第12話 こころ
こんにちは、カーマインです。
『こころ』という題名に向き合う今回は、出来事を大きくするより、感情の細かな動きを丁寧に追いたいと思いました。
人の心を分かったつもりになることと、分からないまま大切にすることは、少し違います。
龍之介の書く原稿にも、そんな気持ちを重ねています。
静かな一話ですが、楽しんでもらえたら嬉しいです。
心という字は、なかなか厄介だ。
書くのは簡単なのに、書かれたものが何を指しているのかとなると途端に難しくなる。
心配。安心。関心。決心。
四つとも同じ字が入っているくせに、僕は一日で全部を経験できる。経験したところで、どれがどれなのか見分けられるとは限らない。
そんなことを考えたのは、夏目漱石『こころ』のせいである。
いや、半分は僕自身のせいだ。
残りの半分を漱石に負担してもらうのは、あまりに恐れ多い。故人にまで責任を押しつけるようになったら、売れない小説家としてもいよいよ末期だろう。
それでも僕は、その本を枕元に置いたまま、朝の七時を迎えた。
昨夜、寝る前に少しだけ読むつもりだった。
少しだけ、という言葉を信用してはいけない。とりわけ小説とポテトチップスに関しては。
気づけばかなり先まで頁をめくっていた。
そこには他人の心を知りたがる人間がいて、知っていることをうまく話せない人間がいて、話すべきときに話せなかったことを長いあいだ抱えている人間がいた。
そして最後に、読み終えた側だけが取り残される。
「先生」が語り手の「私」に宛てた遺書には、友人Kを出し抜いた過去と、妻の静にさえ打ち明けられなかった罪悪感が綴られている。その長い沈黙を思うと、マジックミラーの向こうで見たまいさんの姿が、妙に頭から離れなかった。
僕にはそれが、少し怖かった。
知ることが怖いのではない。
知ったあと、自分が何を言い出すのか分からないことが、怖かったのだ。
「りゅうくん、起きてる?」
「……今、起きたところ」
「ほんと?」
「時計によれば、今から起きたことになる」
「ふふ。難しい朝だね」
寝室の扉から、まいさんが顔を覗かせた。
髪を後ろでゆるく結び、僕の古いカーディガンを羽織っている。僕が着るとちょうどいい服が、彼女には袖の短い服になる。袖から少し覗く細い手首や、緩い部屋着の襟元から覗く白い鎖骨。その無防備な美しさに目を奪われるたび、あの日、背の高い男の腕に抱かれ、豊かな腰を震わせていたときの彼女の肌がフラッシュバックし、嫉妬と背徳的な昂ぶりが下腹部の奥で疼いた。
これを夫婦共有の衣類と呼んでいいのか、ファッション業界の見解を聞いてみたい。
「コーヒー淹れるけど、飲む?」
「飲む。濃いめで」
「昨日もそう言って、半分残してなかった?」
「……見てたの?」
「流しにカップがあったよ」
「ああ、そっちか」
「そっち?」
「いや、なんでもない」
妻は首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
僕は『こころ』を閉じて、枕元の小さな棚に置いた。
そこにしおりは挟まっていない。
読み終えたからだ。
読み終えても、何かが終わった気がしない本というものがある。
まさにこの一冊がそうだった。
台所の窓は少し曇っていた。
昨夜の雨が残した湿気のせいか、窓を拭くと外の建物が輪郭を取り戻した。知らなかった景色が出てきたわけではない。いつも見えていたはずのものが、急にはっきりしただけだ。
「今日は卵、どうする?」
「まいさんは、よく焼きだろ」
「うん」
「僕は半熟」
「知ってるよ」
「じゃあ、聞かなくてもいいじゃん」
「今日は、いつもと違うのが食べたいかもしれないでしょう?」
なるほど。
その理屈は強い。
少なくとも僕が書いた登場人物の設定より、よほど柔軟性がある。
「じゃあ今日は、半熟で」
「ふふ。結局いつもどおり」
「聞いてもらったうえでの、いつもどおりだよ」
「そっか」
妻は卵を二つ、流しの脇に置いた。
僕はコーヒーの袋を開ける。
いつもの豆が、残り少なかった。
