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第18話 変身

『変身』という題名から、今回は外見が変わることだけでなく、同じ人が場所によって違う顔を持つことを考えました。

家で見る真衣さんと、仕事をしている真衣さん。

どちらも本当の彼女だと感じられるよう、職場の会話や仕事の手触りを書くのが難しかったです。


よろしくお願いします。


朝起きたら、自分が別の生き物になっていた。


カフカは、ずいぶん思い切った書き出しを考えたものだと思う。


僕など朝起きても、だいたい昨日と同じ生き物である。二十三歳、身長百六十センチ、原稿の進み具合は人並み以下。昨日から進化したところを探せと言われれば、顔についた枕の跡が一つ増えたくらいだ。


とはいえ、昨日とまったく同じ朝が来るとは限らない。


昨夜、僕は最後に一行を書いた。


『彼女は、続きを待っていた。』


今朝もその文章は画面に残っている。


昨夜とは違って見えるかどうか、まだ確かめていない。


代わりに、食卓へ行くと一冊の文庫本が置いてあった。


フランツ・カフカ『変身』。


我が家の課題図書は、いよいよ人間であることさえ許してくれなくなったらしい。


「ねえ、まいさん」


「なあに?」


「もし僕が明日の朝、巨大な虫になっていたらどうする?」


「ええっ」


妻はフライパンを持ったまま振り返った。


「困っちゃうね」


「だよね。さすがに困るよね」


「机の下に入れるかな」


「そこ!?」


「だって、いつもの場所で書けなくなっちゃうでしょう?」


「僕が虫になった瞬間、まず作業環境を心配するのか」


「りゅうくん、お仕事大事にしてるもん」


「……それは、まあ、そうだけど」


「キーボード、脚が多いと便利かもしれないね」


「六本全部で誤字を量産する未来しか見えない」


「ふふっ」


まいさんは笑って、目玉焼きを皿へ移した。


僕の卵は半熟。彼女のものはよく焼き。


こういうところは相変わらずである。朝起きて虫になっているより、妻が突然半熟卵を好み始めるほうが、我が家ではよほど不可解な事件かもしれない。


「ところで」


僕は文庫本を手に取った。


「今度はカフカか」


「読んだことある?」


「もちろん。虫になっても通勤の心配をする話でしょう」


「ふふ。ずいぶん現実的な感想だね」


「仕事をしている人間は、姿が変わっても締め切りがなくならないんだよ」


「それ、りゅうくんの感想?」


「今のところ、僕の実体験に基づいてる」


「まだ虫になってないよ?」


「社会的にはかなり小さくなってる気がするけどね」


「もう」


妻は笑いながら、僕の前に皿を置いた。


「そうだ。今日、午後に会社へ来られる?」


「……会社?」


「うん。小さな見本会があるの。新しい本の表紙と紙を、関係者に見てもらうんだって」


「関係者って、僕も?」


「読者として、よかったら」


僕はフォークを置いた。


読者として。


その言い方を聞くのは初めてではなかった。


「高瀬さんも来る?」


「来るよ。覚えてる?」


「もちろん。人の原稿を読んで、最後まで書けと言ってくれる貴重な方だからね」


