↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/19

第17話 人間失格

『人間失格』を題材にするにあたって、龍之介の軽口を、ただ明るいだけのものにしたくありませんでした。

笑わせることで隠せる気持ちもあれば、笑ってはいけないと感じる瞬間もある。

今回は、その境目を丁寧に書くことに苦労しました。


重い題名ですが、いつもの二人の生活も大切にしています。



家具が黙る日が来るとは思わなかった。


深緑色の二人掛けソファは、我が家で最も口数の少ない家具である。何しろ普段は一言もしゃべらない。ところが最近、誰かが座るたびに、こん、と一度だけ返事をするようになっていた。


非常に簡潔である。


簡潔すぎて、何に返事をしたのか分からない。


その一音のために、僕はしばらく余計なことを考える羽目になった。


何しろ、返事はしたのに、誰が質問したのか分からないのだ。


小説であれば、編集者に赤字を入れられて当然の場面だった。


「ねえ、りゅうくん。今日、修理屋さん何時だっけ?」


「十時半。僕が対応するよ」


「ありがとう。朝からごめんね」


「構わないよ。僕にとっては家具の定期健康診断みたいなものだから」


「定期じゃないよね?」


「じゃあ人間ドックならぬ、ソファドック」


「ふふっ。何だかおいしそう」


「ソファをパンに挟むと歯が折れるよ」


まいさんは、フライパンの火を弱めながら笑った。


僕の目玉焼きは半熟。彼女の卵はよく焼き。青いカップには牛乳を少し。白いカップは今日はブラックにした。


この朝食についてなら、僕はかなり詳細な報告書を書ける。もっとも、書けることと、書くべきことは別問題である。うちの出版社が朝食の議事録に原稿料を出してくれるとは思えない。


「帰り、遅くなる?」


「今日は少しだけ。修理が終わるころには帰れないかな」


「じゃあ、報告しておく」


「うん。無理に使わないでね」


「大丈夫。直るまではダイニングの椅子に座る」


「ふふ。小説家が椅子に座るのは禁止できないね」


まいさんは卵を皿に載せた。


僕はそこで食卓の端に新しい文庫本があることに気づいた。


太宰治『人間失格』。


白い文庫の表紙が、昨夜の箱の残像よりもずっとはっきりして見えた。


「……また強い題名が来たな」


「読んだことあるでしょう?」


「あるよ。高校のとき。それにしても、人間椅子の次が箱男、その次が人間失格とは、我が家の本棚は人類に何か恨みでもあるのかな」


「ふふっ。三冊並べたら面白そう」


「面白そうで済ませていい並びじゃないと思うよ。人間が家具に入り、箱をかぶり、とうとう資格を失うんだから」


「じゃあ、次は資格を取れる本がいい?」


「できれば普通免許ぐらいから始めたい」


妻が笑う。


僕も笑った。


太宰治がこの会話を聞いたら何と言うだろう。


たぶん、何も言わない。


亡くなった作家に失礼な冗談を押しつけるのは、僕ぐらいの売れない小説家の特権である。


そういうことにして、僕はトーストをかじった。


修理の人は、時間どおりに来た。


五十代ぐらいの男性で、道具箱を床に置く前に敷物を広げた。床を傷つけないためだという。家具を直す人は、家具の下にあるものにも気を配るらしい。


「古い舞台用のソファだと伺いました」


「ええ。譲っていただいたもので」


「珍しいですね。内側が少し変わった作りでしょう」


「……そうなんです」


彼は笑いも驚きもせず、しゃがんで座面の下を確認した。


そういう家具を見慣れている人なのかもしれない。


僕のほうは、内側の空間が職人の目にどんなふうに見えるのか気になった。自分がそこへ入った話は、しなかった。必要がないからだ。家具の診察に、患者の過去の奇行を申告する義務はないだろう。