僕の青いカップにはミルクを入れ、まいさんの白いカップにはブラックを注ぐ。いつもなら無意識に作れたそのルーティンの中に、お互いの秘密を意識し始めたがゆえの微妙な距離感や、手探りの緊張感が混じり合う。
「買い物、今日行く?」
「うん。牛乳もなくなりそう」
「あと、卵も」
「昨日買ったばっかりなのにね」
「この家、朝食の消費速度だけは人気店並みだからな」
まいさんが笑った。
その声を聞いて、僕も笑った。
昨日までの朝と、ほとんど同じだ。
ほとんど、と付け加える必要があるのかどうかは、分からない。
「『こころ』、読んだ?」
妻が尋ねたのは、僕がトーストにジャムを塗りすぎた頃だった。
「読んだよ。昨夜、結局最後まで」
「早いね」
「眠れなくなった、と言うべきかな」
「怖かった?」
「怖い、とはちょっと違う。主人公に感情移入する前に、誰の話を聞いているのか分からなくなるところがあってさ」
「先生?」
「うん。あの人を『先生』って呼び続けるだけで、もう距離ができるだろ」
「名前があると違う?」
「たぶん。名前って、分かった気になれるから」
「分かった気?」
「たとえば僕はまいさんの名前を知ってる。年齢も、好きな卵の焼き方も、朝は髪を結ぶほうが楽だってことも」
「ずいぶん詳しいね」
「夫ですから」
「ふふ。どうも」
僕はジャムのついたナイフを皿に置いた。
「でもさ、『先生』って呼ばれている人にも、呼ばれていない時間があるんだよな」
「そうだね」
「そう考えると、登場人物紹介の欄って、ずいぶん大胆な仕事をしていると思う。三行で一人の人間を紹介するんだから」
「うちの会社の企画書なら、五行ぐらいあげるよ」
「編集者が寛大すぎる」
「でも、りゅうくんは三行で書こうとするでしょう?」
「……するね」
昨日、赤い線を引かれた一文を思い出した。
彼女は、昔からそういう人ではなかった。
印刷された紙には取り消し線が残っている。パソコンの画面には、もう残っていない。
僕が消したのだから当然だ。
「ねえ、まいさん」
「なあに?」
「編集者って、登場人物の気持ちが分からなかったら、どうするの?」
「作者に聞くかな」
「作者にも分からなかったら?」
「うーん。もう少し書いてもらう」
「作家には厳しいね」
「ふふ。知ってるでしょ」
「身にしみてる」
妻は一度うなずいて、それから僕の皿を見た。
「ジャム、足りた?」
「……むしろ多い」
「もう少し書いてもらえば?」
「トーストに赤を入れるな」
まいさんは声を上げて笑った。
僕はつられて笑いながら、皿を引き寄せた。
笑っているあいだは、何も考えずに済む。
というのは嘘だ。
僕は笑いながら、妻がさっき言った「作者に聞く」という言葉を、まだ考えていた。
午前中、書斎で自分の原稿を開いた。
昨日空けた一行は、そのままになっている。
空白の直後には、主人公が恋人に何かを尋ねようとする場面があった。
最初は、彼女が何を隠しているのか問いただす予定だった。
予定、という言葉を使っておく。小説家の予定ほど守られないものはない。納期については出版社が証人になってくれるだろう。
僕は問いを一つ書いた。
『君は、本当は何を考えていたんだ。』
悪くない。
少なくとも文法上は問題ない。
だが、画面の上に置くと、ひどく偉そうに見えた。
本当は、と言ってしまった時点で、この男は相手の言葉を疑っている。今まで聞いたことは、全部嘘だったと決めてかかっているようにも見える。
そういう疑いが芽生えることはある。
僕にもある。
では、今の僕がいちばん知りたいことは何だろう。
妻が何を考えていたのか。
妻が誰と何を話したのか。
あるいは、今後どんな本を渡してくるのか。
考えていくうちに、僕は一つ、書きにくいことを思いついた。
僕は、妻から差し出される本を怖がっている。
そのくせ、次の一冊が置かれていないか、本棚を確かめるようになっている。
怖いなら見なければいい。
鍵だって、引き出しにしまっておける。
なのに、本棚に隙間があると気になる。
僕はその気持ちに、名前をつけていない。
つけたら、その名前のせいでほかの何かが見えなくなるような気がするからだ。
