなんです。だけど、その想像を事実みたいに扱ってしまうことがあって」
「それが気になる?」
「……私自身も、同じことをしてきたので」
まいさんはファイルを開いた。
そこに入っていたのは、一枚の写真だった。
距離があるので顔までは見えない。
けれど、右端が不自然に近い。僕は『秘密』に挟んでおいた、顔の半分が切り取られた古い写真を思い出した。
四年前の秋。まいさんと、顔の半分しか写っていない男。裏の「17」。
すべてが同じ写真だと、今ここで決めることはできない。
「これは、私がこういう形にしました」
妻は言った。
男が写真の端を見た。
「元は、もっと広かったんですね」
「はい」
僕は膝の上で手を強く握りしめた。
写真の右端が、誰かの手で意図的に切り落とされていることは、すでに分かっていた。
けれど、誰が切ったのかまでは知らなかった。
そして今、まいさんは、自分が写真をその形にしたと言った。
向こう側の写真と、僕が持っている写真が同じ場面を写したものなのか、まだ確かめようがない。
何のために、その半分だけを残したのか。
その理由は、まだどこにも書かれていない。
「隠すためですか」
「……全部見せたら、全部話したことになると思いたくなかったんです」
「それは違いますか」
「違うと思います。少なくとも、私はそう思いました」
男は写真を机に置いた。
彼女はそれに手を伸ばしかけて、やめた。
「見せたいものと、話せることが、いつも同じとは限らないから」
僕はガラスを見つめた。
妻が何を切り落としたのか。
何のために、その半分だけを残したのか。
いちばん近くにいる人間が、答えのいちばん遠くにいるような気がした。
男は別の紙を取り出した。
「こちらの原稿は、どうしますか」
「……まだ、直せていません」
「先に相手に読んでもらう方法もありますよ」
「はい。でも、私が説明すべきところを、読んだ人に補わせたくなくて」
男が「そうですか」と言った。
まいさんは紙の端を指先で押さえた。
「私、言わなかったことがあるんです」
それから、自分の言葉に驚いたように唇を閉じた。
言わなかった。
僕はその四文字を頭の中で繰り返した。
何を。
誰に。
いつ。
「言えなかったこと、ではなく?」
男が聞いた。
まいさんは首を横に振った。
「そこを、言い換えたくないんです」
僕は、自分の原稿に入った赤い修正を思い出した。
『ここで主語を隠さなくてもいいのでは?』
あの一行は、ただの編集メモだったはずだ。
たぶん今だって、ただの編集メモだ。
それでも、ここに至っては関係のない紙切れだとは片付けられなかった。
「言わなかったことで、私は何かを守ったつもりでした」
「守れましたか」
「……分かりません。少なくとも、相手に選んでもらう機会は減らしてしまったと思います」
妻の声は静かだった。
「だから次は、私が先に結末を決めたくないんです」
男はペンを置いた。
「それなら、今日はここまででも」
「はい。……でも、もうひとつだけ」
まいさんは少し俯き、それから顔を上げた。
「私、あの人の続きが読みたいんです」
男は頷いた。
僕は、その「あの人」が誰なのか確かめたくて仕方がなかった。
けれど、妻の声はそれ以上の名前をくれなかった。
机の上の写真は裏返された。
数字らしいものが、一瞬だけ見えた。
十七、と読んだのかもしれない。
僕の頭が、そう読ませたのかもしれない。
男が封筒を閉じる音がした。
まいさんは「ありがとうございました」と言った。
そのあと、二人はごく普通に次の予定の話をした。
曜日と時刻。資料の受け渡し。
向こうの部屋の会話は、もう完全に仕事の打ち合わせに聞こえた。
それがかえって不思議だった。
どこまでが仕事なのだろう。
どこからが、僕の知らない何かなのだろう。
まもなく廊下の向こうで玄関の閉まる音がした。僕はようやく遮光カーテンを閉めた。
台所で玉ねぎを切ると、目が痛くなった。
これは玉ねぎの問題である。文学的な意味などない。あってたまるか。
夕方、買い物に出ていたまいさんが帰ってきた。
「ただいま、りゅうくん」
「おかえり。今日はカレー」
「えっ、嬉しい。何かお祝い?」
「玉ねぎを使い切りたかっただけ」
「ふふ。現実的だね」
妻は買い物袋を台所の隅へ置き、手を洗った。
僕は鍋をかき混ぜる。
その間、話すべきことがある気もしたし、何から話していいのか分からない気もした。