「ふふ。そんな言い方してた?」


「だいたい僕の心の中ではそうだった」


妻は少し考え、テーブルの上に小さな案内状を置いた。


「会議というより、刷り上がりを見る会だから。特別なことをしてもらうわけじゃないよ」


「僕が来たら、夫婦同伴の参観日にならない?」


「……嫌なら、無理しなくていいよ」


「いや、行きたい」


自分で言って、少し驚いた。


人の多いところも、名刺を出す場所も、得意ではない。


なのに今日は、妻が働く場所を見てみたかった。


「じゃあ、一時半ぐらいに」


「了解。服装は?」


「普通でいいよ」


「普通の定義が文学史の次に難しいんだよな」


「りゅうくんなら大丈夫」


妻は、迷いなく言った。


僕はその根拠を尋ねようとして、卵を口に運ぶことにした。


妻が出かけたあと、僕は『変身』を読み返した。


学生の頃にも読んだ。筋も覚えている。


主人公は、朝目覚めると姿が変わっている。


その不条理な出来事以上に、変わった姿を見た周囲の人たちがどう振る舞うのか、という部分が妙に心に残った。


こちらの都合では姿を変えていないのに、相手の都合で扱いが変わる。


それは虫にならなくても、日常で少しずつ起きていることなのかもしれない。


例えば僕は、自宅では妻の夫だ。


書斎に入れば作家のつもりでいる。


しかし出版界の目から見れば、たぶんまだ無名の書き手だ。無名というのは便利な言葉で、名前を知ってもらう前のすべてを、一度に説明できてしまう。


僕のことを誰も知らない場所で、僕は何と名乗ればいいのだろう。


覗見龍之介。


それだけなら簡単だ。


でも、そこに職業を一語添える段になると、急に喉が重くなる。


小説家。


売れない小説家。


小説を書いている人。


どれも嘘ではないし、全部が同じ意味でもない。


僕は本を閉じ、クローゼットを開けた。


黒いシャツ、白いシャツ、昨日着た青いシャツ。


服を選ぶだけなら三択だ。


困ったことに、僕はさっきからどれも自分の姿に見えなかった。


結局、白いシャツを着た。


変身としては地味である。


それでも、鏡の前で襟を整えると、今日はいつもより少しだけ背筋を伸ばしたくなった。


その衝動を、小説の材料にできるだろうか。


今はまだ、書かないでおこう。


妻の勤める出版社は、駅から少し歩いたところにあった。


派手な看板はない。入口のガラス扉に会社名が小さく貼られているだけで、隣の歯科医院のほうがよほど堂々としていた。


出版とは、ここまで控えめな看板のもとで成り立つ仕事なのか。


もっとも、僕の名前が駅前の巨大広告になったところで、通行人は誤字だと思うかもしれない。「覗見」という名字の時点で、かなり特殊な宣伝効果がある。


受付で名前を告げると、担当の男性が名簿を確認した。


「覗見龍之介さまですね。お待ちしておりました」


「どうも」


「本日の見本会は、三階の会議室です」


会議室。


僕は急に緊張した。


ふだん部屋にこもって原稿を書いている人間は、会議室という単語に必要以上の重みを感じる。何人もの大人が椅子に座って何かを決める場所だ。僕など自宅の椅子一脚について、先週まで散々迷っていたのに。