人の心は、登場人物紹介の三行では収まらない。
さっき食卓で僕自身がそう言ったばかりだった。
僕は問いを消した。
代わりに、別の一行を書いてみた。
『僕は、彼女が何を考えているのか分からないことより、分からないまま知りたいと思っている自分が、少し嫌だった。』
長い。
長すぎる。
またまいさんに赤を入れられる。
そう思いながらも、今度は消せなかった。
昼前、机の引き出しからノートを探した。
原稿とは別に、思いついたことを書き散らしている一冊だ。
こんなものを残しておくから、あとで自分の文章に恥ずかしくなる。分かってはいるが捨てられない。作家というのは、恥を紙に保存する職業らしい。
ぱらぱらとめくっていると、見覚えのある見出しが現れた。
『第四の証言者――僕。』
ただ、あの日そう書いた。
誰かの気持ちを知りたくて、いくつもの仮説を並べた日だ。
仮説は三つあった。
最初からそうなるように考えられていた。
偶然、いくつかのことが重なった。
意図はあったが、僕の考えた意図とは違う。
改めて読めば、どれもそれなりに筋が通っている。
どれも、それなりに間違っているかもしれない。
そして、三つの仮説の下に小さく書かれた一行がある。
『僕はまだ、まいさんに嘘をついている。』
あのときは、自分が何を見たか、何を感じたかを話さずにいることを指していた。
今なら、その行の意味が一つではないことぐらい分かる。
僕が妻の本を手に取るとき、いつも恐怖だけがあったわけではない。
読まなくてもいいと言われたのに、読んだ。
次の頁を開くとき、誰かに背中を押されたわけでもなかった。
僕の指が動いた。
その事実を、僕はたびたび文章の外へ追い出そうとする。
追い出したところで、指が動かなかったことにはならないのだが。
「りゅうくん?」
不意に声がして、ノートを閉じた。
まいさんが書斎の入口に立っていた。
「ごめん。集中してた?」
「いや、大丈夫。どうしたの?」
「これ、洗ってもいいかなって」
妻が持っていたのは、僕の古いカーディガンだった。
さっきまで彼女が羽織っていたものだ。
「いいよ。もうだいぶくたびれているし」
「捨てちゃう?」
「……洗ってくれれば、まだ着るよ」
「そっか」
まいさんは少し笑った。
「りゅうくん、物持ちいいね」
「貧乏性なんだよ」
「ふふ。知ってる」
妻はカーディガンを抱え直した。
「さっき、難しい顔してたから。お昼、あとにする?」
「ううん。一緒に食べよう」
「分かった。じゃあ、できたら呼ぶね」
彼女はそれだけ言って出ていった。
僕は閉じたノートに手を置いた。
見られて困るほどのことは書いていない。
少なくとも、他人に読ませるつもりで書いたものではない。
妻が勝手に開かなかったことに、安心している自分がいた。
そして、もし彼女が「読んでいい?」と尋ねたら、僕は何と答えたのだろう。
簡単そうで、決まっていない質問だった。
昼食はうどんだった。
まいさんが茹でてくれた麺は、僕の作るものよりちゃんとうどんの形をしている。僕が作ったときには、よく分からない柔らかいものになった。
「ねえ、『こころ』の先生ってさ」
僕は湯気の立つ器を前に言った。
「どうして、あんなに長いあいだ黙っていたんだろう」
「りゅうくんなら、どう書く?」
「……また編集の質問だ」
「ふふ。ごめん」
「でも、難しいな。黙っていた理由は分かる気もするんだ。話したあと、相手がどう思うか怖かったのかもしれない」
「うん」
「ただ、あんなに長く黙っていると、今度は何から話せばいいか分からなくなるだろ」
「そうかもしれないね」
まいさんは箸を置いて、少しだけ考えた。
「わたし、昔読んだときは、あの手紙を受け取る人のことばかり考えたな」
「『私』?」
「うん。先生に聞きたいこと、いっぱいあったんじゃないかなって」
「そりゃあ、そうだろうね」
「でも、あの人、もう聞けないでしょう」
湯気が二人の間をゆっくり横切った。
僕は箸の先を器に戻した。
「……返事ができないって、困るな」
「うん」
