第20話 ルーズヴェルト・ゲーム
とうとう第20話まで来ました。
『ルーズヴェルト・ゲーム』の「8対7」という数字を、ただの語呂合わせにせず、この夫婦が積み重ねてきた時間と結びつけることが今回の課題でした。
龍之介の気持ちを急に変えないこと。そして、自分の言葉で選ぶということ。
ここまで読んでくださった方に、まっすぐ届けば嬉しいです。
僕は野球が得意ではない。
とくに、ボールが飛んできたときの判断がよろしくない。打つべきか、避けるべきか、考えているうちにだいたい通り過ぎてしまう。
小説なら打ち直せるのに、と昔から思っていた。
文章の一球なら、消して、戻して、また消せる。現実の球審は、こちらが推敲を終えるまで待ってはくれない。
ところが今朝、パン屋からの帰り道で、僕は思いがけず野球のことを考えていた。
小さな紙袋には丸いパンが二つ。昨夜、妻から受け取った注文に応えて買ってきたものだ。
店の前で一度、三つ買おうか迷った。
ひとつ余れば昼にも食べられる。簡単な計算だ。
でも結局、二つにした。
必要なものを必要なだけ買うという、ごく普通の選択だった。
その選択が、自分のものだと感じられたのは、少し久しぶりだった。
「おかえり、りゅうくん」
「ただいま。依頼されたパンを二名分、確保してまいりました」
「ふふ。お疲れさま」
「今なら追加注文も受け付けております。配送料は別途」
「じゃあ、牛乳をちょっと足してもらおうかな」
「我が家の編集長、朝から指示が具体的だな」
「昨日、注文はちゃんと伝えたほうがいいって言ってたでしょう?」
「……確かに」
妻は食卓の向こうで笑った。
彼女の卵にはよく火が通っていて、僕の卵の黄身はまだ柔らかい。
パンが一つずつ皿に乗る。
何度目なのか、もう数える気にもならない朝食だ。毎日のことを物語にすれば、さぞ分厚い本になるだろう。僕の小説より先に完結しそうで恐ろしい。
まいさんがパンの横へ一冊の文庫本を置いた。
池井戸潤『ルーズヴェルト・ゲーム』。
「……野球?」
「うん」
「昨日は山猫に食べられかけて、今日は野球部に入部か。我が家の読書会、入会条件が厳しいね」
「りゅうくん、野球嫌い?」
「嫌いじゃないよ。ただ、バットに振り回されたことはある」
「ふふ。打つほうじゃなくて?」
「うん。道具のほうが僕より主人公らしかった」
妻は笑ったあと、少しだけ真顔になった。
「どんな試合が好き?」
「見るだけなら接戦かな」
「八対七とか?」
「そこで題名を答えにしちゃうんだ」
「だめ?」
「いや。いい勝負だと思う。観客は心臓に悪いだろうけど」
「勝った人は?」
「そりゃ、嬉しいだろうね」
妻は一度、文庫本の表紙に目を落とした。
「じゃあ、よかった」
「……何が?」
「りゅうくん、最後まで読むときが一番楽しそうだから」
僕はパンをちぎった。
昨日、自分から一冊を差し出したばかりなのに、また妻から本を受け取っている。
けれど不思議と、元に戻った気はしなかった。
受け取ることと、何も選ばないことは、同じではないと知ったからだ。
妻が出版社へ出かけたあと、僕は『ルーズヴェルト・ゲーム』を開いた。
野球の話だからといって、ボールが飛び交っているだけではない。会社が生き残るための選択、追い詰められた人間の決断、それぞれが抱えるもの。
打席に立つとき、人はもう何かを選ばされている。
打つか、見送るか。
どちらでも、投球は一つ進む。
僕はしばらく読んでから、昨日の封筒を机の上へ出した。
洋食店『山猫の食卓』でもらった、六枚の茶色い紙片。
一枚目の表は『まず、お好きな席をお選びください。』。裏には『こちらの席でよろしいですか。』。
二枚目には苦手なものについての質問。
三枚目は、相手の分を決める前に尋ねること。
四枚目は、待てるかどうか。
五枚目は、時間をかけてもいいかどうか。
六枚目は、前の頁へ戻ってもいいかどうか。
