第13話 第三の男
今回は新しく登場する人物を、ただの「謎の男」にしないことを大事にしました。
仕事も家庭も好みもある、一人の人間としてその場にいてほしかったからです。
三人の会話が不自然にならないよう、コーヒーや本の装丁といった日常の細部を楽しみながら書きました。
どうぞよろしくお願いします。
三という数字には、どうにも落ち着かないところがある。
一人なら独り言で済む。二人なら会話になる。ところが三人になると、黙っている人が一人できる。
もちろん、三人全員が黙っていることもある。その場合は会話どころか会議としても失敗だ。世の中には会議のために会議を開く人がいるらしいが、僕にはとても真似できない。会議どころか、原稿を一行書くために午前中を費やす男である。
そんな僕の朝食の隣には、グレアム・グリーンの『第三の男』が置かれていた。
昨夜までの夏目漱石から、今度は海外のサスペンス。
妻の選書は、もはや図書館の分類番号に対する挑戦状だった。
「ねえ、まいさん」
「なあに?」
「これ、いつ置いたの?」
「どれ?」
「『第三の男』」
「ああ。今朝」
「……そうだよね」
「どうして?」
「昨日の夜にあったら、僕はまた寝不足になってた」
「ふふ。じゃあ、今朝にしてよかった」
まいさんは卵を皿へ移した。僕のものは半熟で、彼女のものはよく焼けている。
さっき、僕が尋ねたとおりの焼き方だ。
『第三の男』で描かれる、死んだはずの男が闇の中から友人を見つめている不穏な構造や、ヴィエンナの裏通りに長く伸びる影のモチーフが頭をよぎる。我が家にやってきた人間が、四年前の写真や鏡の向こうの男の影とどこかで繋がっているのではないかという拭えない疑念が、胸の奥で冷たく波打った。
「ところで、りゅうくん」
「うん?」
「今日の午後、お客さんが来てもいい?」
「お客さん?」
「会社で一緒に仕事をしてる人。近くまで来るから、資料を届けてくれるんだって」
「郵便という便利な制度をご存じない方なのかな」
「資料の説明もあるんだよ」
「なるほど。配送業者への不当な批判だった」
妻は笑った。
「三時ぐらい。大丈夫?」
「もちろん。僕は原稿の締め切りに追われているだけの暇人だから」
「それ、暇じゃないでしょう?」
「締め切りに追われるのと、原稿が進んでいるのは別問題なんだよ」
「ふふ。じゃあ、お邪魔じゃない?」
妻が念を押したので、僕は首を振った。
自宅へ人を迎えるのは、あまり得意ではない。
玄関での「どうぞ」を言うタイミング、スリッパを出す順番、飲み物を尋ねる際に何種類まで提示すべきか。人生には、小説の登場人物に押しつけたい手間が多すぎる。
しかし、まいさんの知り合いなら、きっと彼女が助けてくれるだろう。
「どんな人?」
「本のデザインをしてる人。高瀬さんっていうの」
「装丁家?」
「うん。うちの本も何冊か手がけてもらってるよ」
「へえ」
「本が好きで、話し始めると長いかも」
「僕の数少ない得意分野だな」
「だから、りゅうくんにも会ってほしかったの」
彼女はそう言って、トーストを二枚、皿に分けた。
ただ、それだけの言葉なのに。
僕は、いつもより少し丁寧にパンを噛んだ。
昼前までに書いた原稿は、五百字と少しだった。
五百字と少し、というのは物は言いようで、書いて消した文字も計算に含めれば数千字に達する。こういう会計方式が出版界に採用されれば、僕の生活はもう少し豊かになるはずだ。
しかし、その五百字のほとんどは、買い物に出かけた男が店先で迷っている場面だった。
卵がいる。
牛乳もいる。
コーヒー豆は昨日買ったばかりなので、いらない。
自分の生活から素材を採りすぎている。
このままでは、僕の次回作は小説ではなく家計簿になってしまう。
机の横で『第三の男』を開いた。
僕は映画も観たことがある。白黒の街路、やけに長い影、それから耳に残る音楽。記憶の中の映像はいつも少し傾いている。
その傾きを、今朝まいさんからもらった本のせいだと考えるのは、たぶん映画監督に失礼だ。
しばらく読んでいると、スマートフォンが鳴った。
まいさんからだった。
