第11話 涼宮ハルヒの消失
今回はライトノベルの名作を題材にしました。
文学かライトノベルかという区別より、一冊の本が人の見ている世界をどう変えるか、という面白さを大事にしたかったんです。
普段の龍之介らしい軽口も残しつつ、ほんの小さな「消失」を描くのに苦労しました。
どうぞお付き合いください。
人間は、なくしたものより、そこにあったはずのものに弱い。
少なくとも僕はそうだ。
財布がなくなれば探す。鍵がなくなれば探す。原稿の保存先が分からなくなれば、青ざめながら探す。最後の件については、探している時間を執筆時間に算入したくなるほど切実である。
ところが、今朝なくなっていたのは本だった。
それも、ついこの間まで散々考えさせられた一冊。
東野圭吾『秘密』。
書斎の本棚を上から二段目、右から三冊目まで確かめ、もう一度最初から見直した。
ない。
正確には、そこに置いた記憶はある。昨日も確かにあったかと問われれば、少し自信がない。
このごろの僕は、そういう区別ばかり上達している。
見たことと、見たつもりのこと。
聞いたことと、聞こえた気がすること。
そして、本棚に置いたことと、昨日までそこにあったこと。
同じように聞こえるが、小説家にとっては採点結果が天と地ほど違う。どちらも原稿料には結びつかないのが腹立たしい。
僕は本棚の空いた場所を見つめた。
代わりに、見覚えのある薄い背表紙が一冊、こちらへ向いていた。
谷川流『涼宮ハルヒの消失』。
「……ずいぶん直接的だな」
思わず独り言が出た。
本が消えたところに『消失』を置く。
もしこれが編集者の仕事なら、あまりに説明的だ。新人作家の僕が同じことをしたら、まいさんは赤ペンで『もう少し工夫できます』と書くだろう。
たぶん、顔には笑みを浮かべたままで。
……いや、待て。
そもそも、あの人が置いたと決まったわけではない。
僕は本を手に取った。
表紙の向こうから答えが出てくるわけもなく、部屋には紙の擦れる音だけがした。
「まいさん」
「なあに?」
台所では、妻がいつもの青と白のマグカップにコーヒーを注ぎ、トーストを皿に移していた。
あの日、あのマジックミラーの向こうで背の高い男の腕に抱かれ、タイトなスカートの腰のラインを震わせていたまいさんの姿が不意に脳裏をよぎる。今目の前で穏やかに笑っているこの妻の身体を、別の男が知っているという事実が、胸の奥を鋭く抉った。
昨日のカレーの鍋は、きちんと洗われて流しの隅に伏せてある。カレーは一晩置いたほうがうまいとよく聞くが、一晩置かれる前に食べ尽くされた場合、理論を検証する機会すらない。
「今度はラノベなんだね」
「うん。あ、見つけた?」
「見つけた。探してたものとは違うけど」
「ふふ。そうなんだ」
なるほど、どうやら本を置いたのは妻であるらしい。
と言い切りたいところだが、『見つけた?』の一言だけで有罪を確定させてはいけない。僕はこのところ、無実の可能性がある証拠品を何冊も有罪扱いしてきたのだ。
「芥川、谷崎、三島、遠藤周作って来て、今度はハルヒか」
「幅広く読んだほうがいいよ、りゅうくん」
「いや、読んでるよ。僕、いちおう小説家だから」
「うん。いちおうね」
「そこ復唱しなくていいから」
妻が笑った。白のマグカップに添えられた指先が白い。
僕もつられて笑う。
『涼宮ハルヒの消失』といえば、長門有希の手によって世界が突如書き換えられ、周囲の人間が「最初からそういう人間だった」と思い込まされる恐怖を描いた物語だ。
妻が僕に与えてくれたこの穏やかな結婚生活も、もし彼女の手でいつでも別の形に書き換えられてしまうものだとしたら――。そんなSF的で不気味な想像が、朝の光の中で妙に生々しく感じられた。
