第14話 人間椅子
今回は江戸川乱歩の『人間椅子』に挑戦しました。
奇妙な家具を登場させるだけでは物語にならないので、家の中の距離や、座ったときの感覚、耳に残る音を意識しています。
少し怖いけれど、龍之介の冗談も忘れない。そんなバランスに苦労した一話です。
ぜひ読んでみてください。
我が家には二人掛けのソファがある。
厳密には、二人掛けと呼ぶには少し大きい。
結婚したときからリビングにある、深い緑色の、古めかしい家具だ。背もたれは高く、肘掛けは丸く膨らみ、脚には妙な彫り物がある。安いホテルのロビーに一脚だけ置かれていそうな見た目で、どちらかといえば僕らの生活のほうが、この家具に場違いなのかもしれない。
それでも僕は気に入っていた。
僕とまいさんが並んで座れるからだ。
二人で座ればちょうどよく、一人で座ると妙に広い。
家具に人格があるとすれば、きっとお節介な親戚のような性格だろう。ほら、もう少し詰めなさい、と言ってくる。
そのソファが、昨日の夜から小さな音を立てるようになった。
こん、と。
今朝も、まいさんが腰を下ろしたとき、足元から乾いた音がした。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「これ、壊れちゃったかな」
「どれ?」
「ソファ」
「また家具か……」
このごろ仕事椅子も鳴いている。今日はソファである。
我が家の家具が順番に反乱を起こしているのだとしたら、次は食器棚かもしれない。そちらには割れ物が多いので、早めに和平交渉を始めたい。
「修理したほうがいいのかな」
「うーん。座れなくはないけどね」
僕は隣へ座ってみた。
こん、と音がした。
「……なんだろう、この音」
「木が緩んでるのかな」
「どうかな。僕に大工としての実績はないから」
「知ってるよ。作家さんだもん」
「作家としての実績も控えめなんだけどね」
「ふふ。そういうこと言わないの」
まいさんは僕の膝へ一冊の文庫本を置いた。
江戸川乱歩『人間椅子』。
僕はソファを見た。
本を見た。
もう一度ソファを見た。
「……なあ、まいさん」
「なあに?」
「今日に限ってこれをすすめるの、偶然?」
「どうして?」
「家具が妙な音を立て始めた朝に『人間椅子』は、さすがに演出が過ぎない?」
「ふふ。読んだことある?」
「あるよ。だから余計に嫌なんだ」
「嫌いだった?」
「好きだよ。好きだけど、読後に椅子を信用できなくなる」
「じゃあ、ソファも?」
「……二人掛けなら、可能性は倍だな」
まいさんは声を立てて笑った。
僕は本を持ったまま、ソファを立った。
彼女はまだ笑っていた。
*
このソファを買ったのは、結婚する少し前のことだった。
買った、といっても、選んだのはほとんどまいさんだ。
小さな家具店の奥に置かれていた中古品で、値札には『舞台用家具・補修済み』とあった。
深い緑の布地、分厚い肘掛け、やけに高い背もたれ。
僕は最初、値段より搬入経路が気になった。
玄関を通らなかったらどうするのか。
妻は寸法を測って、通るよ、と言った。
その確信に満ちた答えを聞いて、僕は自分の肩幅まで疑い始めた。
実際、家具は無事に運び込まれた。
僕が手伝ったのは床に敷物を広げることだけで、あとは配送の人が何とかしてくれた。
それ以来、ソファは僕らの生活に馴染んだ。
僕が昼寝をした日もある。
まいさんが原稿を読んだ夜もある。
夕飯のあと、二人で肩を寄せて眠くなるまで本の話をしたこともある。
昨日は『第三の男』を読んでいた。
まいさんの隣に座っているだけでよかったので、最後まで読めなかった。
何かが起きるとすれば、そんな家具の中からだろうか。
僕は乱歩の本を開いた。
あの作品に出てくる男は、家具職人だった。
自分が作る椅子の内部に人の入れる空間をこしらえ、誰にも知られずそこに潜む。
馬鹿げた発想だ。
でも、実際に文章として読むと、馬鹿げているからこそ目を離せなくなる。
椅子に座る人は、椅子の中を見ない。
