第19話 注文の多い料理店
今回は宮沢賢治の『注文の多い料理店』から、扉を進むにつれて立場が変わっていく面白さを借りました。
いくつもの小さな「お願い」が、最後にどう読めるのか。
仕掛けのために夫婦の会話が固くならないよう、食事の楽しさも忘れずに書いています。
今回も楽しんでもらえたら嬉しいです。
僕は、妻に本を渡したことがない。
正確に言えば、なくはない。新刊を買うついでに彼女の分も会計したことはあるし、読み終わった文庫を「これ、面白かったよ」と差し出したこともある。
しかし、その本を選んだ理由まで、自分で決めて渡したことはなかった。
朝の食卓で、そういう問題に気づいた。
向かいには、半熟ではない目玉焼きを食べる妻がいる。僕の皿の卵は半熟だ。家の平和というものは、この程度の相違を許容するところから始まるのだと思う。
「ねえ、まいさん」
「なあに?」
「本って、いつも君から僕に渡してるよね」
「そうだね」
「どうして?」
「りゅうくん、本が好きだから」
「世の中の小説家が全員そうだとは限らないよ。締め切り前の小説家に本を与えるのは、猫に鰹節を預けるようなものだ」
「でも、ちゃんと読んでくれるでしょう?」
「まあね」
「だから、嬉しくて」
あまりにも簡単な答えだった。
僕はしばらく箸を動かせなくなった。
「……じゃあさ」
「うん?」
「今日は僕に一冊、選ばせてくれない?」
妻が目を丸くした。
その顔は、昨日仕事場で見た「浮気さん」の顔とはずいぶん違う。
「私に?」
「うん」
「ふふ。もちろん」
「ただ、読んでほしい本があるんだ」
「なあに?」
「今は秘密」
「ええっ」
彼女が笑った。
「りゅうくんがそんなこと言うの、珍しいね」
「作家たるもの、たまには予告編くらい作らないと」
「本編は?」
「今の発言を取り消してもいいかな」
「ふふふっ」
妻は立ち上がり、僕のカップへいつもの量の牛乳を注いだ。
「楽しみにしてるね」
僕は頷いた。
これほど気軽に承諾されると、かえって逃げ場がない。
しかも、妻はまだ知らない。
僕がすでに昨夜、その本を買ってきていることを。
宮沢賢治『注文の多い料理店』。
昔から知っている作品だ。若い二人の紳士が、山中の料理店へ入り、次々と妙な要求を受ける。最初は客として扱われているつもりだった彼らが、やがて自分たちの立場を思い知らされる。
この話の怖さは、扉の向こうに何があるか分からないことだけではない。
書かれている言葉を、一度自分に都合よく理解してしまうと、次の言葉もそう読んでしまうところだ。
読者が登場人物より先に事情を察することもある。
当人たちだけが、ずいぶん親切な店だと信じて先へ進む。
いや、笑ってはいけない。
僕だって、原稿を褒められたら、次の赤字がどれほど深刻でも、まず「ついに僕の才能が発見されたか」と考える男なのである。
妻が出版社へ出かけたあと、僕は書斎の机を片づけた。
昨日、まいさんが会社から持ち帰った表紙見本が、ソファの脇の小さな机に置いてある。
大きな題名の帯を外すと、端に小さな題名が現れる、あの見本だ。
昨日まで、僕はそれを二つの別の姿だと思っていた。
今日は、帯の下にも本があると、当たり前のことを思う。
考え方が変わる速度に比べ、物の姿は案外ゆっくりしている。
机の上には黒い『MAI NOTE』があった。
妻の名前にも、自分のノートにも読める、あの試作品。
いまは開かない。
その横に『注文の多い料理店』を置いて、文庫本の頁を少しめくった。
栞には、書店の名前が印刷されている。
昨日の帰り道、僕が自分で買ったものだ。
今日は妻のほうに、それを開いてもらう。
それだけのことなのに、原稿を応募するときより指先が落ち着かなかった。
いつも妻がやっていることなのだから、何も難しくないはずだ。
そう思ってから、もう一度考える。
いつもやっているから、簡単だとは限らない。
