第15話 DEATH NOTE
今回は漫画『DEATH NOTE』を題材にしています。
有名な設定の面白さに頼るのではなく、「名前を書く」という行動が龍之介にとって何を意味するか、そこから考えました。
冗談が言える夫婦だからこそ、紙に残る言葉の重みも描けるのではないかと思っています。
今回もよろしくお願いします。
僕には一つ、作家として譲れない信念がある。
寝不足の日に書いた文章は、翌朝必ず読み直すべきだ。
その信念に従って、今朝の僕は昨夜の原稿を読み直していた。
問題は、昨夜の僕が一文字も書いていないことである。
読み直すものがない。
誠に遺憾ながら、信念だけは立派だ。
一昨日の夜、ソファの内側から見つけた小さな紙を、僕は引き出しへ入れた。
昨日は昼間にソファの修理屋を探した。
そして夜には、結局、緑色の布地を眺めながら眠れなかった。
小説を書く時間を家具に奪われるというのは、なかなか前例のない被害だろう。
僕が居間へ出ると、まいさんは朝食を作っていた。
いつものように、僕の卵は半熟。彼女の卵はよく焼き。
そして僕の席には、見慣れない黒い本が置かれていた。
厳密には、見慣れないわけではない。
見たことがありすぎるぐらいある。
大場つぐみ・小畑健『DEATH NOTE』。
「……まいさん」
「なあに?」
「うち、とうとう人が死ぬの?」
「えっ?」
「タイトルの圧がすごいんだけど」
妻は振り向いて、本の表紙を見た。
「ああ。ふふふ」
「『こころ』『第三の男』『人間椅子』と来て、次はデスノートか。僕の精神衛生はどうなってるんだ」
「でも、りゅうくん、好きでしょう?」
「好きだよ。昔、何回も読んだ」
「じゃあ、よかった」
「待ってくれ。そこに論理の飛躍がある」
「どこ?」
「好きな漫画と、自分の食卓に置かれてほしい漫画は、必ずしも一致しないんだよ」
「ふふ。難しいね」
「特に今朝は、ソファが妙な音を立てたあとだ。僕はもう、家具と筆記用具に裏切られたくない」
まいさんは笑った。
僕は本を持ち上げた。
漫画は文学か。
そんな問いをいまだに真顔で口にする人間がいるとしたら、ぜひ我が家の本棚を見せてやりたい。
芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、谷川流、そして大場つぐみと小畑健。
妻はジャンルを分けるつもりなど最初からないらしい。
僕は漫画も好きだ。
絵を描ける人間には畏敬の念を抱いている。
なにしろ僕は、人間が椅子に座るまでの場面を三頁も使ってしまう。漫画家なら、その三頁をたった一コマで終わらせられるかもしれない。
その代わり、一コマのためにどれほどの仕事をしているか、僕には見当もつかない。
「ねえ、まいさん」
「うん?」
「もし僕が漫画原作者になったら、どう思う?」
「いいんじゃない?」
「即答だな」
「だって、りゅうくん、面白いお話を考えるの好きでしょう?」
「好きだけど、漫画原作は別の才能だよ。ページをめくる場所まで考えなきゃいけない」
「小説も考えてるじゃない」
「小説でページをめくる場所は、最終的には印刷所の方が決めるからね。僕の都合ばかり押しつけられない」
「ふふ。じゃあ今日は、読者として楽しもうよ」
僕は頷いて、本を開いた。
古い記憶が、頁の向こうから戻ってきた。
名前を書くこと。
書いた人間と書かれた人間。
たった一冊のノートが、人の運命を左右し始める。
面白い設定というのは、説明した瞬間に読み手が先を想像できる。
そして、想像できた先を、作者が平気で裏切ってくる。
小説家としては悔しいほど、よくできている。
まいさんが仕事へ出たあと、僕は漫画を読み直した。
今度は物語の筋ではなく、頁の構成を意識してみる。
視線が動く方向。
人物の表情。
何を描いて、何を描かないか。
僕には分かることより、分からないことのほうが多い。
しかし一つだけ、気になった。
漫画には、コマとコマのあいだに白い隙間がある。
そこには人物の顔も、部屋の壁も、吹き出しも描かれていない。