「木枠の接合部に少し遊びがありますね。座面の前側で板が当たっているみたいです」


「それが音の原因ですか」


「おそらく。二か所が順番に触れると、一度座っただけでも間を置いて二回鳴ることがありますよ」


僕は頷いた。


二回。


たったそれだけのことなのだ。


「中はそのままで直せます?」


「できます。構造を変えずに固定を調整して、当たるところに薄いフェルトを挟みます。座面の古さは残りますが」


「……そのほうがいいです」


「分かりました。長く使いたい家具なんですね」


「はい」


声にすると、確かにそうだった。


あの家具には、知らないことが多い。それと、買い替えたいかどうかは別の話だ。


作業は一時間ほどで終わった。


木材に工具が触れる音が何度かして、裏地が元に戻された。


男性は座面を片方ずつ押し、二人で座ったときの荷重に近づけるように体重を移した。


音はしなかった。


「一度、座ってみてもらえますか」


僕は窓側に腰を下ろした。


……。


何も起きなかった。


本棚側にも移る。


……。


やはり、何も起きない。


「いかがです?」


「静かです」


「それが普通ですから」


もっともだった。


僕は本日、正常な家具に座るという貴重な経験をしたらしい。


領収書を受け取ると、男性は道具箱を閉じた。


「座面の布には以前からの癖があります。皺や凹みはすぐには取れないと思いますが、使ううえでは問題ありません」


「そうですか」


「また変な音がしたら連絡してください」


「はい。ありがとうございました」


玄関の扉が閉まる。


部屋には、修理されたソファが残った。


緑色で、二人掛けで、座ればそれなりに沈む。


ただ、音だけがなくなった。


僕はしばらく、誰も座っていない家具を見ていた。


それから立ち上がり、廊下を歩いた。


作業が終わったことを、まいさんに短いメッセージで伝えた。


『直ったよ。音もしなくなった』


返事はすぐに来た。


『ありがとう! 帰ったら座ってみるね』


末尾には、彼女がよく使う小さな笑顔の記号がついていた。


僕も同じ記号を返した。


たったそれだけのやり取りなのに、なぜか二度読み返してしまった。


昼食を済ませ、僕は『人間失格』を開いた。


昔読んだときは、何となく暗い本だと思っていた。


もちろん、そういう一言で片づけられる作品ではない。高校生の僕は理解できない部分に出くわすたび、それを暗いという言葉で覆っていたのだろう。


大人になれば分かることが増えると信じていた。


二十三歳になった今、分からないことはむしろ増えている。


大人になるとは、未知の領域が減ることではなく、地図の余白が増えることなのかもしれない。


頁をめくる。


大庭葉蔵の道化。


人を笑わせるために、自分を加工する男。


それが彼のすべてではないし、僕と同じでもない。


それでも、読みながら何度か指が止まった。


僕は、冗談を言うのが好きだ。


まいさんが笑うと嬉しい。


妻が笑ってくれれば、書けなかった原稿のことも、足りない原稿料のことも、たいていは少し軽くなる。


そこまではいい。


では、彼女が笑わなかったら。


……別に、どうということもないはずだ。


人には気分がある。冗談には当たり外れもある。夫婦の会話は毎回満点を取らなければならない試験ではない。


頭では分かっている。


でも僕は、本を閉じて、笑わせられなかった場面をいくつか思い出そうとした。


思い出せなかった。


そもそも僕は、妻が笑わなかったとき、次の冗談を急いで言ってしまうのだ。


最初の冗談が失敗したことを、二人とも忘れられるように。


そんなことまで考えて、僕は自分に呆れた。


小説家の観察力とは、他人を描くときには便利だが、自分へ向けると心底うるさい。


静かになったリビングの向こうで、冷蔵庫が低く唸った。


僕はその音に少しだけ安心した。


家の中で何かが動いている。


それが冷蔵庫であることなら、僕にも確かめられる。


書斎の机には『MAI NOTE』があった。


黒い表紙。銀色の文字。


妻の名前にも、自分のノートという意味にも読める。


裏返せば、ただの製本見本だ。


あの夜、僕は頁へ一行書いた。


『僕は待っていた。』


ひどく簡単な文章である。


ただし、目的語がない。


小説家が意図的に省いたと言えば格好はつくが、実際には書けなかっただけだ。


何を待っていたのか。


僕はそこへ何度も言葉を足そうとした。


人。


音。


もう一度見たい景色。


自分が何を望んでいるのか確かめられる、何か。


どれを書いても、少し違う気がした。


違うと分かるだけなら、まだいい。


そのどれにも、ほんの少しずつ頷きたくなってしまうことが困った。


僕はノートを閉じた。


今日こそ仕事をするべきだ。


書きかけの小説には、買い物から帰った男がいる。


家の中の二人掛けのソファに、まだ誰も座っていない。


僕はその男の口を借りて、どうでもいい冗談を書き始めた。


『男は自分を、家でいちばん役に立たない家具だと言った。


椅子は人を座らせ、机は物を載せられる。しかし男には、そのどちらも向いていない。


彼女は笑った。


それで男は、今日も立派に家具の仕事を果たした気がした。』


書いてから、少し笑った。


くだらない。


実に僕らしい。


これならまいさんも笑うかもしれない。


……その考えが浮かんだ瞬間、僕は笑えなくなった。


なぜ、彼女が笑うかどうかを最初に考えたのだろう。


小説を書くのは、読者に何かを感じてもらうためだ。編集者の感想を気にするのは仕事として当然だ。


そういうもっともな理屈が、頭の中に何個も並んだ。


どれも間違っていない。


それでも、いま書いた男は、自分を家具にしていた。


椅子にも机にもなれなかったのに、相手が笑った途端、自分には使い道があると思う。


もし彼女が笑わなかったら、この男はどうするのだろう。


書いていない。


書きたくないのかもしれない。


僕は文章の最後にカーソルを置いた。


新しい一行を入力しかけて、やめた。


そこへ『笑わなかった』と書くだけでは、何も分からない。


男が落ち込むから?


彼女が嫌いになるから?


それとも、男はもともと、自分には何の役にも立たないところがあると知っていたから?