「でもさ、ラノベって馬鹿にできないよな。あんなふうに読者を先へ先へ連れていくの、ものすごく難しいし」
「そうだね」
「僕なんて昨日、主人公を玄関から廊下まで歩かせるのに三ページ使った」
「何かあったの?」
「何もない。そこが問題なんだ」
「じゃあ、二ページ削ろっか」
「まだ読んでもいないのに!?」
「ふふ。冗談だよ」
この人の冗談は、ときどき業務命令と区別がつかない。
人気シリーズを書ける人間への敬意はある。売れない小説家がライトノベルを見下ろすなど、地下室から屋上に説教するようなものである。せめて地上を経てから物を言いたい。
「ねえ、りゅうくん」
「ん?」
「ラノベのヒロインって、途中で性格が変わったら困る?」
「……話によるかな」
「そうなの?」
「作者の都合で急に別人になったら困る。前の章で嫌いだったものを、次の章では理由もなく大好きになってたり」
「ふふ。厳しいね」
「読者が好きになった人物だからさ。そこには筋を通してほしいだろ」
まいさんはトーストの皿を僕の前へ置いた。
「じゃあ、最初からそういう人だったら?」
「え?」
「途中で変わったんじゃなくて、読んでるほうが知らなかっただけ」
僕はフォークを持ち上げたまま考えた。
「……それなら、書き方次第じゃない?」
「うん」
「でも、読者が納得できるようにはしてほしいな。伏線もなしに『実はそうでした』って言われると困る」
「そっか」
妻は小さく頷き、僕の向かいに座り、白いマグカップのコーヒーに口をつけた。
「まいさん、何か書く予定でもあるの?」
「どうして?」
「ヒロインの性格を気にしてるから」
「ううん。ちょっと聞いてみたかっただけ」
「だったら僕の原稿で実験しないでよ。今だって登場人物が言うことを聞かないんだから」
「ふふ。作者なのに?」
「作者だからだよ」
そう言うと、妻は妙に嬉しそうに笑った。
……今のは、うまいことを言ったつもりだった。
少なくとも、僕の小説の登場人物よりはまともな返事ができたと思う。
午前中、僕は例の書きかけの原稿に向かった。
昨日より四十六文字でも増えれば上出来だ。こうして目標を低く設定する技術だけは、デビュー以来順調に伸びている。
机の横には『告白』がある。
細い紙を挟んだままだ。
『言わなかったことと、言えなかったことは、同じでしょうか。』
その問いに対する僕の返事も、間に残してある。
どちらも長い。どちらも、まだ直しようがない。
新しく渡された『涼宮ハルヒの消失』は、その隣に置いた。
結局、仕事を始める前に開いたのは、妻の本ではなく自分の原稿だった。
昨夜、まいさんに読んでもらうために印刷しておいた分が、机の端にそろえてある。
最初の一枚をめくって、僕は思わず顔をしかめた。
本文の上に、赤い丸。
次の段落には、短い縦線。
そして三枚目の一行に、遠慮のない取り消し線が引かれていた。
『彼女は、昔からそういう人ではなかった。』
ああ、これか。
昨夜は何の気なしに書いた文だった。
自作の主人公が、恋人の意外な一面を知って動揺する場面。最初の案では、彼女は少し無口で、物事を慎重に決める人物という設定だった。
なのに、書いているうちに彼女のほうから予想外のことを言い始めた。
作者としては困る。小説家としては、少し嬉しい。
どちらが本音かと聞かれれば、たぶん両方だ。
赤い線の横には、見慣れた字があった。
『主人公は、昔の彼女をどこまで知っていますか?』
僕は椅子にもたれた。
「……そこを聞く?」
もちろん、そこを聞く。
編集者なのだから。
僕だって同じ原稿を渡されたら、そう書いたかもしれない。登場人物の過去を、語り手が都合よく決めつけているのなら、そこは突っ込まれるべきだ。
問題は、この人物の過去について、作者である僕もそこまで詳しく決めていないことだった。