現に僕は、妻の隣で毎朝コーヒーを飲んでいるのに、その一杯がどんな気持ちで用意されていたのか、確かなところまでは知らない。
僕は本の最初の頁に、小さな紙を一枚挟んだ。
昨夜から書いては消し、書いては消した紙だった。
そのままにしておく。
今日は、自分が書いた言葉を他人の手に渡してみたかった。
夕方、妻と待ち合わせたのは駅の裏手だった。
大通りから一本入ると、古い商店と新しいマンションが、互いの時代を尊重しないまま並んでいる。
交差点の向こうで、まいさんが手を振った。
仕事用の上着を着て、肩には鞄を掛けている。
昨日は彼女の職場を見た。
今日は、そこから帰ってくる妻を迎えに来た。
似ているようで、ずいぶん違う。
「りゅうくん、お待たせ!」
「お疲れさま、浮気さん」
「えっ」
「会社ではそう呼ばれてたから」
「ふふ。りゅうくんまで」
「慣れない?」
「うん。ちょっとだけ」
「じゃあ、いつものに戻すよ。まいさん」
「はーい」
彼女は笑って、僕の隣に並んだ。
「どこへ行くの?」
「西洋料理店」
「へえ。何のお祝い?」
「本が一冊増えたお祝い」
「それ、毎週できそうだね」
「うちの家計には危険な祝日だな」
僕は路地の奥を指した。
小さなガラス扉の向こうに、琥珀色の灯りが見える。
看板には『山猫の食卓』と書いてあった。
「……もしかして、宮沢賢治?」
「早いな」
「だって、山猫だもん」
「ネタバレ禁止の看板にすればよかった」
「ふふふ」
この店を見つけたのは、書店の小さな案内紙だった。
普段はごく普通の洋食屋だが、月に一度、本を題材にした夕食会を開くらしい。
今月の題材は、宮沢賢治。
そこまで知って予約した。
妻にお願いする前に自分で日程を決めたのは、たぶん初めてだった。
「ねえ、まいさん」
「なあに?」
「こういうの、嫌じゃない?」
「ううん。嬉しいよ」
「本当に?」
「うん」
彼女は少しだけ笑いを弱めた。
「でも、もし私が今日は疲れてて、行きたくないって言ったら?」
「……予約を変更するかな」
「お店に悪いって思わない?」
「思うよ。キャンセル料があるなら払う」
「ふふ」
「でも、まいさんが来たくない店に僕が無理に連れて行くのは、もっと悪い」
妻は僕の顔を見た。
「そっか」
それから、ガラス扉に手を掛けた。
「じゃあ、今日は入りたいです」
「承りました」
「ふふ。お客さんになったみたい」
「いまから実際にお客さんだよ」
扉が開いた。
小さな鈴が鳴った。
僕は妻のあとに続いた。
店内は十席ほどだった。
奥には本棚があり、その前に小さな丸テーブルが置かれている。
壁には装飾用の木の扉が三枚掛かっていた。どれも人間が通れるほど大きくない。
僕はその扉を見た。
もっとも、山の中で本物の扉を次々にくぐる羽目になっては困る。
ここは駅前から徒歩十分の洋食屋なのだ。
いま必要なのは脱出の知恵より、ハンバーグの注文である。
店主らしい男性が案内してくれた。
「今夜は賢治の会です。よろしければ、こちらもどうぞ」
差し出されたのは、小さな薄茶色の封筒だった。
表には『七つのお願い』とある。
中に、細長い紙片が七枚。
一枚ずつ、番号が振られていた。
「食事が進むごとに、上から開いていただく趣向です。もちろん、遊びですので途中でやめていただいて構いません」
「……よかった」
僕は思わず言った。
「何か?」
「いえ、原作の紳士たちにはその説明がなかったので」
店主が声を立てて笑った。
「こちらは食べる側でお越しください」
「助かります。身長的に、ひと口サイズだと思われかねません」
「りゅうくん!」
妻が僕の肘をつついた。
店主がまた笑う。
僕は、今日のところは人間としてお客様席に通されたらしい。
二人で向かい合う席に着くと、僕は封筒をひっくり返した。
裏には小さな注意書きがある。
『お願いは料理の注文とは別です。どれも、必ず応じる必要はありません。』