描かれていないのに、読者はその間に何かが起きたことを理解する。
人が手を伸ばす。
次のコマでは、もう何かを持っている。
その間の動作は見せなくても、物語は進む。
僕は原稿を開いた。
昨日書いた一文。
『部屋には、二人で座れる椅子があった。』
その次を空けたまま、主人公を食卓へ歩かせる。
いったん書いて、消した。
簡単ではない。
小説はコマで区切られていない。だからこそ、書かない時間の幅を決めるのが難しい。
いっそ漫画にしてみるか。
僕は白いコピー用紙を横にし、鉛筆で四つの四角を描いた。
一コマ目。玄関に立つ男。
二コマ目。テーブルの上の卵。
三コマ目。空いている椅子。
四コマ目。
何を描けばいいのだろう。
僕は筆を止めた。
画力が足りないのではない。
そもそも、何を描くのか決めていなかった。
人間の顔を描く技術があったところで、誰の顔なのか分からなければ困る。
主人公の名前すら決めていないのだから、仕方がない。
僕は鉛筆を置いた。
四コマ漫画への道は、着手から二分で険しくなった。
昼過ぎ、インターホンが鳴った。
宅配便だった。
まいさん宛ての、小さな封筒。
表面には出版社の名前が印刷されている。
僕は受け取り、玄関脇の棚へ置いた。
妻の仕事関係のものは勝手に開けない。
そのくらいの常識は、僕にもある。
常識が足りなかったのは、ソファの中に入った一昨日の僕のほうだ。
帰りの遅くなりそうな妻へ、荷物が来たことだけ連絡した。
『小さい封筒が届いたよ。玄関に置いとく』
『ありがとう。今日中に見るね』
返事はそれだけだった。
僕は原稿へ戻った。
男はまだ玄関で立っている。
昨夜からの滞在時間を考えると、不法侵入に近い。
作者の自宅だというのが救いである。
結局、僕は夕方まで四コマ目を描けなかった。
代わりに、ひどく小さな落書きができた。
黒い四角。
その中央に、白い四角。
なかなか前衛的だ。
抽象画家として生きていく道も検討したが、晩ご飯を作る時間になったので中止した。
まいさんが帰ったとき、台所には鶏肉の照り焼きができていた。
「ただいま」
「おかえり」
「いい匂い」
「今日は卵が主役じゃないよ」
「ふふ。進歩したね」
「僕の小説も鶏肉ぐらいの進歩が欲しい」
「まだお買い物の途中?」
「いや、やっと家に帰った」
「よかった」
妻は嬉しそうに笑った。
玄関の封筒を手に取り、裏を確かめる。
「あ、届いたんだ」
「うん。仕事の?」
「そう。ちょっとした見本」
「へえ」
「りゅうくんにも見せたいんだけど、ご飯のあとでいい?」
「もちろん」
僕は皿を並べた。
食事のあいだ、妻はいつもどおり今日あったことを話した。
営業担当が電車を乗り間違えた話。
校正紙にコーヒーをこぼした人がいた話。
新刊見本を受け取った装丁家が、紙の手触りを確かめて嬉しそうにしていた話。
「高瀬さん?」
「うん」
「分かる気がする。あの人、紙を好きそうに触るから」
「ふふ。そうだね」
僕は久しぶりに彼の灰緑色のカップを思い出した。
棚には今もある。
何かの来客があるとき、また使うだろう。
食後、僕らは皿を洗った。
妻が洗い、僕が拭く。
家事の役割分担がこんなに自然に成立しているのに、僕の小説の登場人物は一向に食卓へたどり着かない。
仕事と生活は、なかなか同じ速度では進んでくれない。
洗い物が終わると、妻は封筒を開いた。
中には、薄いノートが一冊入っていた。
黒い表紙。
角が丸く、つやのない紙が使われている。
一般の文房具店にある無地のノートに似ているが、中央に小さな銀色の文字があった。
『MAI NOTE』
僕は目を瞬いた。
「……まいさん」
「なあに?」
「それ、誰かに見せる予定のやつ?」
「うん。りゅうくんに」
「言い方が不穏すぎるな」
「ふふ。どうして?」
「今朝の漫画のせいに決まってるだろ」
妻はノートを裏返した。
表紙の下に、ごく小さな出版社のロゴが印刷されている。
「試作のノートなんだ。中身は無地で、表紙の文字だけ変えられるの」
「……なるほど」
「今日、名前入りの見本が届いたの。ふふ、面白いでしょう?」