「小説なら、読者が何か言ったって登場人物には届かないし」
「でも、りゅうくんは感想がほしいんでしょ?」
「それはそう。できれば褒める方向で」
「ふふ」
「ただし批評は歓迎します。精神的な回復に三営業日ほど必要だけど」
「編集部に提出する前に、休暇届を書いておこうか」
「助かります」
二人で笑った。
妻はうどんを食べて、それから言った。
「わたしね、りゅうくんの原稿を読んでて、好きなところがあるの」
「どこ?」
「登場人物が、ちゃんと相手の返事を待つところ」
「……そんな場面、あった?」
「あるよ。わたし、何度も読んだもん」
何度も。
少し意外だった。
妻は編集者だから、原稿を繰り返し読むことなど珍しくないのだろう。しかしそれを自分の文章について言われると、妙に胸の奥が熱くなる。
「僕としては、もう少し話を進めてもらいたいんだけどね」
「そう?」
「主人公が返事を待ってるあいだに、十ページぐらい経つ」
「ふふ。それは少し長いかな」
「少し!?」
「じゃあ、二ページにしよう」
「朝の廊下と同じ結論になった」
妻が笑う。
僕も笑った。
そのあと、僕はほんの少し迷ってから尋ねた。
「まいさんは、もし僕の小説に返事をしたくなったら、どうする?」
「感想を言うよ」
「それだけ?」
「必要なら赤を入れる」
「容赦ないな」
「それとも、りゅうくんが続きを書いてくれるのを待つ」
彼女はそう答え、つゆを一口飲んだ。
僕は、うどんの残りを箸で寄せた。
返事は、言葉だけではないらしい。
今のは本当にうどんの話ではなかったのだろうか。
そう考えかけて、自分で少し笑った。
うどんにまで暗号解読を求めるのは、さすがに負担が大きすぎる。
午後、二人で買い物に出た。
牛乳、卵、コーヒー豆。
メモは三行だった。僕が書く小説も、これぐらい明快に必要なものを並べられればいいのにと思う。
近所のスーパーまで、歩いて十分ほど。
傘を持っていくべきか迷ったが、空は曇っているだけだった。まいさんは折り畳み傘を一つ、鞄に入れた。
「雨、降るかな」
「降らないと思うけど」
「じゃあ、持っていかなくてもいいんじゃない?」
「降ったら困るでしょう?」
「確かに」
「ふふ。りゅうくん、今日は素直だね」
「天気に対して反抗しても勝てないから」
妻は歩きながら笑った。
信号待ちのあいだ、彼女は袖口を引っ張った。昼間洗濯に出した僕のカーディガンではなく、自分の薄い上着を着ている。
僕はその手を見ていた。
手をつなごうかどうか、少し考えた。
結婚して一年も経つのだから、そんなことで迷う必要はないように思う。
でも、迷った。
妻のほうから指先が触れた。
「あ、冷たい」
「僕の手?」
「うん」
「外、そんなに寒くないのにね」
「温めてあげようか」
「……お願いします」
妻は笑い、僕の手を握った。
横断歩道の信号が青になる。
僕らは並んで歩き始めた。
僕は彼女の手を握り返す力が少し強くなったことに気づき、慌てて緩めた。
まいさんは何も言わなかった。
ただ、手は離れなかった。
買い物から帰ると、僕はコーヒーを淹れた。
豆を変えたばかりなので、香りがいつもより強い。
「おいしそう」
「まだ飲んでないだろ」
「匂いがおいしそうなの」
「それなら僕の小説も、紙の匂いだけで売れてくれないかな」
「ふふ。りゅうくんの原稿、わたしは好きだよ」
「ありがたい話だ」
「でも、続きは欲しいかな」
「厳しい話だ」
妻は笑った。
僕はカップを二つ並べた。
青みがかった、取っ手の根元に小さな傷のあるカップと、白いカップ。
新しい牛乳を開ける。
僕のカップに少し多め。
彼女のカップにはいれない。
そこまでやって、ふと手を止めた。
「まいさん、今日はミルク、いれてみる?」
「……うん?」
「さっきの卵の話、思い出したから」
「ふふ。じゃあ今日は、ちょっとだけ入れてもらおうかな」
「了解」
ほんの少し入れた。
それだけで二つのカップの見分けがつかなくなるわけではない。
妻は白いほうを受け取って、一口飲んだ。
「おいしい」
「それならよかった」
