第16話 箱男
安部公房の『箱男』を使う今回は、「見える範囲が狭い」ということ自体を物語の仕掛けにしたかったんです。
覗いた人には確かに見える。でも、その外側はどうなっているのか。
説明のための説明にならないよう、箱の位置や穴からの視界にも気を配りました。
どうぞお楽しみください。
見えていないものには、名前をつけたくなる。
暗闇に何かが動けば人影と呼び、机の下で物音がすれば猫を疑う。もちろん、我が家には猫がいない。なのに時々、椅子の脚に触れた足先を何かの尻尾と間違える。想像力というものは、現実よりも先に飼い主を決めてしまうらしい。
小説を書く仕事に就いている僕としては、それを長所と呼びたい。
ただ、ひとつ困ることがある。
名前をつけた途端、見えなかったものが、最初からそこにいたような気がしてくるのだ。
「りゅうくん、コーヒー、ありがとう」
「どういたしまして。本日は二名様で承っております」
「ふふ。喫茶店みたい」
「当店の売りは、客が増えても店員が増えないところだね」
「それ、売りなの?」
「経営者にとっては深刻な問題なんだよ」
まいさんは笑って、白いカップに口をつけた。
昨日の夜、彼女は明日の朝も二人分でいいかと尋ねた。僕は、明日はね、と答えた。
今朝はその約束どおり、青いカップと白いカップが食卓に並んでいる。
白いほうには少しだけ牛乳。青いほうは、今日はブラックにしてみた。
理由は特にない。僕だって、ときには変わりたい日がある。もっとも、変えたものがコーヒーに入れる牛乳の量だというあたり、人生の革命としては規模が小さすぎる。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「このあと、大きい箱が届くんだけど、受け取ってもらってもいい?」
「もちろん。出版社から?」
「うん。見本と、展示会で使った紙の資材」
「紙の資材って、段ボールとか?」
「そう。あと、ちょっと厚い紙」
「なるほど。本の会社から箱が届いて、中にも箱が入ってるわけだ」
「ふふ。入れ子みたいだね」
「開けても、また箱が出てくる?」
「それはどうかな」
妻はトーストの端をちぎった。
「そうだ。小さい文庫本も一冊、入れてもらったの」
「また?」
「また」
「君の出版社、いつの間にか僕への定期便を始めた?」
「ふふ。読んでもらいたい本が多いんだもん」
「そのうち僕の原稿より、まいさんから届く課題図書のほうが厚くなるな」
「だったら、りゅうくんの原稿も厚くすればいいよ」
「そう来たか」
妻は悪びれもせず笑った。
僕は皿の上の目玉焼きを割った。黄身がゆっくり広がる。
彼女の皿の卵は、いつもどおりよく焼けている。
そういうところは、今日も変わらなかった。
午前中、僕は小説の続きを書いた。
男は家へ帰った。二人掛けの椅子がある部屋に入る。けれど、その椅子をソファと呼ぶかどうかで、僕の文章は三度ほど止まった。
家具業者には申し訳ないが、物語の中では肘掛けひとつにも責任が発生する。
机の横には黒いノートが置かれていた。
『MAI NOTE』。
妻からもらった、表紙に銀色の文字が入った試作品だ。
最初の頁には、まだ主人公の名前がない。昨日の夜に書いたのは、男が帰ってきたことと、それをまだ誰にも知らせていないという二行だった。
その男をどうするつもりなのか、自分でも分からない。
僕はノートの表紙を撫で、元の位置へ戻した。
正午過ぎ、インターホンが鳴った。
受け取った荷物は、予想よりずっと大きかった。
横幅は僕の肩幅を超えている。高さも腰近くまであった。重さはそれほどでもないのに、玄関を通すのに苦労する。
届けてくれた配達員さんが、「軽いんですけど場所を取るんですよね」と笑った。
「うちの原稿と反対ですね」
「え?」
「いえ。こちらの話です」
配達員さんは、親切にも玄関の内側まで運んでくれた。
箱の側面には配送ラベルが貼られている。端が少し浮いていたが、よくあることだろう。
僕はスマートフォンで妻へ到着を伝えた。
『箱、届いたよ。置く場所どうしよう』
『ありがとう! リビングの壁際で大丈夫。夕方まで仕事になりそうだから、先に見本だけ出してもらっていい?』