案内された廊下には、印刷したばかりらしい紙の匂いが漂っていた。


壁に貼られたポスターの中には、見覚えのあるものもあった。


妻が食卓で話した本。


高瀬さんが手がけた装丁。


書店で僕が立ち読みしたエッセイ。


それらは、我が家では一冊ずつの思い出だった。


ここでは、同じ大きさの額に並んだ仕事だった。


廊下の先で声がした。


「そのままでは著者さんに見せられません。最終ページだけ、もう一度確認してください」


聞き覚えのある声だった。


しかし、その言い方には覚えがなかった。


僕は角を曲がった。


まいさんが立っていた。


いつもは柔らかく垂らしている黒い髪を、今日は後ろでまとめている。淡い色のブラウスに、落ち着いた色の上着。胸元には社員証が下がっていた。


背筋がまっすぐ伸びている。


隣の男性が、紙束を抱えて何か説明していた。


「一度これで出す案もあったんですけど」


「分かります。でも、それだと本文の最後の言葉が変わってしまうので」


「字そのものは同じですよ」


「はい。だから、順番だけ直したいんです」


男性は紙束を見直した。


「……ああ、ここですか」


「そう。ありがとうございます」


妻は、小さく頭を下げた。


僕は廊下の端で立ち止まっていた。


こちらに気づいたまいさんが顔を上げる。


「あ、覗見さん」


胸の奥が、一瞬だけ変なふうに跳ねた。


彼女が人前で僕の名字を呼ぶことは、もちろんある。


でも、今の言葉は、ほかの来場者にかけた声と同じ高さだった。


「こちら、本日お越しくださった覗見龍之介さんです。小説を書いていらっしゃる方で」


妻が隣の男性に説明する。


「はじめまして」


「こちらこそ。お世話になります」


男性は慌てて紙束を片手に持ち替え、名刺を差し出した。


僕も鞄に手を入れた。


名刺はない。


当然である。作ったことがない。


代わりに財布の角が指に当たった。


「すみません、名刺を持っていなくて」


「ああ、お気になさらず」


男の人は笑った。


妻も、少しだけ笑った。


だが、普段の「ふふっ」とは違う。


さっきまで見たことのなかった表情が、すぐそこにあった。


「会議室はこちらです。私もあとで行きますね」


まいさんが言う。


「うん。ありがとう」


返事をしてから、僕は気づいた。


彼女はほかの人の前で「りゅうくん」と呼ばなかった。


僕も「まいさん」と呼ばなかった。


たったそれだけなのに、二人で歩いてきた廊下が、急に見知らぬ建物のように感じられた。


会議室には長いテーブルが二列、向かい合わせに置かれていた。


窓側には印刷見本が並び、壁際には手触りの違う紙の束が積まれている。


テーブルの一方で、高瀬さんが誰かと話していた。


僕に気づくと、すぐに手を振った。


「覗見さん!」


「高瀬さん。お久しぶりです」


「この間はありがとうございました。コーヒー、おいしかったです」


「またいつでも。次は料金をいただくかもしれませんが」


「いくらです?」


「僕の原稿の感想、一回分で」


「それなら何杯でも飲めそうだ」


高瀬さんが笑った。


家で会ったときと、あまり変わらない笑い方だった。


少し安心する。


僕が安心したことを、相手に知られる必要はない。


「今日は奥さまのお誘いですか?」


「ええ。読者として来ていいと言ってもらったので」


「それは嬉しい。読者がいる場のほうが、作り手には勉強になります」


「僕も作り手の端くれなんですけどね」


「端くれにするには、いささか失礼でしょう」


「高瀬さんは、褒め方まで上手いなあ」


「本当にそう思ってますよ」


高瀬さんはそう言って、机の上の印刷物を一枚持ち上げた。


「覚えてますか。前にお宅で見ていただいた、三枚の案」


「もちろん」


それは、数人の書き手による短編をまとめた本の装丁案だった。


題名を大きく置いた一枚目。


絵を表紙いっぱいに広げた二枚目。


そして、題名を端に小さく置いた三枚目。


僕は三枚目を選んだ。


題名を見つけるまで、少し時間がかかるから。


自分でそう答えたのを、覚えている。


「今日は、その後の見本があるんです」


高瀬さんが言った。


「ほう。売れない作家の意見が、ついに出版界を動かした?」


「そこまでは言いませんが」


「言わないんだ」


「すみません。誠実さを取りました」


「そういうところ、好きですよ」