『高瀬さん、三時少し前になりそう。お茶はコーヒーでいいかな?』
僕は返事を打った。
『いいと思う。僕が淹れるよ』
送信してから、もう一通。
『甘いもの、あったっけ』
少し間を置いて、返事が来た。
『昨日のクッキーが残ってるよ。無理に準備しなくて大丈夫だからね』
そのあと、丸い顔が笑っているスタンプが一つ。
文章だけを読めば、ただの来客の相談である。
実際、来客の相談だった。
それでも僕は、念のため戸棚を開けた。
クッキーは六枚。
三人なら二枚ずつ。
見事に割り切れる。
数学がこういうときだけ親切なのは、少し腹が立つ。
二時半に、まいさんが帰ってきた。
午前中は会社に顔を出していたのだ。
「ただいま」
「おかえり」
「りゅうくん、ちゃんとお昼食べた?」
「食べたよ」
「何?」
「昨日の残り」
「何が残ってた?」
「……昨日の残りが」
「ふふ。答えになってないよ」
僕は冷蔵庫の中身を思い出すふりをした。正直に言えば、冷凍のうどんに卵を落としただけだ。
「麺類だね」
「そっか」
「食事の詳細な取材はここまでにしていただけませんか、編集長」
「はいはい」
まいさんは笑いながら上着を脱いだ。
それから、台所の戸棚を開けた。
いつもの青いカップと白いカップ。
そこへ、薄い灰緑色のカップを一つ足した。
「あ、それ使うんだ」
「うん。久しぶりだね」
灰緑色のカップは、二年前に駅前の陶器市で買ったものだ。買った理由は色がきれいだったから、使わなくなった理由は食器棚の奥へしまい込んだからである。
陶器に非はない。単純に我が家の住人が二人なのだ。
「コーヒー、足りる?」
「昨日買ったから大丈夫」
「ミルクは?」
「それも」
「砂糖は?」
「あると思う」
「……思う?」
「自信を持って断言できるのは、卵の在庫ぐらいなんだ」
妻は笑って砂糖壺を確かめた。
「大丈夫、あったよ」
「よかった。砂糖の存在に救われた」
食卓には椅子が二脚あった。
もう一脚は、壁際に置いてある。洗濯物を一時的に置くことが多いので、家具というより洗濯物の停留所になっていた。
まいさんがその上のタオルをたたみ始める。
「僕がやるよ」
「ありがと」
二人で椅子を引いた。
食卓に三脚並べると、いつもの部屋が少し狭く見えた。
「ここでいい?」
僕が尋ねると、妻は椅子の角度を少し直した。
「うん。これで三人座れるね」
「四人目が来たら立食だな」
「ふふ。今日は三人だよ」
もちろん、そうだ。
分かっている。
僕は灰緑色のカップを裏返し、底の水滴を拭いた。
高瀬遼さんは、三時の五分前にやって来た。
三十歳ぐらいだろうか。落ち着いた紺色のシャツに、雨でもないのに折り畳み傘を持っている。肩には大きな布製の鞄。雑誌が十冊ぐらい入りそうな鞄だが、中身が十冊の雑誌だったら持ち主の肩を心配したくなる。
「お邪魔します。高瀬です」
「覗見です。どうぞ」
「奥さまから、お話は伺っています」
「悪い話じゃなければいいんですけど」
「本を書く方だと」
「……それは、かろうじて悪くない話ですね」
高瀬さんは笑った。
明るすぎない、ちょうどいい笑い方だった。
「りゅうくん、さっきから自己評価が低いよ」
「自己評価を上げるには実績が必要なんだよ」
「書いてるじゃない」
「妻が厳しい編集者だと、自己肯定感も校了しないんです」
「それは大変ですね」
高瀬さんが真顔で言うので、三人で笑った。
僕は、少しほっとした。
初対面の相手と笑いの速さが合うだけで、最初の十分間はだいぶ楽になる。
「荷物、重くないですか」
「紙って、一枚だと軽いのに、束になると急に態度が大きくなりますからね」
「分かります。原稿も一行ならかわいいんですが」
「一冊にすると、なかなか言うことを聞かない」
「そうなんです!」
「ふふ。二人とも、まだ玄関だよ」
妻に促されて、僕らはようやく食卓まで進んだ。
高瀬さんが取り出したのは、出版社の新しい企画のための装丁案だった。
数人の書き手による短編をまとめた本らしい。
薄い紙に印刷された表紙の案が三枚。どれも同じ題名なのに、字体と色、余白が違うだけで別の本に見える。
「うちの編集部、意見が割れてるんです」