『了解。紙に埋もれないように気をつける』
『ふふ。埋もれたら助けに行くね』
そういう問題ではない気もしたが、とにかく開封した。
中には白い見本紙、薄い板状の紙資材、折り畳まれた仕切り、それから文庫本が一冊。
安部公房『箱男』。
「……まいさん」
声に出してから、妻がここにいないことを思い出した。
最近の課題図書は、僕の生活を見てから決められているのだろうか。
この前ソファの中へ入り、昨日は名前のあるノートを手に入れ、今度は箱だ。
小説家が本から影響を受けるのは立派なことだと思う。
けれど、この調子ではいずれ書斎が家具店と梱包倉庫の中間地点になってしまう。
箱から資材を出し、文庫本を机へ置いた。
空になった段ボールは、驚くほど広く感じられた。
僕はしゃがんで、内側を覗いた。
薄茶色の壁。
底に残った、細かい紙の切れ端。
それだけだ。
それなのに『箱男』がすぐ横にあるだけで、段ボールは少し違うものに見えた。
僕は本を開いた。
読んだことはある。学生時代の、いささか背伸びした読書だったと思う。読み終えたあと、分かったふりをしたくなる作品ほど、年を重ねてから読み返すと手厳しい。
箱をまとい、窓から世界を見る人間。
その人が誰なのか、誰が書いているのかさえ、読むほど簡単ではなくなる。
僕は箱に目を戻した。
「……小説家にだけ許される言い訳があるとすれば、取材だよな」
誰にともなく言った。
自分の家で段ボールをかぶるのに許可証はいらない。ただし、その行為を誰かに説明する必要が生じたとき、職業欄に何を書くかは慎重に選ぶべきだ。
箱の上蓋を外側へ折り返し、椅子の背ほどの高さに立てる。
内側へ屈んでみると、身長百六十センチほどの僕でも窮屈だった。
今回は入れるかどうかを試すつもりではない。先日のソファで十分に試した。
僕は箱の前面、顔の高さより少し低い位置に、定規で長方形を描いた。
幅は指三本ほど。高さは、その半分。
カッターで三辺だけ切り、残りの一辺を折り目にして、小さな蓋にする。
窓ができた。
我ながら、制作費に対して夢のない建築物だ。
ただし、この窓には利点がある。
覗くあいだ、顔が外から見えにくい。
いや、別に誰かから隠れる必要などない。
妻には段ボールで視点の実験をすると、さっきメッセージで伝えている。『面白そう。無理しないでね』と返ってきた。
それで十分だ。
僕は箱をリビングの壁際へ移動した。
深緑色のソファが正面から少し斜めに見える位置だ。
ソファは窓側と本棚側の二つの座席に分かれている。箱の細い窓からは、窓側の肘掛けと座面の一部しか見えない。
本棚側を見ようと首を振れば、段ボールの縁が視界に入った。
ちょうどいい。
作家には、見せない技術も必要だ。
もっとも、見せないものばかり増やした結果、原稿が白紙になるのが今の僕の悩みなのだが。
ソファは、例の古い舞台用家具だった。
深い緑の布。
丸い肘掛け。
内側に、人が身を縮めれば入れてしまう空洞。
今では修理屋さんに診てもらう予定の、ありふれた故障家具でもある。
僕はあの中へ入ったことがある。
しかし今日は、箱の中だ。
ソファに何かを隠すつもりはないし、誰かが座ったからといって中身を確かめようとも思わない。
……と、自分に言い聞かせた。
細い窓を覗く。
何も動かなかった。
当たり前である。
妻はまだ帰っていないし、僕はたった今、家具の配置を決めたばかりなのだ。
僕はリビングを眺め続けた。
台所に置きっぱなしのふきん。
読みかけの文庫本。
青いカップは食器棚にしまってあるから見えない。
白いカップも見えない。
テーブルの脚の先に、小さな埃がついている。
普段なら見逃すはずの埃を、僕はずいぶん熱心に観察した。
狭い窓から世界を見ると、見えるものが貴重になる。
価値のない埃でさえ、今日だけは発見物だった。
僕はしばらくして箱から出た。
時間は二分ほど。
背中が少し汗ばんでいた。
このまま夕方まで箱に入っていたら、原稿は一行も進まないだろう。
まったく、実験とは怖いものだ。
三時を少し過ぎたころ、妻から電話があった。
「りゅうくん、仕事が早く終わったから、今から帰るね」
「お疲れさま」