僕らは笑った。


高瀬さんが差し出したのは、厚紙でできた実物大の見本だった。


書店に並ぶ本より少し大きい。


外側には、題名が堂々と印刷されている。


僕が最初に選ばなかった、一枚目の案によく似ていた。


「あれ……」


僕は思わず声を出した。


「決まったのは、一枚目だったんですか」


「まず、手に取ってみてください」


高瀬さんは答えずに見本を渡した。


軽い。


厚い紙の重さというより、まだ何も挟まれていない本の重さだった。


表紙の端を指でつまむ。


紙が二枚、少しだけずれている。


外側の一枚は、帯だった。


帯を外すと、下から別の表紙が現れた。


題名が、端に小さく置かれている。


三枚目。


僕が選んだ案だった。


「……あ」


「外からだと、少し分かりにくかったでしょう?」


高瀬さんが言った。


「一枚目を帯に、三枚目を本体にすることになったんです」


「二枚分の印刷代、大丈夫なんですか」


「そこを一番悩みました」


「夢のない質問ですみません」


「いえ。夢は見積書にも載ってきますから」


高瀬さんは真顔で答えた。


僕は笑ってしまった。


表紙をよく見る。


端に小さく置かれた題名。


白い余白。


遠くから見れば、何も書かれていないように見える。


だが、近くで手に取れば、確かに文字がある。


「三枚目、残ったんですね」


「ええ。でも、それだけだと手に取ってもらいにくいという意見もあって」


「それで外側には一枚目」


「そうです」


うまいやり方だと思った。


同時に、少しだけずるいとも思った。


表紙が二つあるのだから。


読者がどちらを先に見るかは、売り場次第だ。


「こちらで決めたんですか?」


僕が尋ねると、高瀬さんは首を振った。


「最終的な提案は、浮気さんです」


妻の名字が出た。


僕の知っている名前だ。


なのに、ここで聞くと、どうしてか少し違って聞こえた。


「……そうなんですか」


「私は一案か三案か、どちらかにしたほうが潔いと思っていたんですけどね」


高瀬さんは見本を指で押さえた。


「浮気さんが、捨てなくてもいいんじゃないですかって」


「……へえ」


「もちろん、採用するかどうかは編集部と著者のみなさんで相談しました。表紙は一人で決めるものじゃありませんから」


「なるほど」


「中身は、一冊なんですけどね」


僕は帯を外したまま、見本を裏返した。


背の色は変わらない。


中には仮の白紙が挟まっているだけだ。


けれど外側の紙を戻すと、また別の本に見える。


僕は何度か、帯を外したり戻したりした。


子どもの玩具みたいで、少し楽しかった。


何度目かで手を止めると、会議室の入口から声がした。


「高瀬さん、最終色校のほう、お願いできますか」


まいさんだった。


高瀬さんは頷いた。


「はい。覗見さん、続きはあとで」


「どうぞ、お仕事を」


彼が離れる。


妻は僕の持っている見本に目を留めた。


「どう?」


「……面白いね」


「よかった」


「帯を取ったほうも、好きだな」


「ふふ。そう?」


「でも、両方あるのもいいと思う」


彼女は少しだけ目を細めた。


「そっか」


そしてほかの人に呼ばれ、すぐにまた仕事の顔になった。


僕は見本を机へ戻した。


帯は元の位置に戻しておいた。


どちらか一方だけを残す必要は、今のところなかった。


午後二時を過ぎた頃、見本会には十人ほどが集まっていた。


営業の人、印刷所の人、著者の一人らしい男性、装丁家の高瀬さん。


まいさんは会議室の端で、次々に声をかけられていた。


頷く。


尋ねる。


資料を示す。


相手が話し終えるまで待つ。


僕が知っている彼女の仕草も、いくつかあった。


相手の言葉を途中で遮らないこと。


答えを急がず、一度資料を見ること。


ありがとうと言うとき、顔を上げること。


家で本を読むときと、そこは変わらない。


ただ、そこにいる人たちは、誰も彼女を「まいさん」と呼ばなかった。


「浮気さん、この表記ですが」


「浮気さん、こちらの色を」


「浮気さん、少しよろしいですか」


妻の名前が、何度も聞こえた。


僕はひそかに感心した。


あれだけ呼ばれて、よく間違えずに全部返事ができるものだ。僕など自分の名前を呼ばれなくても振り返ることがあるのに。スーパーで「龍角散」と聞いて顔を上げたときには、自分の名前の由来を恨んだ。