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「わたしのこと、時々すごくよく見てるよね」
危うく牛乳の紙パックを落としそうになった。
「……な、何だよ急に」
「コーヒーの量も、卵の焼き方も、すぐ分かるから」
「ああ」
「ふふ。どうしたの?」
「いや。見てるっていうか、一緒に暮らしてたら覚えるだろ」
「そっか」
妻はカップの中を覗き込んだ。
「でも、聞いてくれるの嬉しいよ」
「……そう?」
「うん。知ってるからって、決められちゃうのも少し寂しいでしょう」
僕は紙パックの口を閉じた。
冷蔵庫へ戻す。
こういう動作をしていると、考える時間が少しだけ稼げる。
「じゃあ明日は、まいさんに聞こうかな。卵はどうしますかって」
「ふふ。毎日?」
「毎日聞いたら、今度はしつこいって言われそうだ」
「そうだねえ」
「否定しないのか」
「りゅうくんの好きにしていいよ」
妻は笑った。
僕は自分のカップを持った。
彼女の言った言葉に、何か隠れた意図があるかもしれない。
ただ、今はコーヒーが温かい。
それは、ほかの何にも置き換えたくない事実だった。
夕方、書斎に戻った僕は、朝の一行をもう一度読んだ。
『僕は、彼女が何を考えているのか分からないことより、分からないまま知りたいと思っている自分が、少し嫌だった。』
どうにも硬い。
説明が多すぎる。
主人公に自分の心を理解させるため、作者が先回りして答えを書いているような気がする。
僕は文章を選択して消した。
消すのに慣れたわけではない。
昨日より、一行を消すことに怯えなくなっただけだ。
そのあとしばらく、キーボードに指を置いたまま考えた。
そして、今度は短い場面を書いた。
『男は本を閉じた。
彼女から渡されたものだった。
返そうとして立ち上がり、戻って椅子に座った。
机の上で、本の背が夕日を受けていた。
男はもう一度だけ表紙を見た。それから、明日の朝に必要なものを買いに出た。』
それだけだった。
原稿としては、物足りない。
僕の編集者なら、どうしてここで買い物に行くのか尋ねるかもしれない。
しかし何かを買いに出かけることは、それほど難しい理由を必要としない。
買い忘れた卵があるかもしれない。
コーヒー豆が切れたのかもしれない。
誰かと明日の朝を食べる約束をしたのかもしれない。
この男が何を考えていたのか、僕にもまだ正確には分からない。
分からないまま、続きを書こうと思った。
「りゅうくん、今いい?」
扉が軽く叩かれた。
「うん、どうぞ」
まいさんが入ってきた。
さっきのカップを持っている。飲み終えたらしく、中身は空だった。
「コーヒー、ごちそうさま」
「いえいえ」
「原稿、進んだ?」
「少し」
「読んでもいい?」
僕は画面を見た。
数時間前まで、誰にも読ませたくないと思っていた一行は、もう残っていない。
代わりに、何の変哲もない買い物の場面がある。
「……ここだけなら」
「うん。ここだけね」
妻は僕の隣に椅子を引き、ゆっくり読んだ。
短い文章なので、すぐに終わるはずだった。
それでも彼女は、最後の行まで読んでから、また最初へ戻った。
「どう?」
「好きだよ」
「……どこが?」
「この人、ちゃんと帰ってくる感じがする」
「帰ってくる?」
「うん。買い物して、そのあと」
「……そのあと、まだ書いてないんだけど」
「ふふ。知ってる」
まいさんはもう一度画面を見た。
「でも、そう読んだ」
僕は何と答えればいいか分かったような分からないような気がした。
妻が読んだことは、僕の書いたこととは少し違うのかもしれない。
だが、違う読み方をされることが、今日は嫌ではなかった。
「赤、入れる?」
僕が聞くと、まいさんは机の赤ペンを見た。
「りゅうくんは、入れてほしい?」
「……今日は、感想だけがいいかな」
「分かった」
妻は赤ペンに触れず、僕のほうを向いた。
「じゃあ、もう一回言うね。好きだよ」
「……ありがとう」
「続き、楽しみにしてる」
その言い方が、何度も聞いた言葉に似ていた。
同じ言葉なのだから、当たり前なのだろう。