当たり前だ。まともな人間なら、座るたびに座面を解剖したりはしない。
自分の足元に床があると信じるのと同じくらい、椅子は座るためのものだと信じている。
僕らが毎日使っているソファも、そうだった。
大きさは普通より少し大きい。
内部の構造など、気にしたこともない。
僕はソファの横に立ち、丸い肘掛けを押してみた。
柔らかい。
布地の下には、厚い詰め物がある。
もう少し押す。
その奥には硬い骨組みがあった。
こん。
乾いた音。
今朝の音と、少し似ている。
僕は手を離した。
家具は黙った。
読んだばかりの本に影響されている。
分かっている。
分かっているのに、ソファの横から裏側を覗こうとした。
*
まいさんは昼過ぎに出版社へ出かけた。
僕は午前中に少しだけ原稿を進めた。
買い物へ出た男は卵を買って、家へ帰ろうとしている。
その男に椅子を買わせる気はなかった。今のところ、僕が書いているのは生活小説であって、家具のカタログではないからだ。
けれど、『人間椅子』を机に置いていると、どうにもソファの音が気になった。
昼食のあと、リビングへ戻る。
床を傷つけないよう、ソファを壁から少しだけ離した。
背面には、深緑の布がぴんと張られている。
古い家具らしく、左右の色が少し違って見える。
埃が積もっていたので、雑巾を取ってきた。
家具の秘密を暴く探偵は、まず埃を拭かなければならない。
現実には雰囲気というものが足りない。
背面の下、布地が一箇所だけ緩んでいる。
指でそっと押すと、思っていたより深く沈んだ。
柔らかい詰め物ではなかった。
何かが、ない。
裏側に隙間がある。
触れた指先が、空気に出た。
「……え?」
僕は一度手を引いた。
同じ場所へ指を伸ばす。
やはり、奥に何もない。
古い舞台用家具だ。背面を軽くするため、中を抜いているのかもしれない。
そう考えれば自然だった。
しかし、背もたれの厚さを思い返すと、ずいぶん大きな空間が残りそうだ。
布地の端を持ち上げると、補修の跡が見えた。
古い木の枠。
そこから、暗い奥行きが続いていた。
僕はスマートフォンのライトを向けた。
光は、思ったより遠くまで届いた。
布と木と埃の匂い。
床板のようなもの。
そして、奇妙なほど広い空洞。
もちろん、普通の居間にある普通のソファとしては、だ。
僕はライトを消した。
もう一度つけた。
どうやら照明の故障ではない。
ソファの内側には、空間がある。
小さな引き出しや収納箱ではない。
人間が体を丸めれば、入れてしまいそうな空間だ。
僕はしばらく、その暗がりを覗いていた。
小説家としては、ここで見なかったことにして原稿へ戻るべきだった。
夫としても、修理店へ連絡するのが正しい。
しかし、読書家としては、非常に都合が悪かった。
机の上に、江戸川乱歩『人間椅子』があるのだ。
想像してしまう。
自分があの空間に入ったら、どんな景色が見えるのだろう。
いや、景色など見えないはずだ。
だったら、どんな音がするのだろう。
どこまで聞こえるのだろう。
何より、あの狭い空間に、本当に人間が入れるのだろうか。
僕はソファから離れ、時計を見た。
午後二時四十分。
妻は夕方に帰ると言っていた。
危ない家具かもしれないから無理はしない、と自分に言い聞かせた。
それから、気づけば中を確かめようとしていた。
小説家の好奇心というのは、本当に困った職業病だ。
*
体を縮める。
膝を曲げ、肩をひねり、薄暗い空間に身を寄せる。
どうにか入れた。
入れてしまった。
僕は百六十センチほどの小柄な男だが、それでも窮屈だった。
古い家具の内側は、部屋と呼ぶにはあまりに狭い。収納と呼ぶには妙に長い。
頭を持ち上げれば、すぐに布に触れる。
膝を伸ばすことはできない。
横を向けば、木枠の硬さが肩に当たる。
僕は少し後悔した。
このまま詰まって出られなかったら、妻はどんな顔をするだろう。
最初は心配し、次に救急車を呼ぶか迷い、最後には『人間椅子』を見て笑うかもしれない。
笑われるだけならまだいい。