答えを出すたびに、自分の身の丈より大きな言葉になっていく。


僕は額を手で覆った。


机の横の窓には、午後の光が薄く残っていた。


今すぐ誰かに助けてほしいわけではない。


むしろ、今の顔は誰にも見られたくなかった。


けれど、まいさんが帰るまでには、いつもの顔に戻っていようと思った。


そのことに気づくと、ますます気分が沈んだ。


僕はいったい、誰のために顔を用意しているのだろう。


「ただいま、りゅうくん」


「おかえり」


夕方、まいさんが帰ってきた。


僕は台所で米を研いでいた。


顔を洗って、手も洗って、ついでに炊飯器まで磨いてしまった。掃除したばかりの釜を見て、妻が驚く。


「わあ、ぴかぴか」


「人間としての評価を、家電の清潔さで稼ごうと思って」


「ふふ。そんなのなくても大丈夫だよ」


「先に言ってくれたら、ここまで磨かなかった」


「ふふふっ」


妻は笑った。


僕も笑えた。


そんなことが、少し嬉しかった。


「修理屋さん、どうだった?」


「いい人だったよ。音は完全に止まった」


「よかった。見てみてもいい?」


「もちろん。もう安全だって」


二人でリビングへ行った。


妻はソファの窓側に座り、少し体重を移した。


音はしない。


「ほんとだ」


「すごいだろ。家具が沈黙を覚えた」


「ふふ。今までご機嫌だったのかな」


「反抗期だったのかもしれない。何しろ年季が入ってるから」


妻は何度か座り直し、布地を手のひらで整えた。


大きな腰回りを受け止めたクッションに、緩やかな皺ができている。古い生地は、手で撫でてもすぐには真っ平らにならなかった。


「座り心地、どう?」


「うん。いつもどおりだよ」


「よかった」


僕がそう言うと、まいさんは少し首をかしげた。


「りゅうくんも座る?」


「あとでね。ご飯、炊きかけだから」


「ふふ。炊飯器なら自分で働いてくれるよ」


「家電に職を奪われる作家としては複雑だな」


彼女は笑った。


僕はその笑顔を見てから、書斎に置いてきた原稿を思い出した。


あの家具の男。


彼は、まだ誰にも読まれていない。


「まいさん」


「うん?」


「今日、短いものを書いたんだけど」


「読んでもいい?」


「……よかったら」


「もちろん」


妻は立ち上がった。


さっき座っていた場所の布地に、浅い窪みが残った。


その隣のクッションには、斜めの皺が一本あった。


僕は一瞬、その違いを見つめた。


何がどう違うのか、確かめる前に、妻がこちらを向く。


「りゅうくん?」


「……ああ、うん。持ってくる」


僕は書斎へ向かった。


リビングの家具は、もう鳴らなかった。


僕が印刷した原稿を持って戻ると、妻はダイニングの椅子に座っていた。


ソファではない。


読書灯の下の、いつもの椅子だ。


「ここでいい?」


「うん。読みやすいほうで」


彼女は紙を受け取り、端を揃えた。


高瀬さんが前にやっていたのと、よく似た仕草だった。


人によって紙の扱い方には癖がある。僕は最近それを知った。


原稿は短い。


あの男が自分を家具にたとえ、彼女を笑わせるだけの話だ。


妻の目が行を追っていく。


僕は何気ないふりをして、彼女の口元を見ていた。


読み終えたら、ふっと笑うかもしれない。


いや、途中で笑うかもしれない。


自分で書いた冗談に対するそんな期待を、まるで試験の合否を待つ学生のように抱えている。


妻は最後の行まで読んだ。


そして、もう一度、最初から読んだ。


笑わなかった。


赤ペンにも手を伸ばさなかった。