「箱、大丈夫だった?」
「うん。ちゃんと立ってる」
「ふふ。箱の心配じゃなくて、りゅうくんのほう」
「こっちも大丈夫。いまのところ段ボールと人間の境界は守られている」
「よかった」
「……冗談だからね」
「知ってるよ」
妻の声はいつもどおり明るかった。
「帰ったらその本、一緒に見てもいい?」
「もちろん。ちょっと変わった読書会になるけど」
「ふふ。楽しみ」
電話を切る。
僕は床に置いた箱を見た。
そういえば、今朝のコーヒーは二人分だった。
夕方も二人だ。
そんなことをいちいち確認する必要はない。
それなのに、僕は箱の前で一人、つい笑ってしまった。
妻が帰るまで、もう少しだけ実験を続けよう。
今度は、実際に誰かが動くところを見たい。
もちろん、妻が帰ってから、彼女がいいと言ってくれたらだ。
四時少し前、玄関の鍵が回った。
「ただいまー」
「おかえり」
僕は箱から出て迎えた。
妻は仕事用の鞄と、小さな紙袋を持っていた。
上着を脱ぐとき、彼女は少しだけ右足を引いて体をひねる。
そういう仕草を、僕は何度も見ている。
「箱、ほんとに大きいね」
「大きいよ。僕の印税がこのくらいあれば……」
「ふふ。中身が大事だよ」
「うまいこと言うなあ」
妻は笑い、荷物を台所へ置いた。
そのあと、緑色のソファを見て言った。
「修理屋さん、明日来るって」
「週末の予定じゃなかった?」
「予定が空いたんだって。早く見てもらえるなら安心だね」
「そうだね」
僕は少しほっとした。
あのソファは、何事もなく座っていられる家具に戻ったほうがいい。
もっとも、内側に空洞があるという事実は、修理が済んでも変わらないのだろう。
僕はそんなことを考えた。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「さっきの箱、覗いてみた?」
「覗いてみた。なかなか面白いよ」
「どんなふうに?」
「見えるところが少ないんだ」
「ふふ。普通の窓と反対だね」
「普通の窓だって、見えないものはいっぱいあるけどね」
「そっか」
妻はソファの背へ手を置いた。
「私、しばらくここで本読んでてもいい?」
「もちろん」
「りゅうくんは?」
「僕はもう少し、視点の実験を」
「ふふ。いいよ。何かあったら声かけてね」
僕は頷いた。
彼女は僕を見て笑った。
僕も笑って、箱の中へ戻った。
馬鹿げた行為を、馬鹿げたまま受け入れてくれる人がいる。
結婚のありがたさというのは、案外そんなところにあるのかもしれない。
段ボールの中は、さっきより暑かった。
膝を折り、背中を丸めて、小さな窓に目を寄せる。
外からは夕方の明るさが入っていた。
窓側の肘掛け。
深い緑の座面。
その向こう、見えない本棚側の席。
妻の足音が近づいた。
すぐに、一度止まる。
床を踏み替える柔らかな音。
覗き窓に、薄い色の靴下と、部屋着の裾が入ってきた。
妻は帰宅後、いつものゆったりしたズボンに着替えていた。
厚手の布だから、形が見えすぎるわけではない。それでも、腰から太ももにかけてゆったり取られた生地が、膝の下へ細く落ちる線は、見慣れていた。
彼女は座る直前、右足をほんの少し後ろへ引く。
僕は、そういう癖を知っている。
座面が深く沈んだ。
――まいさんだ。
顔は見えない。
けれど、そう判断するまでに一秒もかからなかった。
同じ家で過ごす時間というのは、思ったより多くの情報を僕らに残すらしい。
このことを小説に書いたら、編集者の妻はどう言うだろう。
『読者にも分かる根拠を、もう少し置いてください』。
そんな赤字が頭に浮かび、僕はひとりで苦笑した。
彼女が本を開く音がした。
ぱらり。
頁をめくる。
僕には見えないが、たぶん膝に本を置いているのだろう。
こん。
古いソファの木枠が、短く鳴った。
もう、驚く音ではなかった。
修理前の家具が音を立てる。ただそれだけだ。
僕は箱の中で少し姿勢を直した。
背筋のあたりに、折り目が当たる。
今度こそ、十分経ったら出よう。
そう思ったとき。
こん。
二度目の音がした。
最初の音より、少し低い気がした。
僕は目を凝らした。
窓の中には、妻の脚が見えている。
――今のは、どこから?