洒落た店だな、と僕は思った。
そのときは、本当にそれだけだった。
一枚目の紙には、こう書かれていた。
『まず、お好きな席をお選びください。』
僕はテーブルを見た。
すでに座っている。
「……遅い!」
「ふふ。じゃあ、座り直す?」
「最初の扉で引き返していいなら、全部読み終わるまでに閉店するよ」
妻は自分の席の背もたれに指を掛けた。
「りゅうくん、こっちがよかった?」
「ううん。そこがいい」
「そっか」
彼女は座り直さず、僕の顔を見て笑った。
窓側に妻、本棚側に僕。
最近、座席の左右を気にすることがあったせいか、僕は配置を一度だけ確かめた。
それから、紙を封筒へ戻した。
席のことはもう考えないことにした。
それより、前菜の焼き野菜に何の香草が使われているのかが気になる。
僕の五感は、できれば平和な方向に働いてほしい。
二枚目。
『苦手なものがあれば、先に教えてください。』
「僕は青唐辛子」
「知ってるよ。前に辛すぎて涙目になってたもんね」
「僕の失態を、家庭内の歴史資料として保存しないでくれ」
「ふふ。ほかには?」
妻の前には、小さな器に入ったスープがあった。
僕は少し考えた。
「……まだ名前がついてないものかな」
「え?」
「いや、料理の話じゃなくて。原稿を読んでもらって、『ここがよくない』って言われるのは平気なんだ。でも『なんとなく違う』って言われると、どこを直していいか分からない」
「うーん」
まいさんはスプーンを置いた。
「そうだね。私も、できるだけ理由を伝えたいな」
「……そこは編集者の返事だね」
「だって、りゅうくんの原稿だもん」
それは、なぜか少し嬉しかった。
妻が家でも会社でも同じ人間だと、今さら確認されたような気がした。
三枚目は、前菜の皿が片づいたあとに開いた。
『お相手の分も注文するときは、先にお尋ねください。』
「ほう。いまどきの料理店は礼儀正しいな」
「お料理、勝手に決められたら困っちゃう人もいるもんね」
「まあね。僕は今日、店を勝手に決めちゃったけど」
「ちゃんと聞いてくれたでしょう?」
「ああ……そうか」
僕は紙をもう一度見た。
『先にお尋ねください。』
ごく普通の注意だった。
ただ、誰かに何かを渡す前には、渡していいか聞く。
考えてみれば、本についても同じだった。
妻は僕に本を渡すとき、だいたい「読んでみる?」と聞いている。
僕はいつも「うん」と答えてきた。
今日、僕が妻に渡そうとしている一冊については、まだ尋ねただけだ。
答えはもうもらっている。
それでも、心臓のあたりは落ち着かなかった。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「今度の本、何だろうね」
「山猫の前で言うべき台詞じゃないな」
「ふふっ。じゃあ、もう分かっちゃったかも」
「そこは分からないふりをしてくれてもいいんだよ」
「……そう?」
妻は少し考えるように首をかしげた。
「でも、分かったら、分かったって言ってもいいでしょう?」
僕はナイフを置いた。
皿の中では、まだ半分の料理が残っている。
「……もちろん」
「ふふ。よかった」
彼女はまた食事に戻った。
僕も戻った。
肉料理は温かく、ソースには少しだけ苦みがあった。
妻はその苦みが好きだと言った。
僕は、二口目から好きになった。
四枚目の紙は、少し妙だった。
『次の一皿は、急がずお待ちください。』
「待てときたか」
「お腹すいた?」
「空いてるよ。作家という生き物は常に腹ペコなんだ。原稿料という主食が足りないからね」
「ふふ。今日はいっぱい食べていいよ」
「自分の財布で予約した店で、妻にそれを言われるのは妙な敗北感がある」
「でもお祝いでしょう?」
「そうだった。本が一冊増えたお祝いだった」
四枚目を伏せると、裏にも文字があることに気づいた。