やがて、男性の著者らしい人が表紙の見本を手に取り、まいさんに話しかけた。


「素敵なんですけど、こういう帯だと、最初に想像してた印象と少し違いますね」


妻はすぐに答えなかった。


「どのあたりでしょう?」


「もっと静かな本だと思っていたので。悪いということではなくて」


「はい」


「外側が少し、強いかな」


まいさんは見本の端を持ち、帯を外した。


「本体のほうは、どう感じますか?」


「……ああ。こっちは好きです」


「よかったです。帯のほうはまだ調整できます」


著者の男性がほっとしたように息を吐いた。


その顔を見て、僕はさっきまで自分が帯を付けたり外したりしていた理由を、少し考えた。


僕は遊んでいた。


この人は、自分の文章を読者へ手渡すために、真剣に表紙を見ている。


妻は、その二つのあいだに立っていた。


「売り場で、気づいてもらえるようにはしたいんです」


まいさんが言った。


「でも、本を開いたあとにまで、大きい声で呼び続ける必要はないと思っていて」


著者の人は頷いた。


「それは……なんだか、いいですね」


「ありがとうございます。帯は直してみますね。著者のみなさんにも、もう一度見てもらいます」


その返事は、僕の知っている妻の声だった。


しかし、家で「今日の卵どうする?」と尋ねる声とは、少し違う響きがあった。


彼女は何かを決めていた。


でも、決めつけてはいなかった。


僕は、それまで持っていた紙の束をテーブルへ戻した。


自分には知らない妻の時間がある。


当たり前のことだ。


そう思うのに、目の前でその時間が進んでいるのを見ると、少しだけ取り残された気持ちになる。


妻は隣の人と話している。


僕は、何を尋ねればいいのか分からなかった。


それなのに、不思議と帰りたいとは思わなかった。


少しして、印刷所の担当者が見本を取り替え始めた。


一冊をひっくり返し、帯の裏側に小さな番号を書き込む。


仕事の手つきは速い。


僕が見ていると、相手の男性が笑った。


「気になります?」


「ええ。さっきから、表紙が二枚あるのが楽しくて」


「やっぱり分かりにくいですか」


「いや、逆です。手に取った人だけ分かるのが面白いなって」


「なるほど。そういう感想もあるんですね」


男性は帯を一度広げ、僕に見せた。


裏面は真っ白ではなかった。


端に、ごく薄い色で小さな線が何本か入っている。


「印刷位置の確認用です。最終版では目立たなくなります」


「へえ」


線と線のあいだに、鉛筆で書いた小さな丸があった。


僕はそれを見て、妙な既視感を覚えた。


どこかで見た印。


いや、そもそも鉛筆の丸なんて、印刷見本なら珍しくない。


それでも気になって、尋ねた。


「これ、誰が付けたんですか」


「たぶん高瀬さんか、編集の人でしょうね。何度も回してるので、正確には」


「そうですか」


「直したいところ、あるんですか?」


「いえ。ただ……前に見たのと似ていたので」


男性は頷いて、帯を丁寧に畳んだ。


僕は自分の右手の人差し指を見た。


高瀬さんが我が家で三枚目に付けた鉛筆の印は、確かここに近い場所だった。


まったく同じとは限らない。


だが、あの日の食卓から、少なくとも一つの線がここまで続いているような気がした。


誰かが紙を持ち帰った。


誰かが別の紙へ写した。


そういう、仕事としては当たり前の手順なのかもしれない。


僕は何も確かめなかった。


確かめなかったことに、特別な理由はない。


ただ、さっき妻が著者の話を聞いているのを見たあとでは、その小さな印を秘密の暗号だと決めつける気になれなかった。


ここでは、多くの人が一本の線を引く。


誰が引いたかによって、意味が変わることもある。


それだけの話かもしれない。


見本会が終わりに近づいた頃、高瀬さんがまた僕のところへ来た。


「覗見さん、今日どうでした?」


「想像以上に、仕事してる人が多かったです」


「はは。そりゃそうですよ」


「僕の家だと、仕事してる人間はだいたい一人で、しかも時々寝ていますから」


「それも大事な仕事でしょう」


「睡眠がですか?」


「考えることが、です」


高瀬さんは紙の束を揃えた。


「奥さま、頑張ってますよ」


「……ええ」


「いろんな意見を聞いて、それでも必要なことは決めてくれる。助かっています」


「そうなんですね」


「はい。誰かが最後に責任を持たないと、本は形になりませんから」


僕は妻を見る。


まいさんは会議室の向こうで、さっきの男性著者と笑っていた。


今度は、家で聞く笑い声に少し似ていた。


「高瀬さん」


「はい」


「本って、出来上がったら、誰のものなんでしょうね」


「難しいですね」


彼は考えた。