「編集者って、毎日こんな危険なものを作っているのか」
「危険かな?」
「君の名前が書かれたデスノートを、僕は危険じゃないと言い切る自信がない」
妻は肩を揺らして笑った。
「じゃあ、書いてみる?」
「何を?」
「何でも。自由帳みたいに」
「……人の名前とか?」
「ふふ。どうしようかな」
まいさんはノートを僕の前に置いた。
「まずは、りゅうくんの小説の登場人物を書いてみたら?」
「まだ主人公の名前も決まってないんだよ」
「そっか。じゃあ、ちょうどいいね」
僕は表紙を撫でた。
角の丸みが指に心地よかった。
開いてみる。
最初の頁は白かった。
その次も、その次も。
僕が見たかぎり、全部白紙だ。
最後の頁には、試作担当者の検品印だけがあった。
普通のノート。
本当に、ただのノート。
なのに『MAI NOTE』とあるだけで、急に何かの決定権を持っているように感じられる。
題名とは恐ろしいものだ。
「ねえ、まいさん」
「うん?」
「僕がこれに『出版社の編集長』って書いたら、明日から出世できる?」
「ふふ。編集長さんっていう名前の登場人物は作れるんじゃない?」
「なるほど。実社会での効力はないわけだ」
「うん。残念でした」
「じゃあ『ベストセラー作家』と書くのも無意味か」
「それは、書き続けたらなれるかもしれないよ」
「……急に真面目なことを言うなあ」
妻は少し照れたように笑った。
僕はノートを閉じた。
それから、午前中に描いた四コマ漫画を見せた。
一コマ目には玄関。
二コマ目には卵。
三コマ目には椅子。
四コマ目には何も描いていない。
「どう?」
「ふふ。三コマ漫画?」
「四コマ目が完成してないんだ」
「四コマ目ができたら、何が起きるの?」
「……それが分からないから困ってる」
妻は紙を持ち上げて、少し傾けた。
「ねえ、りゅうくん。これ、面白いね」
「どのへんが?」
「同じ椅子でも、次の絵によって意味が変わるところ」
「どういうこと?」
「次のコマで誰かが座ってたら、待っていた椅子になるでしょう?」
「うん」
「誰もいなかったら、ずっと空いていた椅子にも見える」
「なるほど」
妻は鉛筆を手に取った。
「でも、描かなくてもいいのかも」
そう言って四つ目の四角の下へ、小さく一文字書いた。
『次』
僕はその字を見た。
「……いいのか、それで」
「ふふ。作者が決めることだよ」
「その作者が困っているんだが」
「だから、まだ次でいいんじゃない?」
彼女は紙を戻した。
四コマ目の中は、白いままだった。
夜、僕は書斎で『MAI NOTE』を開いた。
妻は、それはりゅうくんにあげる、と言った。
黒い表紙は少しだけ固く、開くと新しい紙の匂いがした。
僕は最初の頁に、主人公の名前を書くつもりだった。
しかし、どうしても決まらない。
『太郎』は気軽すぎるし、『健一』には意味を求めたくなる。
『龍之介』などと書いたら自伝だと疑われそうだ。僕の名前のせいで、芥川先生まで無実の罪に巻き込むのは避けたい。
こういうときこそ、編集者の妻の出番だろうか。
でも、妻の前で主人公の名前も決められない小説家というのは、少々格好がつかない。
僕はノートを伏せて、いったん漫画を開いた。
何度も読んだはずの作品なのに、ひとつ名前を書くという行為が、こんなに重く感じられるのは不思議だった。
紙に何かを書く。
それだけのことだ。
僕は毎日、パソコンに文字を打っている。
小説の登場人物を生かすのも、傷つけるのも、旅へ出すのも、家へ帰すのも、原則として僕の仕事である。
原則として。
その原則がなかなか守れないのが、小説の厄介なところだ。
予定していた人物が突然黙り込むことがある。
書くはずのなかった一行が、原稿の中心に居座ることもある。
僕は『DEATH NOTE』を閉じた。
扉の向こうから、まいさんの足音がした。
「りゅうくん、まだ起きてる?」
「うん」
「何書いてるの?」
「まだ名前を考えてる」
「ふふ。難しい?」
「難しい。名前を決めたら、その人の人生まで決める気がして」
「そうなの?」
「まあ、僕が書く登場人物なんだからね」