細い茶色のインクで、一行だけ。
『お待ちいただけますか。』
表が命令形に近いのに対し、裏は質問になっている。
妻が身を乗り出した。
「どうしたの?」
「これ、裏にも書いてある」
「本当だ」
「……最初から?」
「分かんない。私、まだ表しか見てなかった」
僕らは、一枚目の紙を取り出した。
裏返す。
『こちらの席でよろしいですか。』
二枚目。
『お召し上がりになれないものはありますか。』
三枚目。
『お分けしてもよろしいですか。』
僕は、表と裏を交互に読んだ。
『先に教えてください。』
『ありますか。』
『先にお尋ねください。』
『よろしいですか。』
なるほど、と頷きかけて、やめた。
これは、同じことを言い換えているのだろうか。
言い換えているだけなら、なぜ片面は断定で、もう片面は質問なのか。
そのとき店主がデザート用の小さな皿を持ってきた。
「何かお困りですか?」
「いえ。裏にも文章があるんですね」
「お気づきになりました?」
「ようやく。かなり鈍い読者だったようです」
「紙を裏返すと、お願いする人の立場も少し変わるようにしたんです」
店主は淡々と言った。
「でも、表と裏のどちらから読んでも、最後まで食事はできますよ」
「……なるほど」
妻が紙を指で押さえた。
「じゃあ、今から裏のほうを読んでもいいんですか?」
「もちろん。読み方はお客様のものですから」
店主は軽く頭を下げ、厨房へ戻っていった。
僕は店主の後ろ姿を見送った。
読み方はお客様のもの。
商売としては親切な言葉である。
小説家としては、少し怖い。
自分で書いたものが、自分の思っていなかった意味を持ってしまうからだ。
「りゅうくん?」
「うん?」
「私、こっちのほうが好きかも」
妻は三枚目の裏を示した。
『お分けしてもよろしいですか。』
「どうして?」
「断りやすいから」
「……なるほど」
「でもね、表のほうがいいときもあるよ」
「例えば?」
「迷っているとき。『こっちへどうぞ』って言われたら、ちょっと安心することもあるでしょう?」
僕は一枚目を見た。
『お好きな席をお選びください。』
自分で選ぶことを求めているのに、同時に誰かから頼まれているようにも聞こえる。
矛盾しているのかもしれない。
でも、どちらでもないのかもしれない。
「まいさん、仕事でこういうのよく見る?」
「こういうの?」
「同じ文章が、読む向きで違って見えるやつ」
「うーん。印刷物ならたまにあるけど……」
妻は笑った。
「人の気持ちは、もっとたくさんあるかもね」
「そんな本の装丁を頼まれたら、高瀬さんが気の毒だ」
「ふふ。高瀬さんなら面白がるよ」
「確かに」
僕らは笑った。
四枚目を表に戻すか、裏のままにしておくか、しばらく迷った。
結局、どちらの文字も見えるよう、紙を斜めに置いた。
器用な妥協だと思う。
少なくとも、食卓でなら成立する。
五枚目は、デザートの前に届いた。
『一口ずつ、味わってください。』
裏は、こうだった。
『もう少し時間をかけてもよろしいですか。』
「これはいいね」
僕が言うと、妻は少し意外そうにした。
「どうして?」
「まだ終わってないのに、終わりにされたら困るから」
「お料理?」
「……まあ、お料理も」
言ってから、自分が原稿のことを考えていたのに気づいた。
昨日書いた一行。
『男は、振り返るまでに少し時間がかかった。』
まだ、主人公は振り返っていない。
それなのに僕は、続きを誰かに見せたくて仕方なかった。
ここで急に、小説の本筋を投げ出すのも違う。
だが、妻に全部を完成させてから読んでもらおうと思っていたら、何年後になるか分からない。
僕の完璧主義は、完成を遠ざける方向にだけ勤勉なのだ。
「まいさん」
「なあに?」
「今度の本とは別にさ、あとで短いものを読んでほしいんだ」
「りゅうくんの?」
「うん。書きかけだけど」
「いいよ」
「……編集者としてじゃなくて」