駄目じゃないか。
設定資料を作れ。売れない小説家。
僕はノートを開き、彼女の年齢と職業を書いた。
次に、学生時代のことを書こうとした。
ペンが止まった。
彼女が十六歳の頃に何を好きだったのか。十八歳のときに誰と親しかったのか。書こうと思えばいくらでも書ける。
だが、それを今すぐ書いてしまっていいのだろうか。
少なくとも、この物語の主人公は知らない。
知っているふりをして、彼女の過去を一行に閉じこめていいのだろうか。
小説の登場人物の過去だけでなく、目の前にいる妻の過去(四年前の「17」の写真)についても、僕は何も知らなかったのだという残酷な現実が頭をよぎる。
僕は赤線の引かれた一文をもう一度読んだ。
『昔からそういう人ではなかった。』
たった一行の断定が、ひどく軽く見えた。
赤ペン一本でここまで無力になる文章も珍しい。
だからと言って、すぐ別の文に直すのも違う気がした。
僕はその一行をパソコンの画面から消した。
カーソルだけが点滅する。
言葉が一つ消えただけで、その前後の段落まで知らない文章のように見えた。
休憩と称して台所へ行くと、まいさんが仕事の資料を鞄に詰めていた。
「今日は出社?」
「午後から少しだけ。新しい企画の打ち合わせ」
「お疲れさま。僕の原稿の添削までして、よく働くなあ」
「りゅうくんの原稿は、仕事とは別だよ」
「……それ、褒め言葉?」
「もちろん」
妻は笑った。
「じゃあ、原稿料は?」
「いつものコーヒーで」
「安い編集者だな」
「優良物件でしょう?」
「自分で言うか、それ」
僕がカップを取り出すと、妻は資料の束を机の端に置いた。
その横には、白い封筒が資料の間に紛れるように置かれていた。口からは、写真らしい厚みのある紙の端がわずかに覗いている。
僕はその厚みを見て、胸の奥がチクリと痛むのを覚えた。
いけない。封筒を見るたびに神経質になるのは悪い癖だ。
「りゅうくん、さっき変な顔してた?」
「え?」
「パソコンの前で。何か難しいところ?」
「うん。登場人物の昔のことを、うまく書けなくてさ」
「そうなんだ」
「僕、知ってるつもりで書いてたんだなって」
妻はカップを受け取った。
白い指先が僕の手にわずかに触れ、その微かな熱が妙に残った。
「設定を足したら、直る?」
「……分からない」
「ふふ。珍しいね、りゅうくんがすぐ書き足さないの」
「最近、足すより消すほうが難しいって気づいた」
「そうだね。消したところに、ほかの文が入ってくることもあるから」
「編集者らしいこと言うなあ」
「編集者ですから」
得意げに胸を張った妻を見て、僕は笑った。
彼女も笑った。
何かの話をしていたはずなのに、コーヒーを飲んでいるうちに、ただの夫婦の会話になってしまった。
いや、最初からただの夫婦の会話だったのかもしれない。
そのどちらでも、別に構わない。
そう思い始めた自分が、少し不思議だった。
妻を玄関で見送ってから、僕は一人で昼食を取った。
冷蔵庫に残っていた野菜と卵を使い、炒飯らしきものを作る。食べ物の名前は、完成したものの見た目で決めてよいことにしている。そうでなければ、僕の料理は毎回『何か』になる。
皿を洗い、書斎へ戻る。
原稿の空白は、依然として空白だった。
ところで僕は、まいさんと暮らし始めた頃のことを、どこまで覚えているのだろう。
ふとそんなことを考えた。
最初のころ、まいさんはキッチンの引き出しをよく間違えた。
箸を入れたと思って開けた場所から輪ゴムが出てきて、「あれ?」と首をかしげた。
僕はそのたびに笑った。
しばらくすると、僕が探しているものを彼女のほうが先に見つけるようになった。
「りゅうくん、そこじゃないよ」
そう言われて振り向くと、彼女はもう正しい引き出しを開けている。