「でも、その人が何を選ぶかは、その人のお話じゃない?」
「……それ、小説家には耳が痛いね」
「ふふ。ごめん」
妻は扉のところに立ったまま、僕の机を見た。
「名前、あとでもいいんじゃない?」
「うん。でも、いま決めたい気もする」
「そっか」
彼女は無理に近づいてこなかった。
「じゃあ、お茶だけ置いておくね」
「ありがとう」
湯飲みが机に置かれた。
中身は薄い麦茶だった。
珈琲では眠れなくなるからと、妻が最近気をつけている。
「おやすみ」
「おやすみ」
扉が閉まる。
僕はページへ目を戻した。
何も書いていない。
初めて、白紙が命令のように見えた。
名前を書け、と。
僕はペン先を紙に触れさせかけて、やめた。
その夜は、とうとう誰の名前も書かなかった。
翌朝、まいさんは休みだった。
僕は朝食を作り、妻はソファに座って『DEATH NOTE』を読んでいた。
緑色の布地は、相変わらず乾いた音を立てる。
こん。
妻が座ると、僕はついそちらを見る。
彼女は気づいた様子もなく頁をめくる。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「昨日のノート、使えた?」
「いや、まだ」
「そっか」
「名前って難しいな」
「ふふ。りゅうくん、いつも小説書いてるのに」
「いつも書いてるから余計に難しい」
妻は本を閉じた。
「ねえ、りゅうくん。漫画の登場人物って、名前を変えたら別の人になると思う?」
「どうだろう。顔が同じなら、読者は同じ人物だと思うんじゃない?」
「小説だったら?」
「……難しい。顔が見えないから、文章の中で誰かを区別する名前は大事だよ」
「そっか」
「ただ、名前が変わっても同じ人だと分かる場面は作れる。話し方とか、癖とか」
「例えば?」
「まいさんだったら、朝の卵はよく焼くとか」
「ふふ。それ、名前と関係ある?」
「僕にとっては、あるよ」
妻は少し笑った。
「じゃあ、りゅうくんは?」
「僕?」
「名前がなくても、りゅうくんだって分かるもの」
「……原稿の進みが遅い」
「それは違うと思う」
「じゃあ、料理に卵を使いすぎる」
「ふふ。ほかには?」
僕は考えた。
小柄なこと。
本を読むのが好きなこと。
冗談を言っているつもりで自分に一番厳しいこと。
妻の前でだけ、つい格好をつけたくなること。
それから、もう一つ。
思いついたけれど、口に出すのはやめた。
「……僕だって分かるのは、読んでくれた人だけかな」
まいさんはしばらく僕を見ていた。
「うん。そうかもしれないね」
僕は朝食の支度へ戻った。
振り返ると、妻はまた本を開いていた。
頁をめくる音がした。
その一瞬、さっき僕が答えなかった言葉を、まいさんが知っているような気がした。
もちろん、そんなことはない。
言わなかったのだから、聞こえるはずがない。
……そういう理屈だけで、人の心は片づかないらしい。
昼前、机の『MAI NOTE』を開くと、一枚の紙が挟まっていた。
昨夜はなかったはずだ。
少なくとも、僕が最後に確かめたときには。
紙は、妻の編集部で使っているものとよく似た、薄い灰色の用紙だった。
表には短い文章が印刷されている。
『表紙サンプル確認票』
その下に、三つの欄。
『タイトル』『使用者名』『確認者』
印刷所が用意した事務用の紙らしい。
タイトル欄には『MAI NOTE』。
使用者名の欄は空白。
確認者の欄に、まいさんの字で小さく『まい』と書かれていた。
そうか。妻が試作の確認をしたのだ。
ごく普通のことだ。
それなのに、使う人の名前だけ書かれていないのが気になった。
封筒に入っていた見本は、もともと妻のためのものだったのだろう。
僕はそれを贈られた。
でも、紙の上では、まだ持ち主が決まっていない。
用紙を裏返した。
裏には四つの小さな四角が、鉛筆で描かれていた。
昨日、僕が作った四コマ漫画に似ている。
ただし、こちらは縦に並んでいる。
一つ目に『渡す』。
二つ目に『受け取る』。
三つ目に『書く』。
四つ目は空白。
僕は指で順番になぞった。
四コマ漫画というより、仕事の手順を書いたメモのようにも見える。