妻は頷いた。
「一人の読者として、でしょう?」
「よく覚えてるね」
「ふふ。大事な注文だったから」
そうか、と僕は思った。
妻に渡したつもりの注文は、ちゃんと相手のところに残っていた。
それが、少し不思議で、かなり嬉しかった。
六枚目の紙には、料理とはずいぶん関係のなさそうな言葉があった。
『途中の扉へ戻ってもかまいません。』
裏は『一度、前の頁へ戻ってもいいですか。』。
「……本の話になってる」
「賢治の会だもんね」
「でも、この店、扉は入口の一枚だけだよ」
「壁にもあるよ」
「通れないやつが三枚ね」
僕は木の扉を見た。
厨房のほうから、食器の触れ合う音がする。
外はすでに暗くなっていて、ガラスの向こうを人が何人も通り過ぎた。
「りゅうくんは、戻るの嫌い?」
「小説の頁なら、戻るのは好きだよ。推理小説なんて、戻らずに読んだら作者に負けた気がする」
「勝ち負けなの?」
「ときどきね」
「負けるの、嫌?」
「……まあ、嫌かな」
妻はテーブルの端へ紙を寄せた。
「でも、戻ってよかったって思う本もあるよね」
「ある」
「じゃあ、勝ち負けだけじゃないのかも」
「……そうだね」
僕は紙を手に取った。
最初に読んだとき、自分がどういう意味で受け取ったのか思い出す。
一枚目は席を選べという命令に見えた。
二枚目は苦手なものを申告せよという注意。
三枚目は、相手の分を勝手に決めるなという忠告。
どれも間違ってはいない。
ただ、裏返すと、誰かがこちらに許可を求めている。
表には店の都合が、裏には客の願いが書かれているのだろうか。
それとも逆か。
僕は確かめたかった。
だが、その前に妻が言った。
「りゅうくん、そろそろ最後の一枚じゃない?」
「……そうだね」
封筒の中を覗く。
残っているのは一枚。
七枚目。
表に印刷されていたのは、短い一文だった。
『最後に、あなたの注文をお聞かせください。』
僕は裏返した。
何も書かれていなかった。
今までの六枚には、表にも裏にも文字があった。
なのに、最後だけは真っ白だった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「裏がない」
妻が紙を受け取った。
「ほんとだ」
七枚を並べる。
六枚には、それぞれ二通りの言葉。
七枚目には一通りだけ。
僕は印刷の間違いかと思い、端を探した。
角には、小さな鉛筆の絵がある。
ここに書くのだ。
それに気づいたとき、店主がレモンの香りのする小さな菓子を運んできた。
「最後の一枚まで来られましたね」
「これ、裏が空白なんですね」
「はい。そこはお客様の番ですから」
「お客様の番?」
「当店へのご注文でも、向かいの方へのお願いでも。何も書かずに持って帰っていただいても結構ですよ」
「……何も書かなくても?」
「もちろんです。注文されない日だってありますから」
店主はにこりと笑った。
僕は七枚目の白い裏を見た。
店がこちらに要求する紙だと思っていた。
しかし、最後に何を書くかは僕らが決めていいらしい。
紙の裏も、料理の先も、いまは何も決まっていない。
「このお菓子はサービスです。よければどうぞ」
店主が去ってから、妻は菓子を一口食べた。
「おいしい」
「よかった。こちらは注文してないのにね」
「ふふ。注文しなくても来るものもあるんだね」
僕も食べた。
甘くて、酸味が残った。
七枚目の白い紙は、その横で静かに待っていた。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「最後の紙、どうする?」
「……何を書けばいいんだろうね」
「りゅうくんが決めていいんでしょう?」
「君もね」
「ふふ。じゃあ、半分こ?」
「注文用紙を分割すると、料理も半人前になるかもしれない」
「ええっ。それは困るね」
僕らは笑った。
店主は鉛筆を一本、七枚目の横に置いてくれていた。