「ねえ、りゅうくん」
「ん?」
「『告白』、どうだった?」
木べらを持つ手が一度止まった。
なるほど。今夜はこの話らしい。
僕は鍋の火を弱めた。
「……まだ途中だよ」
「そっか」
「でも、ひとつだけ気になってる」
「なあに?」
「登場人物が、何かを言わなかったとしてさ」
「うん」
「それを読者が勝手に補って、正しい答えみたいに思うことってあるだろ」
妻は僕の顔を見た。
「……あるね」
「僕も、そういう読み方をすることがある」
「りゅうくん、小説家だもんね」
「褒められてるのか、けなされてるのか微妙だな」
「ふふ。褒めてるよ」
僕は一呼吸置いた。
「だけど、いつか続きを読むなら、できれば書いた人の言葉で読みたいなって思う」
まいさんは、鍋のほうへ目を向けた。
カレーが小さく泡を立てている。
「……書いた人が、まだうまく書けなかったら?」
「直せばいいじゃん。まいさん、いつも僕にそう言ってるだろ」
「そうだったね」
「ただ、読者のほうにも時間をくれよ。難しい話を一度で理解できるほど、僕はできた人間じゃないから」
妻はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「……うん。何度でも読み直していいよ」
「赤ペンで直しても?」
「それは困るかな」
「編集者なのに?」
「わたしの原稿は、ちょっと怖いの」
妻が笑った。
僕も笑った。
何について合意できたのか、正確に一文で書けと言われると困る。
けれど、少なくとも、続きを読みたいと言ったのは僕だ。
その言葉だけは、別の意味に書き換えたくなかった。
夕食のあと、二人で皿を洗った。
まいさんが洗い、僕が拭く。時々逆になる。最近は、その程度の変更にも、二人のどちらかが言い出したという事実があるのだと気づく。
「今日のカレー、おいしかった」
「ありがとう。玉ねぎが頑張った」
「りゅうくんも頑張ったよ」
「玉ねぎと同列で評価されるのは初めてだ」
「ふふ。じゃあ、りゅうくんのほうが少し上」
「少しかあ」
妻が笑った。
僕は皿を棚へ戻した。
白い皿が、ほかの皿の間にすっと収まる。
何でもない音だった。
この家には、何でもない音がたくさんある。
朝、トースターが鳴る音。鍵がかかる音。原稿をめくる音。妻がマグカップを置く音。
どれも僕の知っている生活の音なのに、最近は同じ音が二通りに聞こえることがある。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「明日の朝も、ふたり分でいい?」
「もちろん」
僕は即答した。
その返事にだけは、意味を二つ用意する必要がなかった。
妻は嬉しそうに頷いた。
その顔を見たとき、先日の朝食のことを思い出した。あのときも、妻は同じように笑っていた。
夜、書斎へ戻ると『告白』が机にあった。
表紙の下から、細長い紙が覗いている。
取り出してみると、まいさんの字が一行。
『言わなかったことと、言えなかったことは、同じでしょうか。』
僕は、何度も読み返した。
本の感想のようにも見える。
編集者が小説家に渡す課題にも見える。
あるいは、もっと別の何かかもしれない。
紙の隅には、小さな赤い四角が描かれていた。
中は空白。
僕は鉛筆を取り、その四角の下へ書いた。
『同じではないと思う。けれど、どちらも一行では終わらない。』
書いてから、少し考えた。
長い。
編集者に提出したら、半分にしなさいと返されそうだ。
だからといって、今はこれ以上短くできない。
僕は紙を折り、本に挟んだ。
明日、妻が見つけるかもしれない。
見つけないかもしれない。
見つけたとしても、僕の考えた意味と同じように読むかは分からない。
それでも、今回はそれでよかった。
最初から分かっていたことなど、ほとんどない。
それでも僕らは、同じ本を机に置いている。
ページをめくる指が、二人分ある。
僕は白い糸のしおりを確かめた。
まだ、抜けていない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
言葉は、口にした瞬間だけで完結するものではないと思います。
受け取った人の中で、あとから意味が変わることもある。
次回は第11話『涼宮ハルヒの消失』。
少し毛色の違う一冊ですが、きっとこの夫婦らしい読み方があるはずです。