ソファは二人掛けだ。
窓側の席は見える。
だが、本棚側の席は、段ボールの壁に隠れている。
その向こうで誰かが座れば、やはり音がするのだろうか。
そんなことを考えた。
考えてしまった。
僕は自分の顔が熱くなるのを感じた。
別に、誰かが来たと決まったわけではない。
古い木枠が二度鳴っただけだ。
最初の音が、少し遅れて別の板へ響いたのかもしれない。
妻が本の位置を直したのかもしれない。
そういう説明はいくつも浮かぶ。
そのどれもが、ひどく退屈に思えた。
僕はもう一度、窓の縁に目を近づけた。
見える範囲は変わらない。
変えようとしたが、箱の縁が邪魔だった。
ほんの数十センチ向こうにあるはずの、もう片方の座席。
そこに何があるのか、分からない。
いや、分からなくしているのは、自分で切ったこの小さな窓だった。
僕は膝を少し動かした。
途端に段ボールの内側が鳴る。
かさ、と。
それで、しばらく音を立てずにいようと思った。
窓の向こうを、妻の足が少し移動した。
頁がめくられる。
僕は目を細めた。
こん、ともう一度鳴らないだろうか。
そんなことを、考えた。
聞こえたら、怖いはずなのに。
心のどこかで、次の音を待っている。
気づいてしまうと、箱の中が急に狭くなった。
――何を待っているんだ、僕は。
その瞬間、背中の側で紙が擦れた。
かさり。
僕は息を止めた。
さっき自分が姿勢を変えたときの音とは違う気がした。
違う、とどうして言えるのかは分からなかった。
膝を動かしていない。
背中も、箱の壁につけていない。
では、どこで?
振り向こうとした。
しかし箱の中では、首を少しひねるだけでも肩が紙に触れる。
僕はそれを嫌って、動きを止めた。
前を見れば、窓側の席。
後ろを見れば、段ボールの壁。
もちろん、どちらも同時には見られない。
ありふれた事実なのに、そのときの僕には難問だった。
背後で、もう一度。
かさ。
ほんの小さな音。
誰かが配送ラベルの端を持ち上げたような。
そこまで考えて、僕は自分に呆れた。
なぜ配送ラベルなど思い出したのだろう。玄関で見た、あの少し浮いた紙だ。
風かもしれない。
紙は、風でも鳴る。
僕の想像力は、どうして最初から人間を呼ぼうとするのだろう。
箱の向こうで、妻が頁をめくった。
僕は音を立てずに立ち上がるつもりだった。
けれど、立たなかった。
立ち上がれば、見える。
見えるようになる。
それなら――。
僕は、なぜまだここにいる?