誰が書いたのか、名前はない。
僕自身が昨日の会話を忘れて、似た図を描いただけかもしれない。
そう思って筆箱を開けた。
鉛筆の芯は、昨夜使ったままの長さだった。
そんなもの、証拠にはならない。
僕は紙をノートへ戻した。
四つ目の四角が、妙に広く感じた。
午後、修理店から電話が来た。
週末にソファを見に来られるという。
僕は少し安心した。
あの緑色の家具にも、ようやく普通の診察が必要なのだ。
「中の状態を見てもらえますか」
僕が尋ねると、店の人はもちろんと答えた。
「古い家具ですからね。外から分からない傷みもありますし」
「そうですよね」
「ご自身では無理に動かさないでください」
「……はい」
僕は、今度こそ心から頷いた。
電話を切ると、ソファは相変わらず部屋にあった。
内側で何かが動いた様子もない。
見えない場所は、見えないままだ。
僕はそこから離れ、書斎へ戻った。
『MAI NOTE』を開く。
使用者名の空欄を思い出した。
そこに自分の名前を書けば、何が起きるのだろう。
何も起きない。
当たり前だ。
漫画じゃあるまいし。
けれど、何も起きないからこそ、書くことに意味がある場合もある。
僕は確認票を机に置いた。
ペンを取った。
途中まで書いて、やめた。
黒いインクの『覗』という字が、欄の左端に残った。
まったく。
自分の名前をここまで慎重に書いたのは、婚姻届以来かもしれない。
あのときは、まいさんと二人で並んで書いた。
緊張して字が曲がり、妻に笑われた。
思い出して、僕も少し笑った。
残りを書き終える。
『覗見龍之介』
インクが乾くのを待った。
何も起こらなかった。
外で車が通り、冷蔵庫が低い音を立てた。
僕は、何かが起こるのを期待していたのだろうか。
それとも、何も起こらないことを確かめたかったのだろうか。
答えは、まだ決まらなかった。
ただ、僕の名前が一つ、紙の上に増えた。
夕方、妻は買い物へ出かけた。
僕は原稿を開き直した。
男が家へ帰ってきて、二人掛けの椅子を見つける。
そこまで書いてある。
これまで、僕は彼をずっと『男』と呼んでいた。
名前が必要だと思ったことはない。
ところが今日、『MAI NOTE』に自分の名前を書いたせいか、急にその男のことが気になり始めた。
彼は誰なのだろう。
誰のために卵を買ったのだろう。
どうして帰るのをためらっていたのだろう。
それらを決めるのは僕の仕事だ。
そう思っていた。
けれど、いまこの男が本当に何かを選ぼうとしているのなら、僕はそれを書きたい。
最初から全部決めてしまうのではなく。
僕は『男』の前へ名前を付け足そうとして、やめた。
その代わり、次の行を書いた。
『彼は、自分がどちらの椅子に座るのかをまだ決めていなかった。』
読み返してみる。
椅子は二脚ではない。
ひとつの二人掛けの椅子だ。
僕は文章を直した。
『彼は、椅子のどちら側に座るのかをまだ決めていなかった。』
こういう修正に、編集者は給料を払ってくれない。
それでも僕には、この二つが違う文章に思えた。
隣に座る人がいるかどうか。
その人が先に座っているかどうか。
彼が待っているのか、待たれているのか。
まだ何も決めていない。
それは、好き勝手にできるという意味とは少し違う気がした。
僕は続きを書いた。
男が椅子を引こうとする。
だが、それは椅子ではなくソファなので、引けない。
僕は一人で笑った。
文学には、家具の構造に関する最低限の知識が必要だ。
また一行消した。
妻が帰ったのは六時半だった。
「ただいま」
「おかえり」
「りゅうくん、お仕事どう?」
「進んでるよ。二歩進んで一歩戻る」
「ふふ。前には進んでるね」
「そう言ってくれるのは君だけだ」
まいさんは紙袋から野菜を取り出し、僕に見せた。
「今日は玉ねぎ、使える?」
「僕の小説家人生より、よほど用途が多いね」
「もう。りゅうくんもちゃんと役に立ってるよ」
「ありがとう。玉ねぎと張り合うつもりはないけど」
妻は笑った。
僕も笑った。
食卓に二人分の皿を並べたあと、僕は確認票のことを思い出した。