「書いた人のものであり、作った人たちの仕事でもあります。でも、読んだ人がどんな本だと思うかまでは、こちらで決められませんね」


「……そうですよね」


「覗見さんは?」


「僕ですか」


「ええ」


「まだ、そこまで書けてないので」


「じゃあ、いつか聞かせてください」


高瀬さんはそう言って、名刺を一枚差し出した。


この間とは違う、少し厚い紙だった。


裏面に、短い手書きのメモがある。


『試し刷りを見たいときは、いつでも。』


「いいんですか」


「ええ。事前にご相談いただければ。覗見さんが書く本のことも、ぜひ聞いてみたいですから」


「……ありがとうございます」


僕は名刺を大事に財布へ入れた。


自分の名刺を作る予定は、まだない。


でも、いつか誰かへ渡す一枚について、少し考えた。


そこに何と書けばいいのだろう。


小説家。


作家。


覗見龍之介。


今日は、名前だけでもいい気がした。


外へ出ると、夕方の風が少し冷たくなっていた。


まいさんは仕事用の上着を着たまま、僕の隣を歩いた。


駅までの道には小さなパン屋があり、焼き上がりの匂いが漂っていた。


「ねえ、りゅうくん」


「うん?」


「今日は、来てくれてありがとう」


「こちらこそ。面白かったよ」


「疲れなかった?」


「ちょっとだけ」


「ふふ。そうだよね」


「いや、ずっと立ってたからさ。僕の身長だと、会議室の背の高い棚が心理的に迫ってくるんだよ」


「それは初めて聞いたなあ」


「家具に圧迫される人生なんだ」


妻は声を立てて笑った。


いつもの笑い方だった。


僕も笑う。


駅前の信号で立ち止まると、彼女は上着の袖を直した。


「ねえ、まいさん」


「なあに?」


「仕事してるとき、すごいね」


「えっ?」


「……ちゃんと、みんなの話を聞いてた」


うまい褒め方ではなかった。


もっと言葉があるはずだ。


説明が上手だったとか、判断が速かったとか、あんなに多くの紙を見分けられるのがすごいとか。


でも、最初に出てきたのはそれだった。


まいさんは少し驚いた顔をして、それから笑った。


「ありがとう」


「……僕、家にいる君しか知らないわけじゃないんだけどさ」


「うん」


「でも、知らない顔はまだあるんだなって」


「そっか」


妻は信号の向こうを見た。


青に変わるまで、しばらく黙っていた。


「ねえ、りゅうくん」


「うん?」


「今日の私、変だった?」


僕は首を振った。


「変じゃないよ」


「よかった」


「ただ……」


「ただ?」


「別の本を読んでるみたいだった」


彼女は一度、瞬きをした。


信号が青になった。


「ふふ。それなら、最後まで読まなきゃね」


「まだ続くの?」


「仕事だもん。毎日あるよ」


「そりゃそうか」


妻が笑う。


僕らは並んで横断歩道を渡った。


車道の向こうでは、誰も僕らの会話を聞いていない。


そのことが、今日は少しだけ気楽だった。


帰宅すると、まいさんは上着を脱いで、髪をほどいた。


細い留め具を外すだけで、黒い髪が肩のあたりへ落ちてくる。


社員証も外し、鞄のポケットへしまった。


「あー、やっと終わった」


「仕事モード、解除だね」


「ふふ。そうかな」


「家でも編集者なのに?」


「りゅうくんの原稿には、必要なときだけね」


「助かる。毎日校了を迫られたら僕は死ぬ」


「そんなことしないよ」


「じゃあ今日は、ただの夫として夕飯を作ろうかな」


「ただの夫?」


「一応、小説家が副業ということで」


「逆じゃない?」


「そこは会計士と相談だな」


妻は笑って、冷蔵庫を開けた。


夕飯は野菜炒めとスープになった。


僕が野菜を切り、彼女が火を使う。


仕事場では資料を次々に渡していた妻が、今は僕へにんじんを一本渡してくる。


「これ、薄く切ってくれる?」


「了解」


「できるだけ均等にね」


「その注文、印刷所と同じ精度を求めてない?」


「ふふ。大丈夫。食べられれば」


「家庭内の検品基準は優しいな」


「そう?」


「うん。会社でも、あれぐらい冗談言うの?」


「……仕事中?」


「うん」


「相手によるかな」


「そうだよね」


「りゅうくんは?」


「僕?」


「うん。家で書いてるときと、外で本の話するとき、同じ?」


包丁を持つ手が止まった。


同じだと言いたかった。


だが、今日は自分の口から出た言葉をいくつか覚えている。


高瀬さんの前では原稿を謙遜した。


受付の人には小さな声で名乗った。


妻にだけ、虫になったらどうすると尋ねた。


「……少し違うかもね」


「ふふ。そうだね」


「でも、どれも僕なんだよな」


「うん」


妻は、切り終えたにんじんを僕から受け取った。


次の言葉を待っていたようにも見えた。