紙を机へ伏せることもしなかった。


ただ、最後の行を指で押さえている。


「……どうだった?」


僕が聞くと、妻は少し考えた。


「うん。面白かったよ」


「ほんと?」


「うん。でもね」


そこで止まった。


僕は続きを待った。


「ここ、笑っていいのかなって思っちゃった」


「……え?」


「この主人公、すごく困ってるでしょう」


「まあ、そうだけど」


「自分のこと、家具だって言ってるのに、誰かが笑ったらほっとするんだね」


「……そういう性格なんだよ」


「そっか」


妻はもう一度、紙を見た。


「ねえ、りゅうくん」


「うん?」


「この人、笑ってもらえなかったら、どうするんだろうね」


僕は一度、息を吸った。


その質問なら、さっきから自分でもしていた。


だから答えられるはずだった。


ところが、口を開いても言葉が出てこない。


「……別の冗談を言うんじゃないかな」


「そうかもしれないね」


「それが駄目なら、もう一つ」


「うん」


「……それでも駄目なら」


続きは、思いつかなかった。


まいさんは頷かなかった。


否定もしなかった。


僕のほうを見て、待っていた。


いつもなら、ここで何か言って笑わせる。


分からなければ、分からないなりにふざける。


小説家としての信用が危うければ、夫としての冗談で取り返す。


それでたいていのことは、何とかなってきた。


少なくとも、何とかなったように見えた。


なのに今は、どんな冗談も思いつかなかった。


沈黙が伸びた。


時計の秒針が一度、音を立てる。


二度。


僕は、修理されたソファのほうを見かけて、やめた。


あれはもう返事をしない。


返事をしないものから、無理に返事を引き出す必要もない。


「……まだ書いてないんだ」


ようやくそう言えた。


妻は紙へ視線を戻した。


「そっか」


「ここから先」


「うん」


「……まだ、分からない」


そのあと、彼女は少しだけ笑った。


面白いことがあったときの笑い方ではなかった。


「じゃあ、続きができたら読ませてね」


僕は頷いた。


「……うん」


まいさんは原稿を僕へ返した。


赤い字は、一つもなかった。


僕は受け取った紙の端を揃えた。


そこに書かれている文章は、さっきと同じだった。


なのに、なぜだかひどく重く感じた。


夕食の支度をしようと、二人で台所へ立った。


米は炊けている。あとは何か作ればいい。


まいさんが冷蔵庫を開けた。


「りゅうくん、今日は何食べたい?」


「……カレー」


「昨日もカレーだったよ?」


「人間には反省する能力があるからね。今日は二杯でやめる」


「昨日は三杯だったもんね」


「その記録は国会図書館に納本しないでほしい」


妻が吹き出した。


僕は玉ねぎを持ったまま、ようやく笑った。


「でも、ルー、もうないよ」


「何だと」


「ふふっ。買い物に行かないと」


「それは困った。うちの小説の男に頼めないかな」


「あの人、今は何を買って帰るところだっけ?」


「卵を一パック。たぶん、カレーは買ってこない」


「じゃあ、りゅうくんが行く?」


「……行こうか」


「私も一緒に行くよ」


「今から?」


「うん。少し歩きたいし」


僕は時計を見た。


近所の店ならまだ開いている。


「じゃあ行こう。原稿料は出ないけど、夕飯は出る」


「ふふ。それなら十分でしょう?」


「作家の労働条件としては悪くない」


妻はエコバッグを手に取った。


僕は玄関の靴を揃えた。


外へ出ると、日はもう傾いていた。