病院で職業を尋ねられ、「小説家です」と答えた瞬間、何か大事なものを失いそうだった。
僕は息を吐いてから、体の向きを変えた。
出ようと思えば、すぐに出られる。
そのことを確認すると、少し落ち着いた。
真っ暗ではなかった。
織り目の向こうから、ごく薄い光が落ちている。
居間の時計が、どこか遠い場所で鳴っている。
冷蔵庫の低い唸り。
廊下を風が抜ける音。
どれも、よく知っている我が家の音だった。
それなのに、まるで違う部屋にいる気がした。
僕は額を布に寄せた。
柔らかい。
向こう側には、僕らが毎日座っている座面がある。
この距離は、どれくらいだろう。
手を伸ばせば触れそうなのに、向こうからこちらは見えない。
しかし、僕の側からだって、向こうの様子は分からない。
これでは隠れているというより、単に家具の中へ閉じ込もっただけだ。
乱歩の男なら、ここから人の様子を想像したのだろうか。
いや、原作の細かい仕掛けまで再現する気はない。
僕は職人ではないし、これは小説の取材ですらない。
ただ、知りたかった。
いつも座っている場所の、裏側の感触を。
しばらくして、遠くで携帯電話が鳴った。
机の上に置いてきた僕のものだった。
出られない。
当然だ。
僕はようやく、これがどれほど馬鹿らしいことなのか実感した。
慎重に体を戻し、家具の外へ出た。
空気が明るかった。
自分の家のリビングに生還しただけで、やけに立派な冒険を終えた気分になった。
誰にも自慢できない。
誰にも自慢すべきでない。
スマートフォンを見ると、知らない番号からの着信だった。
勧誘か何かだろう。
世の中には、椅子の中まで追いかけてこない人間もいる。
ありがたいことである。
*
ひと休みしてから、僕はソファを元の位置へ戻した。
布地の緩みはそのままにしておいた。修理をしようにも、何を直せばいいのか分からない。
こん、という音がまたした。
そのとき、初めて気づいた。
音は、壊れた木が軋む音とは少し違う。
硬いものが、内側から薄い板へ当たるような音だった。
僕がさっき身を縮めたとき、肩か膝かが木枠に触れた音に似ている。
もちろん、ソファは誰も入っていなくても鳴る。
木の枠同士が触れれば、似た音はいくらでも出る。
だから何だという話でもない。
僕は自分の手のひらを見た。
薄く埃がついている。
水道で洗い流した。
指の間に残る緑色の細い糸は、布地から取れたものだろう。
流しに落として、水で流した。
よく考えると、このソファは結婚してからずっと家にあった。
まいさんのほうが、僕より長く、この家具を知っている。
その事実に突然気づいたところで、何が分かるわけでもない。
購入するとき僕も一緒にいたし、運び込まれるところも見ている。
ただ、僕は家具の中まで確かめなかった。
当たり前のことだ。
今朝までは、確かめる必要など感じたことがなかった。
夕飯の献立を考えようと思って冷蔵庫を開けると、卵が残り二つだった。
今日も買い物へ行くべきだったのかもしれない。
僕は袋を持って出かけた。
帰り道、卵のパックが袋の底で揺れた。
それを見て、自分の原稿の男を思い出した。
あいつはまだ家へ着いていない。
僕は先に帰ってしまった。
*
まいさんが帰ってきたのは、午後六時半だった。
「ただいま」
「おかえり」
「いい匂い」
「今日は親子丼」
「やった」
「僕も卵を使い切れたので満足です」
「ふふ。卵が主人公みたい」
「僕の書く小説より、よほどよく動くからね」
まいさんは上着を脱いで、ソファの背へ一度手を置いた。
ほんの一瞬だった。
「……音、直った?」
「まだ少しする」
「そっか」
「修理屋さん、呼ぼうか」
「うん。急がなくてもいいけど、危なそうなら使わないでね」
「分かった」
僕は頷いた。
口には出さなかったが、別の意味でも頷いた。
家具の中へ入るのは、もうやめよう。
何しろ、思っていたよりずっと狭い。
しかも、僕が発見したのは驚くほどつまらないことだった。