僕はそれを取った。
書こうとして、止まる。
『次も、僕の選んだものを読んでください。』
そんな文が浮かんだ。
たぶん、断られることはない。
妻は僕の書いたものを読んでくれる。
だからこそ、僕はその文を書かなかった。
代わりに、こう書いた。
『今夜、僕の選んだ本を読んでもらえますか。』
妻のほうへ紙を滑らせる。
彼女は一度それを読み、それから顔を上げた。
「……うん」
短い返事だった。
僕は鉛筆を置いた。
「本当に?」
「うん。自分で選んでいいなら、読みたいよ」
「じゃあ、読むのをやめるのも自由?」
「もちろん。りゅうくんが書いた本だったら、途中で寝ちゃうかもしれないし」
「気遣いというものを知らない編集者がここにいる」
「ふふふっ!」
妻は笑った。
今夜の笑いは、いつもの家で聞くものより少し弾んでいた。
それでいい、と僕は思った。
読まれることを選んだ以上、読んだ人がどう感じるかまでは決められない。
でも、感想を聞く前から結末を決めつける必要もない。
六枚の紙は、もう一度封筒へ戻した。
七枚目だけ、妻が手元に残した。
「これ、持って帰っていい?」
「たぶん、いいと思うよ」
「じゃあ、栞にしようかな」
「……栞?」
「うん。いただく本に挟もうと思って」
僕は彼女の顔を見た。
妻は、ごく普通のことを言ったように笑っている。
僕は返事をするまでに、少し時間がかかった。
「……いいね」
「ふふ。決まり」
それは、小さな約束だった。
レストランを出るとき、店主が「またお越しください」と言った。
僕は「今度は料理だけ注文しに来ます」と答えた。
店主が笑い、妻も笑った。
出口の扉は、一枚だった。
僕らは自分でそれを開けて、外へ出た。
帰り道、僕はずっと封筒を持っていた。
七枚のお願いのうち、六枚だけが中に残っている。
七枚目は妻の鞄にある。
「ねえ、りゅうくん」
「なあに?」
「今日、ほんとに嬉しかったよ」
「料理?」
「うん。お料理も」
「それ以外は?」
「りゅうくんが選んでくれたこと」
妻は少しだけ足を遅くした。
「私ね、本をすすめるの、好きなんだ」
「知ってる」
「でも、りゅうくんが何を選んでくれるかも、知りたかったのかもしれない」
「……そう?」
「うん」
僕はアスファルトの継ぎ目を見た。
大したことはしていない。
本を一冊買い、食事の予約をして、七枚目の紙に質問を書いただけだ。
そのうち六枚は、店が最初から用意してくれていた。
だから、僕ができたことなんて少ない。
でも、いつかまいさんに本を渡してみようと考えて、結局ずっと渡せずにいた頃の自分なら、今日のことをどう思うだろう。
彼は、たぶん信じない。
妻に本を渡すだけで、こんなに緊張するものなのかと笑うだろう。
その笑い方なら、僕もよく知っている。
「ねえ、まいさん」
「なあに?」
「本の話だけじゃなくてさ」
「うん」
「僕、いままで君が何を選ぶのか、ずっと待ってた気がする」
「……そっか」
「待つのが嫌だったわけじゃないよ」
「うん」
「でも、たまには僕が選んでもいいかなって」
妻はすぐには返事をしなかった。
前を見たまま、僕の歩調に合わせている。
街灯の下まで来ると、彼女は小さく頷いた。
「……うん。私もそう思う」
それから、明るい声に戻った。
「でも、次は私の行きたいお店にも付き合ってね」
「それは君の注文?」
「お願い、かな」
「拒否権は?」
「あるよ」
「じゃあ、聞いておこう」
「ふふ。まだお店も決めてないのに」
妻が笑った。
僕も笑った。
そのとき、ふと気づいた。
僕は今夜、何度も「いいかな」と聞いた。
自分から選ぶと決めたのに、ずいぶん弱気な選び方だったかもしれない。
でも、誰かの返事を待つことと、自分が何も選ばないことは、同じではない。
僕はもう一度、鞄の中の文庫本を確かめた。
帰宅してから渡すつもりだった。