まいさんが言った。
「どれもいいですよね」
僕が答えると、高瀬さんは首を振った。
「ありがとうございます。でも、全部をいいと思ってもらうために作ったわけじゃないんです」
「え?」
「選んでもらいたくて。違いをちゃんと見てもらえたら、それで十分です」
僕は紙を机へ置き直した。
なるほど。自分の原稿も、そんなふうに考えられれば少しは楽なのかもしれない。
「りゅうくんは、どれが好き?」
「僕?」
「うん。読者として」
妻が言った。
編集者の夫としてではなく、作家としてでもなく、読者として。
そう言われると、かえって迷う。
僕は三枚を並べ、もう一度見た。
一枚目は題名が大きい。
二枚目は、絵が表紙いっぱいに広がっている。
三枚目は、題名が端に小さく置かれていた。
「……三枚目、かな」
「どうして?」
「題名を見つけるまで、少し時間がかかるから」
「ふふ。りゅうくんらしい」
まいさんが言った。
高瀬さんは僕のほうを見た。
「面白いですね。社内では、一番目立たないって言われた案なんです」
「目立たないです。確かに」
「でも、好きなんですね」
「はい。見つけたとき、ちょっと得した気がするので」
高瀬さんは三枚目に小さな鉛筆の印をつけた。
僕は、それを少し誇らしく見た。
人生で初めて、何かを選んだだけで仕事をした気分になった。
お湯が沸く音がした。
「私、淹れてくるね」
「僕がやるよ。今日は僕がコーヒー係だから」
「あ、そうだったね」
「念のため聞きますけど、高瀬さんはコーヒー、大丈夫ですか」
「ええ。好きです」
「ミルクと砂糖は?」
「ブラックで。熱いのが苦手なので、少し冷ましていただけると助かります」
「承知しました」
僕は立ち上がった。
冷ましてほしい、という注文が妙に嬉しかった。
コーヒーは好きでも、何もかも同じではない。そういう違いは分かりやすい。
台所でポットを傾けると、豆の香りが広がった。
三つのカップへ注ぐ。
灰緑色には、少し少なめ。
白いカップには、まいさんが最近好んでいるくらいのミルク。
青いカップには、自分の分を少し多めに。
間違えないよう、トレーの上で置く位置を決めた。
それから、ふと考えた。
高瀬さんは、どのカップが自分のものだと知っているのだろう。
もちろん、僕が渡せば分かる。
当たり前のことだ。
ただ、客人を迎えるというのは、そういう当たり前を一つずつ相手に説明することなのかもしれない。
「お待たせしました」
食卓へ戻ると、まいさんと高瀬さんが表紙案の余白について話していた。
「ここを少し空けたら、雰囲気が違うと思うんです」
「でも、空けすぎると?」
「人によっては、何もないように見えますね」
「そうなんですよねえ」
二人は仕事の話をしていた。
知らない専門用語はなかったが、最初の一文を聞き逃したせいで、何を指しているのかは分からなかった。
それで僕は、おとなしくカップを配った。
「高瀬さん、こちらを。少し冷めるまでお待ちください」
「ありがとうございます」
「まいさん、今日はこのぐらい」
「うん。ありがとう、りゅうくん」
妻は白いカップを両手で持った。
高瀬さんは灰緑色のカップを見て、少し目を細めた。
「きれいな色ですね」
「二年前に買ったんですけど、なかなか出番がなくて」
「今日、出番ができたわけだ」
「ええ。待機期間が長かったので、働いてもらいます」
高瀬さんは笑い、少し経ってから一口飲んだ。
「おいしいです」
「よかった」
まいさんも笑った。
そのとき、なぜか僕は、食卓の上にある三つのカップを数えていた。
数えるまでもない数だった。
「ところで、高瀬さん」
「はい」
「普段、どんな本を読むんですか」
「何でも、とは言えませんが。古い推理小説が好きですね」
「おっ」
「こういう仕事をしてると、内容より背表紙を先に見る癖がついてしまって」
「それは職業病ですね。僕は小説を開くと、まず一行目を見て落ち込むんですよ」
「どうしてです?」
「うまいから。僕には書けないな、って」
「書き出しで落ち込むなら、読む本を変えるしかありませんね」