普段座っているソファの中に入ると、ソファの中にいる気分になる。
当たり前である。
この発見を新作の小説に使ったところで、編集者の妻は赤ペンを入れるまでもなく、ため息をつくだろう。
僕はご飯を盛りつけた。
まいさんは二人分の箸を並べた。
食卓は、いつもどおりだった。
*
食後、妻はソファに座った。
僕は向かいの椅子に腰を下ろしていた。
「りゅうくん、そっちでいいの?」
「え?」
「こっち、空いてるよ」
「ああ。うん、あとで」
「ふふ。今日は遠慮するんだ」
「遠慮じゃないよ。さっき修理の話しただろ」
「そっか」
妻は無理に誘わなかった。
膝の上に『人間椅子』を開いている。
僕が今朝読んでいた本だ。
「それ、読み直してるの?」
「うん。久しぶりだから」
「原作、怖かった?」
「怖いよ。でも、面白いね」
「分かる。あれって、椅子の中に人がいるかどうかだけの話じゃないんだよな」
「うん」
「最後まで読むと、さっきまで怖かったところが別の怖さになる」
「ふふ。りゅうくんは、どっちの怖さが好き?」
「難しい質問だなあ」
「どっちも?」
「読んだあとで、もう一回読みたくなるほうかな」
「……そっか」
妻は頁をめくった。
僕はその音を聞きながら、夕方のことを思い返した。
もしも、ここに座っているのが僕だったら。
このソファの内側に入っていたときには、向こうの景色は見えなかった。
でも、誰かが座れば音ぐらいはするのだろう。
座面に体重が加わる。
布が張る。
木枠が少し軋む。
それだけだ。
それだけなのに、『人間椅子』を読んだあとは、そんな日常の感触まで別の意味を持つ。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「本の中の人って、何が一番欲しかったと思う?」
僕は原作の男を思い浮かべた。
隠れる場所。人のぬくもり。知られないこと。知ってほしいこと。
簡単な答えがあるのか、分からない。
「……読んでくれる人、かな」
口にしてから、自分でも少し意外だった。
「どうして?」
「だって、あれだけ長い手紙を書くんだよ。誰にも知られたくないだけなら、書かないほうがいい」
「ふふ。そうだね」
まいさんは文庫本の頁を押さえた。
「それなら、最後まで読まなくちゃね」
「そうだね」
妻はまた読み始めた。
僕はソファの脇に落ちた細い糸くずを一つ見つけ、指で拾った。
緑色。
今日は、こんな小さな糸ばかり目に入る。
*
九時を過ぎて、まいさんがお風呂へ入った。
僕は食卓で原稿を読んでいた。
読んでいる、といっても、同じ一行を七回ほど眺めているだけだ。こういう場合、八回目に突然名文へ変わる可能性は低い。
それでも画面から目を離せなかったのは、リビングのソファが視界に入るからだった。
深い緑色の布地。
丸い肘掛け。
少し大きすぎる背もたれ。
昼間、僕はあの中にいた。
あの狭いところに、僕のような小柄な人間なら入れる。
知っただけでは足りなかったのだろうか。
何が聞こえるのか、もう一度確かめたくなった。
さっき妻には、もう無理はしないと頷いたばかりなのに。
自分の言葉に赤ペンを入れられないのが、僕という人間の最大の欠点かもしれない。
浴室から水音が聞こえる。
僕は、ほんの短いあいだだけ、と心の中で言い訳をした。
今度は何かあればすぐ出るつもりで、内側の暗がりへ身を寄せる。
埃の匂い。
木の冷たさ。
昼間より、ずっと狭く感じた。
自分の心の狭さが体積に換算されたわけではないだろうが、気分は似たようなものだった。
やはり、やめよう。
そう思ったとき、浴室の水音が止んだ。
僕はその場で息を止めた。
何をしているんだろう。
家の中で妻に見つかりたくない場所を作ってどうする。
僕がするべきなのは小説を書くことであって、家具の内部に新しい生活圏を開拓することではない。
廊下から、足音が聞こえた。
素足で歩く、軽い音。
近づいてくる。
僕が姿勢を変える前に、衣擦れの音がした。
ソファの布地が、上からわずかに沈んだ。