あのとき僕は、妻がこの家に慣れてきたのだと思った。
たぶん、それは間違いではない。
けれど、僕が知らなかったのは、その前の彼女の暮らしだ。
何をどこにしまう人だったのか。
どんな食器が好きで、どんな朝を過ごしていたのか。
誰と、何を話していたのか。
過去の何もかもを知らないのは、当たり前のことだ。
頭ではそう分かる。
ただ、目の前の妻があまりにも自然に僕らの生活へ溶け込んでいたので、いつの間にか、ここから前にも同じような時間が続いていた気がしていた。
最初から僕の知っているまいさんだったのだと。
……そんなわけがない。
僕だって、妻と出会う前から存在している。
しかも当時から、見事に売れていなかった。
そこだけは一貫している。あまり嬉しくない人物造形である。
僕はノートを閉じた。
書きかけの原稿へ目を戻す。
消えた一行は、まだ戻らない。
しかし、無理に埋める気にもなれなかった。
その代わり、続きを一段落だけ書いた。
前より少し、不器用な文章になった。
自分では悪くないと思った。
夕方、まいさんはいつもより早く帰ってきた。
「ただいま、りゅうくん」
「おかえり。打ち合わせ、終わった?」
「うん。思ったより早く片づいたよ」
「珍しいな。僕の原稿なんて、打ち合わせする前から片づく気配がない」
「じゃあ、今日は見てあげようか?」
「遠慮しておきます。さっき消されたところがまだ痛いので」
「ふふ。消したのはわたしじゃないよ。線を引いただけ」
……そうだった。
実際に画面から一行を消したのは、僕だ。
まいさんは鞄を下ろし、手を洗った。
僕はコンロの火をつけた。
夕飯は簡単な煮込みにするつもりだ。名前はまだ決まっていない。加熱するにつれて適当な名前が浮かぶことを期待している。
「ねえ、りゅうくん」
「何?」
「今日、あの本はどうだった?」
「あの本?」
「今朝、見つけたやつ」
「ああ、『涼宮ハルヒの消失』?」
「うん」
「まだ途中。相変わらず、読むほうを簡単に安心させてくれないな」
「面白くない?」
「いや、面白いよ。知ってる世界が急に違って見えたら、人はどうするんだろうなって」
「りゅうくんなら、どうする?」
「……まず、状況を整理するかな」
「さすが小説家」
「そのあと、整理したつもりになって間違える」
「ふふ。そこまで?」
「僕の推理能力を過大評価しないでほしい」
妻は笑い、冷蔵庫から豆腐を出した。
「でも、どっちの世界で暮らすか、選ばないといけないときもあるよね」
「……まあ、そうだね」
「りゅうくんは、知らない世界のほうが怖い?」
僕は鍋をかき混ぜる手を止めなかった。
「怖いよ。知らないことがあるのは」
「うん」
「でもさ、知ってると思ってたことが、実は違ったって分かるほうが……たぶん、もっと困る」
「……そっか」
「うん。だから、確認しないと。何が変わったのか、本当に変わったのか」
妻は何も言わなかった。
豆腐のパックを開ける小さな音がした。
「それ、ラノベの感想としては重すぎるかな」
僕が言うと、まいさんは吹き出した。
「ふふっ。いいじゃない。感想は自由だよ」
「レビュー欄に書いたら、ネタバレって怒られそうだ」
「じゃあ、わたしだけに聞かせて」
「編集者特権?」
「妻の特権」
そう言って彼女は、何でもない顔で豆腐を鍋へ入れた。
僕は、そこにうまい返事を思いつけなかった。
妻の特権なら、仕方がない。
そういう権利は、僕にも少しはあるのだろうか。
……まったく、夫婦の契約書は重要事項の記載が足りない。
夕食を終え、まいさんが僕の原稿をもう一度開いた。
「ここ、直したんだね」
「直したというか、消した」
「うん。見たよ」
「何か書き足すべきかな」
「りゅうくんは、どうしたい?」