僕は何も付け加えなかった。


代わりに、玉ねぎを渡した。


「次はこちらでございます」


「はーい」


彼女は笑った。


僕も笑った。


台所には、炒め物の匂いが広がっていった。


夕食のあと、僕はリビングのソファへ座った。


修理されてから、あの「こん」という音はしない。


妻も隣へ座った。


深緑色の布地が静かに沈んだ。


僕は一瞬、座面の皺へ目をやりそうになった。


だが、今日は机の上に別のものがある。


妻が持ち帰った、小さな見本だった。


「これ、もらっていいの?」


「うん。もう差し替える前の試作品だから」


「貴重品じゃない?」


「外へ出しても大丈夫なものだけ、持ってきたよ」


僕は安心して、紙を手に取った。


仕事場で見たものと同じ、二重の表紙。


外側は大きい題名。


それを外すと、端に小さい題名。


僕は二つの姿を見比べた。


「ねえ、まいさん」


「なあに?」


「この見本、どっちが本当の表紙なんだろう」


「うーん。どっちも、かな」


「……どっちも?」


「だって、ちゃんと両方使うんだもん」


「まあ、そうだけど」


「りゅうくんは、どっちが好き?」


以前にも聞かれた質問だった。


僕は帯を外した。


三枚目の案。


家の食卓で、僕が選んだもの。


そこに書かれた小さな題名を指でなぞった。


「……こっちかな」


「ふふ。やっぱり」


「でも、外側があってもいいと思う」


「そう?」


「だって、これがなかったら、手に取らない人もいるだろうし」


妻は頷いた。


「そっか」


僕は帯を戻そうとして、少し手間取った。


紙を曲げないように、慎重に端を合わせる。


彼女が横から指を添えた。


二人で合わせると、すぐに戻った。


「ありがとう」


「うん」


同じ本になった。


いや、最初から同じ本だった。


ただ僕は、外側を外したときに現れたものを、最初より少しだけ好きになっている。


その違いを、何と呼ぶかは分からなかった。


ソファの上で妻が小さくあくびをした。


「眠い?」


「ちょっとね」


「今日はお疲れさま」


「りゅうくんも」


「僕は何もしてないよ」


「本、いっぱい見たでしょう?」


「……それは、まあ」


「ふふ。だったら、疲れるよ」


妻は僕の肩にもたれた。


外側の帯には大きな題名がある。


その下にも、小さな題名がある。


同じ漢字で、同じ順番。


僕はその二つを、しばらく眺めていた。


寝る前、書斎で原稿を開いた。


昨日書いた一行が、画面に残っていた。


『彼女は、続きを待っていた。』


僕はその下へ、もう一行書いた。


『男は、帰り道で自分の名前を呼ばれた。』


少し考えて、その文を消した。


名前を呼んだ人が誰なのか、まだ決まっていない。


それよりも、そのとき男が振り返ったのかどうかを書きたかった。


僕は新しく打ち込んだ。


『男は、振り返るまでに少し時間がかかった。』


読み返す。


これは、何も大きなことが起きない一行だ。


だが、僕には必要な気がした。


机の上には『変身』がある。


その隣に『MAI NOTE』。


僕は黒いノートへ手を伸ばしかけ、やめた。


今日書くべきものは、今の原稿の中にある。


画面を保存した。


廊下から、妻の足音がする。


「りゅうくん?」


「うん?」


「明日の朝、コーヒーお願いしてもいい?」


「もちろん」


「いつもの?」


僕は少し考えた。


今日、妻は会社で何度も名前を呼ばれていた。


そのたびに、必要な返事をしていた。


今、廊下の向こうで呼んでいる声は、僕が一番よく知っている声だった。


「……うん。いつものを」


「ふふ。分かった」


「でもさ、まいさん」


「なあに?」


「卵は、明日になってから決めてもいい?」


一瞬の沈黙。


それから妻は笑った。


「もちろん」


僕も笑った。


窓の外では、夜の車が一台通り過ぎた。


朝になっても、僕はたぶん虫にはなっていない。


それはありがたい。明日こそ、もう少し長く原稿を書けるかもしれない。


書斎の灯りを消すと、廊下の向こうに、仕事用の上着が掛かっているのが見えた。ポケットから社員証の紐が少しだけ覗いている。


廊下の先で妻が待っていた。


「おやすみ、りゅうくん」


「おやすみ、まいさん」


僕は、その名前に振り返った。


最後までありがとうございました。


人が変わるのか、それとも見る側の目が変わるのか。

同じ人を知り直すことにも、ひとつの発見があるのだと思います。


次回は第19話『注文の多い料理店』。

今度は龍之介のほうから、あるものを差し出します。

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