妻はまだ、それを開いていない。
今日という日のいちばん大切なところは、たぶんこれから始まる。
家に着くと、まいさんは仕事用の上着を脱いだ。
昨日と同じ、いつものリビング。
深緑色の二人掛けソファがある。
修理してから、あの音は聞こえない。
妻は窓側の席へ座り、僕は本棚側へ座った。
座るとき、いつもの癖でソファの脚元を見そうになった。
やめた。
今日は、自分で選んできた本を渡す日だ。
「まいさん」
「うん?」
「どうぞ」
僕は文庫本を差し出した。
表紙には宮沢賢治の名前がある。
妻は両手で受け取った。
「ありがとう」
「……知ってる話だったよね」
「うん。でも、また読むのは好き」
「よかった」
彼女が頁を開く。
最初のところで、小さな紙片が落ちかけた。
妻が指で挟み直す。
僕は息を止めた。
「これ、りゅうくんが書いたの?」
「……うん」
「読んでいい?」
「もちろん」
紙片には、一行だけ書いてある。
『まだ書き終えていない短いお話も、読んでもらえますか。』
僕は今日、二度同じようなことを聞いていた。
店の七枚目でも、文庫に挟んだ紙でも。
何度も聞かないと不安なのだから、僕はつくづく注文の多い男だ。
妻は紙を畳み、七枚目の注文票と重ねた。
「……二回も聞いてくれたんだね」
「しつこい?」
「ううん」
彼女は首を振った。
「嬉しいよ」
「……よかった」
「短いお話って、いつもの原稿?」
「そう。昨日の続き。まだ途中だけど」
「じゃあ、読ませてもらおうかな」
僕は書斎から数枚の紙を持ってきた。
推敲したところだけ、家のプリンターで印刷したものだ。
妻に見せる原稿としては、あまりに頼りない束だった。
でも、いま持っているのはこれしかない。
表紙もない。
題名もない。
印刷した部分の最初の一行は、『彼女は、続きを待っていた。』。
その下には、昨日書き足した文章がある。
『男は、振り返るまでに少し時間がかかった。』
僕は妻の隣へ戻った。
彼女は文庫本をテーブルへ置き、紙の束を受け取った。
いつものように赤ペンを出しかけ、途中で手を止めた。
「……今日は、使わないね」
その言葉が、彼女自身に向けられたものなのか、僕に向けられたものなのか、少し分からなかった。
でも、僕は頷いた。
まいさんは、赤ペンを鞄へ戻した。
それから、原稿を開いた。
妻が原稿を読むあいだ、僕は隣でじっとしていた。
何度か頁がめくられた。
彼女は途中で笑わなかった。
先日、あの原稿を読んでもらったときのことが少し頭をよぎった。
でも今日は、笑ってほしくて書いた文章ではない。
そこだけは、自分でも分かっている。
僕は、自分が何を期待しているのか、できるだけ考えないようにした。
それでも、妻が同じ頁を二度読むと、胸の奥がざわついた。
何か気になるところがあったのだろうか。
直したほうがいいだろうか。
また、余計な説明をしてしまっただろうか。
妻は最後の頁まで読んだ。
紙の端をそろえ、膝の上に置く。
しばらく、何も言わなかった。
「……どうだった?」
とうとう僕が尋ねた。
彼女は僕を見た。
「うん。続きが読みたい」
喉の奥から、変な音が出そうになった。
「……それだけ?」
「それだけじゃ、だめ?」
「いや。最高の感想だよ」
彼女は笑った。
「ふふ。よかった」
「ただ、一つだけ聞いていい?」
「なあに?」
「この主人公、最後にちゃんと選べてる?」
まいさんは原稿へ目を戻した。
「……まだ、選んでないんじゃないかな」
「そう思う?」
「うん。でも、それが悪いとも思わないよ」
彼女は一度、最初の頁をめくった。
「ここから先、まだ書けるでしょう?」
「……書けると思う」
「じゃあ、私は待つね」
言ってから、まいさんは少しだけ笑った。
「でも、待ってるだけじゃないかもしれないけど」
「……どういう意味?」
「ふふ。読者だって、次の本を選ぶもの」