結局、僕が箱から出たのは、妻が立ち上がる気配を聞いてからだった。
「りゅうくん?」
少し離れたところで、妻の声がした。
「うん。ここ」
「ふふ。お疲れさま。狭かったでしょう」
「思ったよりね」
「お茶、淹れようか?」
「うん。ありがとう」
妻は台所へ歩いていった。
僕は段ボールの上蓋を持ち上げ、外へ出た。
部屋には、夕方の光が残っている。
ソファは空だった。
窓側の座面がわずかに沈んでいる。隣の席も、もとからそうだったと言われれば納得できる程度に凹んでいた。
僕は二歩だけ近づいて、立ち止まった。
クッションは古い。しばらく座っていなくても、完全には戻らない。
そこから何かを証明できるはずがない。
台所でカップの触れ合う音がした。
僕は、ソファではなく箱に目を向けた。
側面の配送ラベル。
玄関で見たとき、端が少し浮いていた。
いまは、その端がもう少しめくれているように見える。
僕はしゃがんだ。
ラベルを指先で押さえる。
紙が、小さく鳴る。
かさり。
さっきと同じ音だったかどうかは分からない。
ただ、箱の中から聞いたときの方向とは違う場所で鳴った気がした。
僕はラベルの端を少しだけ持ち上げた。
厚い紙の下に、丸い穴があった。
鉛筆の先より、ほんの少し大きい。
僕がカッターで開けた長方形の窓とは、形も場所も違う。
穴は箱の内側まで貫通していた。
段ボールの縁が、わずかに内側へめくれている。
外から何かが当たったのかもしれない。
配送中に傷ついたのかもしれない。
穴を作った人間がいたとしても、それは僕たちの家に届く前のことかもしれない。
そう考えながら、僕は箱を最初に置いた位置へ戻した。
正面の窓は、深緑色のソファの窓側の席を向く。
横の小さな穴は、廊下へ続く通路を向く。
立っている位置を変える。
穴から見えるのは、箱の内側の暗がりだった。
外からでは、明るい正面の窓が、細長い線になって浮かぶ。
もしあの中に人がいたら、何も見えないだろう。
いや。
光を背にして動けば、誰かがいることくらいは分かるのかもしれない。
僕は指を穴から離した。
その向こうの廊下には、誰もいない。
僕がそう考えたとき、台所から妻の声がした。
「りゅうくん、氷いる?」
「……今日は、いらない」
「ふふ。珍しいね」
「僕だって、たまには変わるよ」
「そうだね」
僕は配送ラベルを元へ戻した。
丸い穴は隠れた。
紙一枚で、見えなくなる程度のものだった。
お茶は、薄い麦茶だった。
白いカップではなく、普段使いの小さなグラス。
夕方に飲むには、そのくらいがちょうどいい。
僕はテーブルにつき、妻は正面に腰を下ろした。
「で、どうだった?」
「何が?」
「『箱男』。読んだんでしょう?」
「ああ、うん」
妻は本の表紙に目を向けた。
「りゅうくん、昔も読んだことあるって言ってたよね」
「ある。でも、昔はよく分からなかった。今は……」
「今は?」
「よく分からないところが、増えた」
妻は笑った。
「ふふ。変わってないじゃない」
「いや、分からないものの種類が違うんだよ」
「例えば?」
僕は文庫本を開いた。
頁の端に、小さな折れがある。
僕がさっき箱へ入る前に開いたところだ。
「箱の中から見ると、外が少ししか見えないだろ」
「うん」
「でも、その少しだけで、見えてないところまで分かった気になる」
「……そういうこと、あるかもね」
「小説も同じだと思うんだ。読者には書かれていることしか分からないのに、書かれていないことまで頭の中で埋めちゃう」
「ふふ。そうだね」
彼女はグラスを両手で持った。
「それって、悪いこと?」
「……いや。そうしないと物語にならないこともある」
「じゃあ、いいんじゃない?」
「いいのかな」
「りゅうくんは、どう思う?」
また、僕に返ってきた。
妻の編集は、いつもそうだ。答えを先に渡してくれない。
僕が黙ると、彼女は文庫本を閉じた。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「その本、最後まで読んだ?」
「まだ。途中でいろいろ試してたから」
「ふふ。じゃあ、まだ答え合わせしなくていいね」
「……答えが載ってるとは限らないけど」
「うん」
妻は微笑んだ。
「載ってなかったら、どうする?」
「もう一回読むかな」
「そっか」
それきり、彼女は何も言わなかった。
僕は麦茶を飲んだ。
冷えていた。
さっきから熱かった顔が、ようやく元の温度へ戻っていく。
夜になって、僕は箱を畳もうとした。
明日は修理屋さんが来る。玄関から家具を出し入れするかもしれないし、リビングに大きな段ボールを立てたままにしておくのも邪魔だ。