「それは根本的な解決にはならない気がします」
「そうですね。私もいい装丁を見ると落ち込むので、お互い仕事を変えますか」
「何になりましょう」
「……古本屋とか」
「また本から離れられない!」
高瀬さんが笑った。
僕も笑った。
まいさんは、クッキーの皿を三人の真ん中へ押し出した。
「二人とも、本が嫌いになれないんですね」
「嫌いになれたら、とっくに楽な人生を選んでますよ」
僕が言うと、高瀬さんがうなずいた。
「本当ですね」
それから、彼は僕の隣に置いてあった文庫本に気づいた。
「あ、『第三の男』」
「ええ。今朝から読んでるんです」
「私は映画から入りました」
「僕も。あの音楽、いつまでも残りますよね」
「残りますね。初めて観たときは、街より音楽のほうが頭に残ったくらいです」
「僕は街の影が怖かった」
「分かります。人間より先に影が喋りそうな映画ですから」
「影が先に喋る……それ、僕が小説で書いたら採用されますかね」
「私が編集者なら、読ませてくださいって言います」
「ほら、まいさん。採用だって」
「ふふ。最後まで書いたらね」
また原稿の話に戻された。
妻の編集技術には隙がない。
「それにしても、『第三の男』って変な題名ですね」
僕が言った。
「どうしてです?」
「『ある男』でも『もう一人の男』でもいいのに、わざわざ数字をつける」
「数える順番が必要になるからでしょうか」
「順番?」
「誰かを一番、二番と数えた人がいる。その人から見たら三番目だった、というだけで」
高瀬さんはクッキーを一枚手に取った。
「別の人が数えたら、違う順番になるかもしれませんね」
「なるほど」
「すみません。装丁屋のくせに題名のほうが気になってしまって」
「いや、むしろ面白いですよ」
まいさんはカップを持ったまま、僕らの話を聞いていた。
「まいさんはどう思う?」
「うーん」
妻は少し考えた。
「三番目って、最後の人とは限らないよね」
「ああ、確かに」
僕は答えた。
高瀬さんは、半分になったクッキーを皿の上へ戻した。
「まだ続きがある数え方ですね」
「そうです」
妻が笑った。
誰も何も言わなくなった。
僕はコーヒーを飲んだ。
少し冷めていた。
そのあと、三人で装丁案をもう一度見た。
高瀬さんは一枚ずつ裏返し、紙の厚さを説明してくれた。
厚い紙は強そうに見えるが、開きにくくなることがある。薄い紙は頼りなく見えるが、めくる感触が柔らかい。
専門的な話のはずなのに、意外なほど聞きやすかった。
「本って、読むものだと思ってましたけど、手で覚えてることも多いんですね」
僕が言うと、高瀬さんは少し嬉しそうにした。
「そうなんです。指で触ったときに、あ、あの本だ、って思い出すことがあるんですよ」
「僕は失くした本の場所も覚えてないのに」
「それは、本の仕事をしてる人間にもあります」
「安心しました」
「先週、校了間近の見本を、自分の鞄に入れたまま二時間探しましたから」
「それはなかなかの重症ですね」
「奥さんに笑われました」
「奥さん?」
「ええ。うちのです。本より先に鞄を開けろと言われまして」
「名編集者ですね」
「妻に言ったら喜ぶと思います」
高瀬さんは笑った。
僕は、その笑い方が少し好きになった。
当然ながら、目の前の人にも僕の知らない毎日がある。仕事があって、家があって、誰かに笑われながら鞄を探す日がある。
まいさんだけではない。
誰にだってある。
「そうだ、高瀬さん。この間の展示会、奥さまもいらっしゃったんですよね」
まいさんが言った。
「来てました。まいさんが勧めてくれた絵本、家で読みましたよ」
「どうでした?」
「子どもに取られました。私の分だったのに」
「ふふ。それはよかった」
「よかったんでしょうかね」
高瀬さんが肩をすくめる。
僕は、その家の食卓を知らない。
けれど、知らないままでも、そこに食卓があることは想像できた。
まいさんが席を立った。
「お湯、もう一回沸かしてくるね」
「僕がやるよ」
「今日はお客さんと話してていいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えます」