こん。
短い音。
まいさんが座ったのだろう。
見えない。
見えないのに、分かった気がした。
重みは僕の体に直接届かなかった。丈夫な骨組みを伝わって、微かに空気が動くだけだ。
その程度のことが、なぜかひどく胸に残った。
僕らは何度、このソファで並んで座っただろう。
隣にいるときには、彼女の呼吸や、頁をめくる癖なんて気にしたこともなかった。
いまは布一枚どころではない距離に隔てられている。
なのに、向こうで紙が擦れる小さな音が、よく聞こえた。
ぱらり。
次の頁。
しばらく沈黙。
僕の頭の上で、本を持ち直すような気配。
もしかすると、まいさんではないのかもしれない。
さっきから僕が頼りにしているのは、足音と布の沈み方だけだ。
それでも、この家に帰ってくる人は彼女しかいない。
そう思っている自分がいた。
「……あれ」
不意に、声がした。
僕は肩を強張らせた。
「……どこに置いたっけ」
妻が、何かを探しているらしい。
本の栞だろうか。携帯電話だろうか。
あるいは、僕のことだろうか。
僕は何も答えなかった。
答えれば済む話だ。
自分がここにいる、と言えばいい。
それができなかった理由を、この時点の僕はまだうまく説明できない。
やがて布地が元の形へ戻った。
妻が立ち上がったのだろう。
台所のほうで引き出しを開ける音がした。
「あ、あった」
少し明るい声。
そのあと、水の音。
僕は慎重に体を戻し、外へ出た。
リビングには誰もいなかった。
ソファの座面には、文庫本が一冊伏せて置かれている。
『人間椅子』だった。
表紙を上にして戻そうか迷い、やめた。
ページの途中を勝手に閉じるのは、読者への礼儀に反する。
僕は書斎へ戻った。
手を洗って椅子に座ると、机の上には原稿が開いたままだった。
同じ一行を、八回目に読む。
当然ながら名文には変わらなかった。
ただ、少しだけ続きを書きたくなっていた。
廊下から妻の声がした。
「りゅうくん、何してるの?」
「原稿、読んでた」
僕は答えた。
嘘ではなかった。
質問の答えとして十分だったかどうかは、別の問題である。
「ふふ。そっか。お茶、淹れるね」
「ありがとう」
台所で湯が沸き始めた。
僕は画面の文字を見つめた。
小説を書く人間は、書かなかった行を数えたりしない。
少なくとも僕は、今夜までそう思っていた。
*
その夜、僕は眠れなかった。
怖かったからではない。
怖いというより、落ち着かないのだ。
ソファの内側を一度見たことで、外側から見ているだけでは分からない形が頭に残った。
深い布地の向こうに空間がある。
それを知っている。
まいさんの隣に座れば、その空間を意識する。
隣に座らなくても、やはり意識する。
なんと面倒な知識だろう。
知識には生活を豊かにするものと、生活から睡眠を奪うものがある。
今夜の僕にとって、後者は緑色のソファだった。
時計を見る。
十一時三十分。
まいさんは先に寝室へ入っている。
僕はリビングの明かりをつけた。
ソファがある。
当然だ。
寝ている間に歩いて移動したら、家具業界はもっと面白くなる。
僕は背面の布地を見た。
昼間、あの暗い空間に入った。
そこに僕はいた。
しかし、証拠らしいものは何もない。
むしろ、そこに誰もいなかったことを証明するほうが難しそうだ。
僕が今ここにいるのだから、現在の空間は空いている。
それ以上のことは分からない。
そう考えているうちに、また妙な衝動に襲われた。
今度は長居をするつもりはない。
ソファの内側を、もう一度だけ見ておきたい。
実際に潜むためではなく、補修の跡を確かめたいだけだ。
僕はライトを点けて、緩んだ布の向こうへ光を向けた。
昼間とは違う影ができている。
布の皺が変わっただけだろう。
奥の木枠に、紙のようなものが引っかかっていた。
昼間には気づかなかった。
指で引き寄せる。
小さく折られた紙。
古びた印刷の切れ端だった。
表には、かすれた文字が並んでいる。
『二人用。内部には何も入れないこと。』