妻は先に寝室へ入っていた。
僕は上蓋を広げ、箱の側面を押した。
紙は思ったより素直に折れた。
自分で切った窓の蓋が、ぱたん、と倒れる。
夕方まで僕がいた場所は、あっけなく薄い板になった。
箱を壁へ立てかける。
すると、床に一枚の紙が落ちた。
配送ラベルだった。
もともと端が浮いていたのだから、畳んだ拍子に剥がれても不思議ではない。
その裏側には、何も書かれていなかった。
僕は少し笑った。
何かが書かれていることを、どこかで期待していたらしい。
紙は、ただの紙だった。
それを捨てようとして、手が止まった。
表側には送り状の印字が残っている。
宛名は浮気真衣。
差出人は彼女の出版社。
ごく普通の荷物だ。
その下の小さな欄に、箱の種類を示す文字があった。
『再利用箱』。
僕はしばらく、その四文字を見た。
誰かが一度使った箱。
誰かが中身を出し、また別のものを入れた箱。
それなら、あの穴が前からあってもおかしくない。
少しだけ気が楽になった。
同時に、何も分からなくなった気もした。
前からあった穴だとして、では、それをいつ誰が見つけたのだろう。
荷物を詰めた人か。
配達した人か。
受け取った僕か。
それとも、誰も気づいていないのか。
僕は箱の隅を見た。
穴のまわりの紙は、外から押し込まれたように少しだけ内側へ曲がっている。
それだけだ。
穴は、穴だった。
ここから人が見ていたという証拠にはならない。
何も見ていなかったという証拠にも。
僕は箱を畳み終えた。
窓は見えなくなった。
廊下からも、もう中は見えない。
箱を片づけたことを、妻に報告する必要はない。
僕は部屋の明かりを落とそうとして、緑色のソファを見た。
二つの座席。
窓側と本棚側。
どちらにも、誰もいなかった。
それは、今の話だった。
寝る前に原稿を開いた。
『男は帰ってきた。』
昨夜『MAI NOTE』に書いた一行を、原稿にも書き写す。
その下には、家の中の描写が続いている。
二人掛けの椅子。
開けていない扉。
名前のない主人公。
僕は今日のことを、そのまま小説に書こうかと考えた。
箱の窓。
古いソファ。
二度鳴った音。
背後で擦れた紙。
しかし、書き始める前に困ってしまった。
主人公が二度目の音を聞いたとき、彼は何を考えていたのだろう。
もちろん、僕なら答えられるはずだ。
なにしろ、体験したのは僕自身なのだから。
それなのに、キーボードに指を置いたまま動けなくなった。
誰かがいると思った。
そう書けば簡単だ。
でも、僕が耳を澄ませたのは、誰かがいるかもしれないからだったのか。
それとも。
もう一度あの音を聞きたかったからなのか。
違いは小さい。
けれど、その小ささに、いまの僕は足を取られている。
僕は『MAI NOTE』を開いた。
妻の名前に見える表紙。
自分の名前を書いた確認票。
その先には、まだ白い頁が残っている。
僕は最初の頁をめくった。
新しい頁へ、短い文章を書こうとした。
『僕は見た。』
そこまで書いて、ペンを止めた。
何を?
その問いが、白い紙の上に残った。
僕はその文に線を引き、今度はこう書いた。
『僕は待っていた。』
読み返す。
待っていたのは、人なのか。
音なのか。
答えなのか。
そのどれでもない何かなのか。
分からない。
僕は、そこで頁を閉じた。
寝室から小さな足音がした。
「りゅうくん、まだ起きてた?」
「うん。もう寝るよ」
「明日の朝、何食べたい?」
「……卵かな」
「ふふ。また?」
「我が家の小説より、卵のほうが展開が速いからね」
妻が笑った。
「じゃあ、買い置きの分で足りるね」
「うん」
「おやすみ、りゅうくん」
「おやすみ、まいさん」
僕は明かりを消した。
暗い部屋では、ソファの輪郭がぼんやり浮いている。
明日になれば、修理屋さんが来る。
家具の音は直るかもしれない。
箱はもう畳んだ。
あの小さな窓も、見えない。
けれど、明日の僕が何かを見たとき、そこに何を期待するのか。
それはまだ、分からなかった。
僕は寝室へ向かった。
妻が僕のために、掛け布団の端を少し持ち上げてくれた。
そこへ入る。
いつもの場所は、ちゃんと空いていた。
僕は、何も確かめなかった。
第16話まで読んでくださって、ありがとうございます。
何かを見るとき、私たちは同時に、見えない部分も作っているのかもしれません。
それに気づくと、昨日と同じ景色でも少し違って見えます。
次回は第17話『人間失格』。
外側の景色から、もう一度龍之介自身の内側へ向かいます。