妻は僕の歩幅に合わせ、いつもより少しゆっくり歩いた。


僕は、さっきの原稿の話をしなかった。


彼女も、しなかった。


ただ、信号が赤になるたびに立ち止まり、次の青を待った。


僕らの前にも後ろにも、人がいた。


誰も僕らの会話を聞いていない。


そんなことを、なぜか確かめる必要も感じなかった。


スーパーで買うものを選んでいるあいだ、妻は二度笑った。


一度目は僕がカレー粉と唐辛子を取り違えたとき。


二度目は、卵が特売だったからもう一パック買おうと言ったときだ。


笑う理由というものは、案外こんなもので十分なのだろう。


ただし、そのことを理解したからといって、さっき書斎で感じた苦しさが消えたわけではなかった。


それを、今夜は別に隠そうとも思わなかった。


カレーは結局作らなかった。


買ってきた豆腐と豚肉で、簡単な鍋にした。


人間は変わるものである。夕食の献立に関しては、僕はかなり柔軟な思想の持ち主らしい。


「ねえ、りゅうくん」


「うん?」


「今日の本、どこまで読んだ?」


「まだ半分ぐらい。久しぶりだと、けっこうきついね」


「そっか」


「高校のときは、こんなに引っかからなかった気がする」


「昔と同じ本なのに?」


「うん。本は変わらないのに、読む僕が勝手に歳を取ったからさ」


「ふふ。二十三歳なのに、ずいぶん年寄りみたいな言い方」


「明日には二十四歳の気分かもしれない」


「お誕生日、まだ先だよ?」


「それは暦の都合だよ」


妻は笑って、豆腐を器へよそった。


「ねえ、りゅうくん」


「何?」


「『人間失格』って、どうしてあの題名なんだろうね」


僕は箸を止めた。


同じことを考えていたのだろうか。


もちろん、同じ本を読んでいるのだから、題名の話になるのは不思議ではない。


「……誰かが決めたから、かな」


「誰か?」


「本人かもしれないし、読んだ人かもしれない」


「そっか」


「でも、名前をつけられるのと、本当にそうなるのは違うと思うんだ」


言ってしまってから、少し大げさだったかなと思った。


妻はすぐには返事をしなかった。


器の縁を親指で拭い、僕の前へ置いた。


「熱いから気をつけてね」


「……うん。ありがとう」


僕は豆腐へ箸を伸ばした。


食べられる温度になるまで、少し待つことにした。


食器を片づけたあと、妻は『人間失格』を持ってリビングへ行った。


「ちょっと読もうかな」


「どうぞ。今は家具も静かだから、集中できるよ」


「ふふ。そうだね」


まいさんは本棚側の席へ座った。


音はしなかった。


僕は台所で最後のグラスを拭き、食器棚へ戻した。


青いカップ、白いカップ、その隣に灰緑色のカップ。


並び方は、高瀬さんが来た日から変わっていない。


その前を通って、リビングへ戻る。


妻が本を開いている。


窓側の席は空いていた。


布地には、いつできたのか分からない浅い窪みが残っている。


隣の席には、彼女が座っている。


僕は足を止めた。


古い布地の皺は、座った人の形を正確に保存するものではない。


修理の人も、そう言っていた。


以前、僕が座った跡かもしれない。


夕方、まいさんが試しに座ったときの跡かもしれない。


よく見れば、皺の端はクッションの縫い目に沿っているだけだった。


それでも、目が離れなかった。


誰が座ったのか知りたいから。


……いや。


何か特別な答えが見つかることを期待しているから。


その二つは、やはり少し違う。


僕が立ったままでいると、まいさんは頁を押さえ、顔を上げた。


「りゅうくん?」


「うん」