僕はしばらく黙った。
たしかに、そうだ。
読んでもらうことを選んだのは僕だ。
その先で何を選ぶかは、彼女にも委ねられている。
「……それは、ちょっと怖いね」
「怖い?」
「書いた通りに読んでもらえるとは限らないから」
「そうだねえ」
妻は、机の上の七枚目の紙を手に取った。
自分の鞄にしまいかけて、やめたらしい。
裏には、僕の書いた注文がある。
表には、店の文字。
『最後に、あなたの注文をお聞かせください。』
彼女はしばらくその裏を見ていた。
そして、僕に鉛筆を借りた。
「何か書くの?」
「うん。私からも、一つだけ」
「……何を?」
「読んでからのお楽しみ」
僕は自分の鉛筆を渡した。
妻は紙を伏せ、僕に見えない角度で何かを書いた。
その仕草が、昔から知っている人のものに見えた。
なのに、何が書かれるかは分からない。
僕は、彼女の手元を覗き込まなかった。
しばらくして、まいさんが鉛筆を返した。
「はい」
僕は紙を受け取った。
裏には、僕の注文の下に、小さな文字が増えていた。
『続きを、あなたが選んだ言葉で聞かせてください。』
僕は、それを何度か読んだ。
自分の言葉で。
きっと、そんな意味だ。
少なくとも、いまの僕にはそう読めた。
「……注文が一つ増えたね」
「ふふ。多い?」
「これくらいなら、喜んで」
僕は答えた。
自分の返事が、思ったよりはっきり響いた。
まいさんが寝室へ行ったあと、僕は書斎へ戻った。
原稿の末尾には、昨日の一行がある。
『男は、振り返るまでに少し時間がかかった。』
僕はその下へ、今夜の続きを書いた。
『男は、自分が待っているつもりだった。』
一度、読み直す。
次の行。
『けれど、扉の前に立っていたのは、男だけではなかった。』
そこで指が止まった。
これは、誰かがもう一人いたと書きたいのか。
あるいは、男自身も誰かを待たせていたと書きたいのか。
どちらとも決められなかった。
それでも、今日は消さなかった。
机には『MAI NOTE』がある。
開けば、白い頁が残っている。
妻が選んだ本も、僕が選んだ本も、棚に並んでいる。
今夜はその横に、宮沢賢治の一冊を置いた。
店から持ち帰った茶色い封筒には、六枚の紙。
残りの一枚は、僕の原稿の上にある。
表には店の注文。
裏には僕と妻の文字。
僕はそれを挟むため、原稿の束をそろえた。
挟みどころに少し迷った。
最初の頁にしようか。
最後の頁にしようか。
まだ最後の頁は、書いていない。
だから、ひとまず途中に挟んだ。
翌朝、別の場所へ移すこともできる。
そう思うと、少し気が楽になった。
僕はもう一度、原稿のあの部分へ戻った。
『彼女は、続きを待っていた。』
昨日は、彼女が待っている話だと思った。
今日は、男にもできることがある気がした。
ただ、それが何なのか、まだ文章にはなっていない。
眠る前に、いつものように妻が声を掛けた。
「りゅうくん、明日の朝、コーヒーお願いしていい?」
「うん」
「いつもの?」
「……うん。でも、まいさん」
「なあに?」
「明日の朝は、僕がパンも買ってくるよ」
「えっ。いいの?」
「お店が開いてたらね」
「ふふ。じゃあお願いしちゃおうかな」
「どうぞ。こちら、注文を承りました」
妻が笑った。
僕も笑った。
書斎の画面はまだ明るい。
僕はもう一度、最後の行を見た。
それから、続きを一行だけ書いた。
『男は、扉の取っ手に手を掛けた。』
開けるかどうかは、まだ書いていない。
でも、彼がそこまで歩いてきたことは、もう消さなくていいと思った。
第19話を読んでくださり、ありがとうございます。
人に何かを頼むことと、自分で何かを選ぶこと。
似ているようで、少し違うのかもしれません。
龍之介が差し出した言葉を、ここから先も見守っていただけたら嬉しいです。
次回は第20話『ルーズヴェルト・ゲーム』。
いよいよ、ひとつの大きな節目です。