妻は白いカップを持って台所へ行った。
二人になった食卓で、高瀬さんが言った。
「覗見さん、奥さま、よく笑う方ですね」
「ええ。僕の原稿にもよく笑ってくれます」
「それは羨ましい」
「笑わせようとして書いたところでは、あんまり笑ってくれませんけど」
「そういうものですよ。うちもそうです」
彼は、自分のカップを少し奥へ寄せた。
「……初めてお会いしたときから、あの方は本の話が好きでした」
「そうなんですか」
「仕事場での話です。こちらが考えた案を、すぐ良い悪いと決めずに、一度ちゃんと見てくれる」
僕は、妻がさっき三枚の装丁案を並べていた姿を思い出した。
「作者としては、ありがたいんですよね」
「編集者が一番最初の読者ですから」
高瀬さんは言いかけて、首を振った。
「いや、順番は関係ないか」
「え?」
「すみません。自分の仕事の話をしすぎました」
「いや、僕にはありがたい話です」
彼は笑った。
「よかった」
台所から、水が流れる音がした。
僕は、妻が戻ってくるまでの短い時間、高瀬さんの仕事について尋ねた。
最初に作った本のこと。
思った色が出なくて刷り直したこと。
子どもに読んでほしい本ほど、紙の角に気を遣うこと。
どれも僕には知らない話だったが、説明を聞くのは楽しかった。
そして、さっきまで僕が気にしていた、会話に加わっていない一人のことを、しばらく忘れていた。
「りゅうくん、原稿どう?」
妻が戻ってくると、いきなり仕事の話になった。
「家庭内で逃げ場がないんだが」
「ふふ。今日の午前中、書いてたでしょう?」
「見張られていたのか」
「キーボードの音、してたよ」
「あれの半分は削除キーなんだけどね」
高瀬さんが笑った。
「覗見さんの作品、いつか読んでみたいです」
「……そう言っていただけるのは嬉しいんですけど、まだ人に見せられるものじゃなくて」
「無理には。完成したら、ぜひ」
その言い方に、ほっとした。
完成してからでいい。
書きかけのものを急いで見せなくていい。
そう言われて気が楽になるのは、僕がまだ見せたくない部分を大事にしているからかもしれない。
「でも、少しだけなら」
気づくと、僕はそう言っていた。
まいさんが僕を見た。
「いいの?」
「昨日書いた短いところ。三百字ぐらいだから」
「……うん。りゅうくんがいいなら」
僕は書斎へ行き、印刷した原稿を持ってきた。
買い物に出かける男の場面。
昨日、まいさんが読んで、「帰ってくる感じがする」と言った文章だ。
紙を二枚、食卓へ置く。
一枚は高瀬さんへ。
もう一枚は、まいさんの前へ。
すでに読んだ人にも配ったのは、仕事柄の癖ではない。単純に、三人の会話なのだから三人分の場所が欲しかったのだと思う。
「短いですが」
「ありがとうございます」
高瀬さんは、すぐには読み始めなかった。
紙の端を揃え、静かに一枚目を手に取った。
仕事柄だろうか。紙の扱いが丁寧だった。
僕は自分のカップを持って待った。
文章は短い。
それでも、他人が読む時間は、自分が書く時間よりずっと長く感じる。
時計の秒針が三度動くあいだに、僕は人生の進路を五度ほど考え直した。
「……いいですね」
高瀬さんが言った。
「ありがとうございます」
「静かで、好きです」
僕は反射的にまいさんを見た。
妻は、何も言わずにコーヒーを飲んでいた。
「ただ、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「この人、何を買うんでしょう」
僕は少し笑った。
「今のところ、僕も決めてないんですよ」
「そうなんですか」
「そのうち卵か牛乳になる気はしますけど」
「生活感がありますね」
「作者の生活が貧相なものですから」
「いえ、そういう意味ではなくて」
高瀬さんは困ったように笑った。
「私、帰り道のほうが読みたいなと思ったんです」
「帰り道?」
「はい。買い物をしたら、そのあとどう歩いて帰るのかな、って」
僕は原稿を見た。
まいさんが昨日読んだ場所と、同じ行で終わっている。
もちろん、昨日から続きは書いていない。
「……どうしてですか」