「座らないの?」


「……うん。今、行く」


彼女は窓側のクッションを軽く撫でた。


布地の皺が一本、形を変える。


それで跡が完全に消えたわけではない。


ただ、座りやすそうにはなった。


「はい、どうぞ」


「ありがとう」


僕はそこへ腰を下ろした。


音はしなかった。


妻は本へ目を戻し、僕はしばらく手を膝の上に置いていた。


彼女が頁をめくる。


それだけが聞こえた。


少し前まで、僕はこのソファから鳴る音を数えていた。


いまは、何も数えていない。


ただ、頁が次へ進むのを待っている。


いつもの場所で、いつもの時間が過ぎていく。


そのことが嬉しい。


それだけで十分なはずなのに、僕はまだほかのことも考えている。


考えている自分を、あまり好きになれないときもある。


でも、それを今日のうちに何と呼ぶか決める必要はないのかもしれなかった。


「ねえ、まいさん」


「なあに?」


「さっきの原稿なんだけど」


「うん」


「……まだ、続きが書ける気がする」


妻は本から顔を上げた。


「そっか。楽しみにしてる」


「笑えるかどうかは、分からないけどね」


「うん」


まいさんは、僕のほうへ少しだけ体を寄せた。


「読めるの、楽しみにしてるよ」


僕は頷いた。


彼女はまた本を開いた。


その動作は、さっきまでと何も変わらなかった。


僕はしばらく、開いた頁の端を見ていた。


やがて妻が本を閉じ、栞を挟んだ。


栞は、細い白い紙だった。


彼女はそれを最後まで押し込まず、先を少しだけ残した。


「もう寝る?」


「……あと少し」


「うん。じゃあ、私ももう少しここにいる」


彼女は本を膝の上へ置いた。


僕らは何も言わなかった。


ソファは静かなままだった。


寝る前、僕は書斎へ戻った。


原稿を開く。


あの男は、最後に笑われて終わっている。


僕は新しい一行を足した。


『彼女は、続きを待っていた。』


読んでみる。


これでは、彼女が何を待っているのか分からない。


男の冗談か。


男の言葉か。


それとも、別の何かか。


僕は書き直そうとして、やめた。


分からないものがあるから、続きが書けることもある。


それは最近、少しずつ覚えたことだった。


机の横には『MAI NOTE』がある。


僕は開かなかった。


今日は、原稿を保存するだけで十分だった。


扉の外から、妻が声をかけた。


「りゅうくん、おやすみ」


「おやすみ、まいさん」


「明日の朝、何食べたい?」


「卵かな」


「ふふ。また?」


「我が家の主人公よりは、毎日ちゃんと仕事してるからね」


妻が笑った。


僕も笑った。


そのあと、書斎にはまた静けさが戻った。


ただし、今夜の静けさは、家具の修理だけでは説明できない気がした。


僕は原稿を閉じて、寝室へ向かった。


笑い声は、もう聞こえなかった。


それでも廊下の先には、小さな明かりがついていた。


妻が僕のために、まだ消さずにいてくれたのだろう。


……あるいは、彼女自身がまだ起きていたのかもしれない。


どちらでもよかった。


僕は、そこへ帰った。


読んでくださってありがとうございます。


自分をどう呼ぶかと、実際にどんな人間なのかは、いつも同じではないと思います。

少しでも自分に正直になると、誰かの見え方まで変わるのかもしれません。


次回は第18話『変身』。

変わったのは誰なのか、ぜひ一緒に考えてみてください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。