どうやら舞台道具としての注意書きの一部らしい。
ほかの文字は破れて読めない。
僕は少し笑った。
そりゃそうだ。
こんな場所に人間が入っていいはずがない。
古い舞台用家具なら、作り手だってそう注意するだろう。
紙を裏返す。
細い鉛筆の文字が、余白に一行だけあった。
『本当に空っぽだった?』
僕は紙を握り直した。
いや、これは誰がいつ書いたか分からない。
家具を作った人が、ふざけて書いたのかもしれない。
舞台で使った役者が、次の人への悪戯として残したのかもしれない。
これも何かの芝居の台詞だった可能性がある。
僕には、そう考えるだけの理由があった。
そう考えなければならない理由も、いくつかあった。
ソファの奥では何も動かない。
紙だけが、僕の手の中で少し曲がった。
僕はそれを机の引き出しへしまい、今度こそ明かりを消した。
*
翌朝、まいさんがコーヒーを淹れていた。
僕が台所へ行くと、青いカップと白いカップが並んでいる。
灰緑色のカップは食器棚の手前にあった。
昨日、高瀬さんと三人で飲んだときに使ったものだ。
今は出番がない。
それでも、手の届く場所にある。
「おはよう、りゅうくん」
「おはよう」
「眠そう」
「乱歩先生のせいかな」
「ふふ。本に熱中してたの?」
「そういうことにしておこう」
妻は僕のカップへコーヒーを注いだ。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「昨日の本、どうだった?」
「……家具を見る目が変わった」
「ふふ。そうなんだ」
「まいさんは?」
「私は、読み終わってから最初の頁に戻っちゃった」
「分かる。あれ、戻るよね」
「戻ると、同じ文章なのに違うお話みたいでしょう?」
「……うん」
妻は牛乳を少し足して、自分の白いカップを手に取った。
「りゅうくんは、最後の手紙、信じる?」
僕は少し考えた。
どの手紙のことだろう。
乱歩の作品の話であることは、分かっている。
僕はカップを持ち直した。
「……どうだろう。書いてあることは、ちゃんと読むけど」
「それだけ?」
「読むのと信じるのは、別だから」
妻はしばらく僕を見ていた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「そっか」
いつもと変わらない朝だった。
トースターが鳴り、僕がパンを取り出し、まいさんが卵を焼く。
彼女の卵はよく焼く。僕の卵は半熟だ。
椅子は二脚。
青いカップと白いカップ。
その向こうに、緑色のソファがある。
僕は、あのソファの中へ入った。
その事実は変わらない。
けれど、あの紙の書き手が誰なのかは分からない。
あの空間を、以前誰かが使ったことがあるのかも分からない。
こんなに多くを知らないまま、僕は毎晩、妻の隣に座っていたのだ。
それでも昨日まで、十分に居心地がよかった。
今朝だって、変わらないはずだ。
食事のあと、僕は仕事へ戻った。
書きかけの原稿を開く。
男は買い物を終えて、家へ戻るところだった。
僕は一行足した。
『部屋には、二人で座れる椅子があった。』
どちらが先に座るのか。
そもそも二人とも座るのか。
そこまでは、まだ書かなかった。
背後から声がした。
「りゅうくん、今日も頑張ってね」
「うん」
「お昼、何か食べたいものある?」
「卵以外なら何でも」
「ふふ。じゃあ考えとくね」
まいさんは廊下へ出ていった。
僕は保存ボタンを押した。
リビングのほうから、かすかに家具の鳴る音がした。
こん。
それが何の音だったのかは、確かめなかった。
今はまだ、僕の原稿の続きを書くほうが大事だった。
――第14話・了――
第14話を読んでくださり、ありがとうございます。
何もないはずの空間に、想像だけが入り込んでくることがあります。
そして、誰も座っていない家具が、急に気になることも。
次回は第15話『DEATH NOTE』。
今度は家具から少し離れて、名前とノートの話をしてみようと思います。