「すみません。うまく説明できなくて」
高瀬さんは考えた。
「私、何かを買うために出かけた人を見ると、帰りに荷物が増えてるのを想像するんです。出かけるときと同じ道でも、少し歩き方が変わるでしょう」
「確かに」
「買う前は手ぶらで、帰るときは袋を持っている。知らない誰かにとっては、それだけの違いですけど」
言い終えると、高瀬さんは紙を丁寧に机へ戻した。
まいさんが微笑んだ。
「高瀬さんらしいですね」
「そうですか?」
「うん。いつも紙を持って帰るから」
「それは仕事の話じゃないですか」
「ふふ」
三人で笑った。
僕も笑った。
それから、自分の文章をもう一度読んだ。
男は本を閉じ、買い物へ出た。
帰り道は、まだない。
なかったのは当然だ。僕が書かなかったのだから。
まいさんは昨日、その先を読んでいたように思えた。
高瀬さんは今日、その途中を読みたいと言った。
同じ紙を読んだのに、二人は別の場所を見ている。
僕はどちらにも、間違いだと言えなかった。
そもそも作者である僕が、まだ答えを持っていない。
「……書いてみます」
僕が言うと、高瀬さんはうなずいた。
「楽しみにしています」
「また読んでもらってもいいですか」
「もちろん。完成したら」
彼はそう言って、紙をこちらへ返した。
まいさんは自分の紙を指で押さえていた。
「まいさんの分は、返さなくていいの?」
「うん。もう一回読みたい」
「昨日も読んだだろ」
「今日も読んだよ」
「……そうだけど」
「ふふ。だめ?」
「いや。いいよ」
彼女は紙を二つ折りにはせず、手元に置いた。
外は夕方の色になり始めていた。
高瀬さんは時計を見て、そろそろ失礼しますと言った。
「もっと話したかったです」
僕が言うと、彼は少し驚いたように笑った。
「私もです。長居してしまいました」
「いえ、作家の家で本の話をしすぎるという罪はありません」
「じゃあ、また来てもいいですか」
「もちろん」
答えたあとで、僕はまいさんを見た。
妻が笑っている。
「次はもっとクッキーを用意しようね」
「今度は僕も持ってきます」
「では、三人で共同出資ということで」
「りゅうくん、クッキーに出資って言うの?」
「我が家の財政状況に見合った経済活動だよ」
笑いながら玄関へ向かった。
高瀬さんは傘を鞄へしまい、スリッパを揃えた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「奥さま、装丁の件、明日また連絡します」
「はい。よろしくお願いします」
仕事の挨拶をする二人を、僕は少し離れたところから見ていた。
二人とも、普段からこういう言葉を交わしているのだろう。
僕の知らない曜日や時間に。
何でもないことだ。
僕も高瀬さんの奥さんのことをほとんど知らないし、彼も僕の原稿の一場面しか知らない。
それでも今日は、三人でコーヒーを飲んだ。
「覗見さん」
高瀬さんが振り返った。
「はい」
「帰り道、楽しみにしています」
「ああ、原稿の」
「ええ。あの人、何を持って帰ってくるんでしょうね」
僕は笑った。
「……まだ分かりません」
「それが一番楽しみです」
高瀬さんが軽く頭を下げ、扉の向こうへ出ていった。
廊下へ戻ると、妻がスリッパを二足並べ直していた。
「いい人だったね」
僕が言った。
「うん」
「また来てもらおうか」
「……りゅうくんがいいなら」
「僕が言ってるんだから、いいんだよ」
妻は少し笑った。
「そっか」
それだけだった。
三つのカップが、流しに並んでいた。
青いカップ、白いカップ、灰緑色のカップ。
僕が洗剤を出すと、まいさんが隣へ来た。
「手伝うよ」
「いいよ。お客さんの分ぐらい僕が」
「三つあるよ?」
「三つぐらい洗える」
「ふふ。頼もしい」
「僕をどれだけ非力だと思ってるんだ」
「そんなこと思ってないよ」
彼女は布巾を持ち、僕の隣に立った。
僕が洗い、妻が拭いた。
灰緑色のカップは、ほかの二つより底が少し広い。洗うとき、指がうまく届かず手間取った。
「これ、やっぱり変わった形だね」
「だから買ったんじゃなかった?」
「そうだったかな」