「ねえ、まいさん。あのノート」
「『MAI NOTE』?」
「うん。昨日くれたやつ」
「使った?」
「……少しだけ」
「そっか」
「名前、書いたよ」
妻はコップへ水を注ぐ手を止めた。
「……誰の?」
僕は少し考えた。
もちろん、書いたのは自分の名前だ。
答えるのは簡単だった。
でも、いまその名を言うと、昨日から考えていたことが急に一つの意味に閉じ込められてしまう気がした。
「……最初に書いたほうがいいと思った名前」
妻は僕を見た。
それから、ゆっくり頷いた。
「そっか」
「勝手に使ってよかった?」
「りゅうくんにあげたんだから」
「……そりゃそうだ」
「ふふ。続きを書いたら見せてね」
「ノートの?」
「うん。そっちも」
妻は笑った。
僕はそれ以上尋ねなかった。
夕飯ができると、二人で食べた。
僕の皿には大きめに切った玉ねぎが多く、妻の皿には人参が少し多かった。
こういう違いが、僕には好きだった。
寝る前、僕はもう一度ノートを開いた。
黒い表紙。
白い頁。
妻から渡された小さな見本。
使用者名の欄には、僕の名前が書かれている。
最初の頁に、主人公の名前を書くつもりだった。
まだ何も書いていない。
ノートの真ん中あたりを開くと、紙に微かな筋があった。
印刷時の圧なのか、表紙を作る途中についた跡なのか。
ライトを斜めに当てると、四角い枠が重なって見える。
昨日、妻が僕の四コマの下に書いた『次』という字を思い出した。
目を凝らした。
誰かの名前が浮かび上がるわけではなかった。
線はただの線だった。
僕は少し安心した。
安心した理由は、はっきりしなかった。
ノートを閉じると、表紙の銀色の文字が光った。
『MAI NOTE』
僕はその横へ、自分の名前を書こうかと思った。
でも、やめた。
表紙には、最初から名前が一つある。
中には、これから書ける頁がたくさんある。
両方あれば、それで十分だ。
机の引き出しには、緑色のソファの内側から出てきた紙がある。
『本当に空っぽだった?』
同じ引き出しへノートを入れるべきか、一瞬迷った。
結局、机の上へ置いた。
明日の朝、続きを書くつもりだからだ。
そのとき、小さな紙がノートの下から滑り出た。
表紙サンプル確認票だった。
四つの四角が縦に並んでいる。
一つ目。渡す。
二つ目。受け取る。
三つ目。書く。
四つ目は、空白。
僕は鉛筆を取り、そこへ一言書いた。
『読む』
見直してみる。
手順としては、ずいぶん当たり前だ。
けれど、最初からそう書いてあったら、きっと僕は気に留めなかった。
紙をノートへ挟む。
そのあと、試作の確認票の下にもう一行、印刷された小さな注意書きがあるのを見つけた。
『記入後の変更は、使用者本人にご確認ください。』
僕は声を立てずに笑った。
印刷所の、ごく普通の注意事項だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、今夜はその言葉を気に入った。
僕はノートを開き、最初の真っ白な頁へペンを置いた。
主人公の名前は、まだない。
代わりに、一行目だけ書く。
『男は帰ってきた。』
二行目。
『そのことを、まだ誰にも知らせていなかった。』
三行目を書きかけたとき、寝室から妻の声がした。
「りゅうくん、明日の朝もコーヒーお願いしていい?」
「もちろん」
「……ふたり分でいい?」
僕は手元の頁を見た。
まだ白いところがほとんどだ。
「うん。明日はね」
向こうで妻が笑った。
「了解」
僕はペンを置いた。
いつか別の名前を、ここに書くかもしれない。
書かないかもしれない。
ただ、次に頁を開くのが誰なのかは、今夜の僕にも分からない。
分からないまま眠ることを、以前より少しだけ楽しみにしていた。
最後までありがとうございました。
名前が書かれたからといって、その人の全部が分かるわけではありません。
それでも、空白だった頁に自分の字が残ると、何かが少し変わる気がします。
次回は第16話『箱男』。
今度の「見る」という行為には、どんな枠があるのでしょうか。