でも、僕はさっきまでより、少しだけ素直に受け取れた。
夕飯のあと、妻はソファで『こころ』を読んでいた。
僕が読み終えた本だ。
同じ一冊のはずなのに、まいさんの膝に乗っていると、別の本のように見える。
「今度はまいさんが読むの?」
「うん。久しぶりに」
「昔、好きだったって言ってたね」
「好きというか……忘れられなかったかな」
「漱石先生も喜ぶだろうな」
「ふふ。どうして?」
「百年以上たっても、うちのソファを占領できるんだから」
「作家冥利に尽きるね」
「僕も目指そう。百年後の誰かのソファ」
「まずは今月の原稿、頑張ろうね」
「百年の夢を二秒で現実に戻された」
妻が笑う。
僕はソファの反対側へ腰を下ろした。
間には、本一冊分よりずっと広い隙間があった。
彼女は頁をめくった。
僕は、その音を聞いていた。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「この本の人たちって、もう少し早く話せたら、違ってたと思う?」
答えを探した。
どの人たちのことか、聞き返しかけてやめた。
「……違ってたかもしれないね」
「うん」
「でも、話せたら必ずよくなったとも、言えない気がする」
「そうだね」
「僕だったら、まず相手が聞きたいかどうか聞くかな」
妻は頁を押さえたまま、こちらを向いた。
「……りゅうくんは、聞きたい?」
質問は、静かだった。
僕は彼女の膝の本を見た。
「うん。今読んでるところの感想なら」
「ふふ。じゃあ、少しだけ」
妻は本を閉じなかった。
そのまま、好きだった一節の話を始めた。登場人物の名前が二つ出てきて、僕はどちらが先に出会ったのかを尋ねた。そして彼女は頁を戻して確かめた。
聞き違えていたのは僕のほうだった。
僕らは二人で、同じ箇所を読み直した。
どちらかが勝ったわけでも、負けたわけでもない。
ひとつの段落に、二人の指が並んだ。
寝る前、僕は机に一冊の文庫本を戻した。
夏目漱石『こころ』。
読み終えた本は普通、本棚に返す。けれど今夜は、妻が続きを読みたいと言ったので、明日の朝も取りやすい位置に置いておくことにした。
ページの間には何も挟まなかった。
僕も、妻も、読んだ場所を覚えているつもりだった。
忘れたら、また探せばいい。
隣には、僕の原稿がある。
今日書いた、買い物へ出かける男の短い場面。
その先は、まだ白い。
まいさんが書斎の入口から声をかけた。
「りゅうくん、明日の朝もコーヒー淹れてくれる?」
「もちろん」
「ミルクは、今日と同じぐらいでいいよ」
「……了解」
妻はおやすみ、と言った。
僕も、おやすみと返した。
それから数分、原稿を眺めていた。
あと一行ぐらいなら書ける気がした。
でも、書かなかった。
誰かが続きを待っているからといって、急いでその人の気持ちを決めつける必要はない。
明日の朝、あらためて読めばいい。
僕は画面を消して、寝室へ向かった。
翌朝、食卓の端に新しい文庫本が一冊あった。
グレアム・グリーン『第三の男』。
妻はいつもどおり卵を焼いている。
「ねえ、まいさん」
「なあに?」
「今度はサスペンス?」
「ふふ。どうだろうね」
「うちの本棚、売れない小説家に仕事をさせる気がないだろ」
「ちゃんと書いてるじゃない」
「昨日なんか、男が買い物に出ただけだよ」
「いいじゃない。何を買って帰るのか、楽しみだもん」
妻が皿を二枚、食卓へ並べた。
僕は本を手に取る前に、コーヒーへ牛乳を注いだ。
青いカップには、昨日と同じぐらい。
白いカップにも、昨日と同じように少しだけ。
そのあとで、妻に尋ねた。
「卵、今日はどうする?」
「……よく焼きで」
「了解」
返事をしたところで、妻がふっと笑った。
僕も笑った。
新しい一冊は、まだ閉じたままだった。
第12話を読んでくださってありがとうございます。
同じ家で暮らす二人にも、それぞれの心があります。
全部を知ることができなくても、隣にいる時間は確かに積み重なっていく。
次回は第13話『第三の男』。
これまでとは少し違う角度から、二人の世界を見てみたいと思います。