「駅前で見つけて、りゅうくんが選んだんだよ」
「……あ、そうか」
思い出した。
店先に並んだ陶器のなかで、妻が迷っていた。
僕が、これがいいと思う、と指さした。
そのとき、誰が使うのかまでは考えなかった。
なんとなく、家にあればいいと思ったのだ。
「出してよかったね」
まいさんが言った。
「うん」
僕はすすいだカップを渡した。
妻は布巾で丁寧に拭いた。
「高瀬さん、どうだった?」
「本当にいい人だった。話、合ったし」
「よかった」
「まいさん、ああいう人と普段仕事してるんだね」
「うん。いろんな人がいるよ」
「大変そうだ」
「楽しいよ。大変な日もあるけど」
「そっか」
彼女はカップの縁を一周拭いて、食器棚へ戻そうとした。
「それ、手前でいいんじゃない?」
僕が言うと、妻は振り返った。
「え?」
「灰緑色の。奥へしまうと、また使わなくなるし」
「ああ。そうだね」
妻はそのカップを、青と白の隣へ並べた。
三つ並ぶと、少し窮屈だった。
だから僕は、砂糖壺の場所を少しずらした。
「これで入る」
「うん」
「次は、もう少し大きい棚が要るかな」
「ふふ。カップが増えるの?」
「さあ。増えるかもしれない」
妻は何も言わなかった。
ただ、空いた場所を一度見てから、戸棚を閉めた。
夜、僕は書斎で原稿を開いた。
買い物へ出かけた男は、相変わらず店先にいる。
卵売り場の前で、もう十時間近く迷っている計算だ。
いい加減にしてほしい。
作者が言うことではないが。
僕は一行書いた。
『男は卵を一パック買った。』
少し考えて、次の一行。
『帰り道、袋の持ち手が指に食い込んだ。』
それから、しばらく書けなかった。
卵を一パック買った男が、いったい誰と朝食を食べるのか。
何も決めていない。
書きかけの物語なのだから、決まっていなくても当然だ。
だが、帰り道は少し見えてきた。
僕は画面を保存し、机の横の『第三の男』に手を伸ばした。
いつの間にか、頁の間に細長い紙が挟まっていた。
高瀬さんが持ってきた装丁案の、余白を切り落とした紙だった。
さっき三人で案を並べたとき、机の端に残っていたものを、しおりの代わりに使ったのだろう。
白い紙に、薄い灰色の線が一本。
裏側は、何も印刷されていない。
僕は紙を取り出して、光にかざした。
裏から透ける線は、表の線と少しずれた位置に見えた。
角度を変えると、また重なった。
その程度の違いだった。
「りゅうくん?」
扉の外から、妻の声がした。
「うん、今行く」
「明日の朝、コーヒーお願いしてもいい?」
「もちろん」
「……ふたり分でいい?」
僕は本を閉じた。
「うん。明日はね」
廊下の向こうで、小さく笑う声がした。
「了解」
僕は、しおりの紙を元の頁へ挟んだ。
書斎を出る前に、今日書いた二行をもう一度見た。
卵の重さは書いた。
持ち手の痛みも書いた。
帰り道には、まだ誰も出てこない。
それなのに、続きを読みたいと思った。
自分の原稿なのに、まったく困ったものである。
リビングでは、二脚の椅子がいつもの位置へ戻っていた。
壁際には、タオルを置くための椅子が一脚。
何も変わっていないように見える。
まいさんはソファで本を開いていた。
僕が近づくと、栞を挟み、隣を少し空けてくれた。
「何読んでるの?」
「さっきの続き」
「……昨日の?」
「うん」
妻は表紙を見せなかった。
僕も、無理には覗かなかった。
代わりに隣へ座った。
彼女の膝にある本の厚みだけが、僕の知らないままだった。
しばらくすると、妻は本を閉じ、僕の肩にもたれた。
何かを尋ねるには、少し近すぎる距離だった。
何も尋ねずにいるには、ちょうどいい距離でもあった。
その夜、僕は『第三の男』を読み終えなかった。
先の頁が気にならなかったわけではない。
ただ、今夜はもう少し、妻の隣に座っていたかった。
最後までありがとうございます。
同じものを三人で見ても、三通りの読み方が生まれる。
物語の中にもう一人の視点が加わると、今まで当たり前だったことも少し違って見えますね。
次回は第14話『人間椅子』。
身近な家具が、いつもと同じものに見えるとは限りません。