「……すぐには書けないと思う」
「そっか」
「主人公が何を知っていて、何を勝手に決めたのか、まだ整理できてない」
「うん」
「でも、前の一文はもう戻したくない」
まいさんは原稿を机へ置いた。
「じゃあ、そのままでもいいんじゃないかな」
「編集者が空白を許すの?」
「ふふ。空白があるから読める文章もあるよ」
「そうなの?」
「たぶんね」
妻はそう言って、赤ペンのキャップを閉めた。
その音が、やけにはっきり聞こえた。
僕は原稿を引き寄せた。
紙には、消された一行の跡だけが残っている。
印刷し直せば、その跡も消えるだろう。
そうすれば、最初から何も書いていなかったように見える。
けれど僕は、その文章を一度書いたことを知っている。
まいさんも、読んだ。
この白い場所について、僕らは何も説明していない。
それでも、そこを消してよかったと、今は思えた。
寝る前、書斎へ戻ると、本棚の上から二段目に一冊増えていた。
朝と同じ場所。
ただし、『秘密』ではない。
夏目漱石『こころ』。
谷川流の隣に、漱石。
我が家の本棚にはジャンル分けという概念がないらしい。どうやら僕の妻は、書店員には向いていない。編集者としての能力が高すぎて棚まで独自企画にしてしまうのだろう。
僕は『こころ』を手に取った。
表紙に挟まれた紙はない。
しおりもない。
少なくとも、今見えるところには。
廊下から、妻の足音が近づいてきた。
「りゅうくん、まだ起きてたんだ」
「うん。ちょっとだけ」
「今度の本、どう?」
「……ずいぶん重そうなのを選んだね」
「嫌い?」
「いや。嫌いじゃないよ」
「ふふ。よかった」
まいさんは、僕の手元を見た。
それから、本棚の空いた一か所へ視線を移したように見えた。
ほんの一瞬だった。
僕がそう思っただけかもしれない。
廊下から近づいてきたまいさんは、湿った黒髪からほのかな石鹸の香りを漂わせ、緩い部屋着姿で僕の背後にそっと立った。彼女の柔らかな体温が背中越しに伝わり、うなじから覗く白い肌が書斎の明かりに照らされる。
「ねえ、りゅうくん」
「なあに?」
「さっきの原稿さ、書き直したら、もう一回読んでくれる?」
「もちろん」
「時間、かかると思うけど」
「うん。待ってる」
「……ありがとう」
妻は笑った。
「じゃあ、今度はわたしからもお願いしていい?」
「何?」
「途中で分からなくなっても、すぐ本を閉じないでね」
「……編集者として?」
「ふふ。どうでしょう」
僕は『こころ』の背を親指でなぞった。
隣には『消失』がある。
その少し向こうには、ほかの何冊かの文庫が並んでいる。
一冊分、まだ空いている場所がある。
「まいさん」
「うん?」
「僕、分からなくなったら、たぶん最初から読み直すよ」
「そっか」
「それでも駄目なら、書いた人に聞く」
妻は少しだけ目を細めた。
「……うん。それがいいね」
僕は本を棚へ戻さず、机の上に置いた。
空いた場所は、空いたままだった。
なくなったものが何かは分かっている。
どこへ行ったのかは、まだ分からない。
そして今日、僕は自分の原稿から、たった一行を消した。
その行がなくても続きを書けることを、今はまだ信じてみたかった。
寝室の明かりが消えた。
廊下の向こうから、まいさんの声がした。
「りゅうくん、明日の朝も、ふたり分だよね?」
「もちろん」
それだけは、すぐに答えられた。
僕は『こころ』の表紙を開いた。
まだ知らない頁が、そこにあった。
最後までありがとうございました。
いつもそこにあったものが、一つなくなる。
それだけで、見慣れた景色が知らない場所のように感じられることがあります。
次回は第12話『こころ』。
失くしたものを探すのと同じくらい、自分の心を見るのも難しいのかもしれません。