七枚目は妻の鞄から戻ってきて、昨夜、僕の原稿のあいだに挟まれた。
それを開く。
表には店の言葉。
『最後に、あなたの注文をお聞かせください。』
裏には、僕の文字と妻の文字。
『今夜、僕の選んだ本を読んでもらえますか。』
『続きを、あなたが選んだ言葉で聞かせてください。』
僕は二つの文を何度か交互に読んだ。
あの店の扉は一枚だった。
でも、読んでいるあいだに何枚も開けたような気がした。
不思議なことに、最後の紙だけが、まだ終わっていない。
なにしろ僕の小説は、相変わらず扉の前で止まっているのだ。
昨夜の最終行。
『男は、扉の取っ手に手を掛けた。』
そろそろ開けろよ、と僕は思った。
作者が主人公を急かすという、文学史上あまり褒められない状況である。
そのとき、机の脇に見覚えのない薄い封筒があることに気づいた。
昨日の本の下敷きになっていたらしい。
封筒には、小さく印刷されていた。
『次の頁を読む方へ』
宛名はない。
差出人もない。
ただ、裏面に、小さな鉛筆の絵が描かれている。
あの七枚目の隅にあった絵と、よく似ていた。
僕はしばらく封を切らずにいた。
中身を知らなければ、この封筒はまだただの封筒だ。
人はときどき、あまりにも便利なものを持っている。
知らないままでいるという選択肢である。
僕は鋏を取った。
切ったのは、ほんの数ミリの紙だった。
中には、印刷された紙が二枚と、細いカードが一枚あった。
最初の紙は、仕事の案内状によく似ている。
日時は今日の午後。場所は、この家の奥の部屋。
催しの名前は書かれていなかった。
代わりに、いくつかの項目がある。
『参加者は全員成人。各人の自由意思を確認済み。』
『観覧席は一名。参加者全員がその存在と観覧範囲を了承済み。』
『撮影・録音なし。参加、観覧ともに途中でやめられる。』
『見届けないという選択も、等しく尊重される。』
僕は最後の一行を、最初の一行より長く読んだ。
選ばないことも選択なのだ、と書いてある。
観覧席という言葉を、僕は知っている。
知っているのに、なぜか初めて読む言葉に思えた。
二枚目には短い確認欄が並んでいた。
一人ずつの記名は伏せられ、了承を示す印だけがあった。
僕の名前はない。
当然だ。僕の返事はまだここには書かれていない。
細いカードには、二つの小さな枠。
『最後まで読む』
『今日はここで閉じる』
僕はそれを机に置いた。
何かを見なければ、誰かに負けるわけではない。
続きを開けば、勝てると決まっているわけでもない。
それだけは、何度も本を読んできた僕にも分かる。
それでも、カードから目を離せなかった。
隣に置かれた『ルーズヴェルト・ゲーム』の表紙には、穏やかな明るさがあった。
八対七。
一点差。
勝った側の一点にも、負けた側の七点にも、そこに至るまでの時間がある。
僕はペンを取り、どちらの枠にも印を付けずに、カードを持ったまま立ち上がった。
まず、あの部屋まで行こう。
そこで引き返してもいい。
そう考えたのは、逃げ道を作るためではない。
逃げ道があると知っているほうが、自分の足で歩けることもあるからだ。
書斎の奥へ続く廊下は、いつもより静かだった。
扉の前に立つ。
銀色の鍵をポケットから出した。
何度も使ってきた鍵なのに、今日は少し重く感じる。
鍵を差し込み、回した。
奥には椅子が一脚。
壁には厚いカーテン。
窓のないはずの壁に窓がある部屋。
最初にここへ入った日、僕は自分のことを、何も知らない人間だと思った。
今では少しくらい知っている、と胸を張れるだろうか。
僕は椅子に座らず、扉の近くに立った。
遠くから足音が聞こえた。
ひとり。
しばらくして、またひとり。
数えようとして、やめた。
今日は数えないほうがいいような気がした。
僕はカードを見た。
二つの枠は、まだ白い。
外の足音が途切れる。
そのあと、遠くで男たちが挨拶を交わす声がした。
決して、騒がしい声ではなかった。
仕事の打ち合わせが始まる前のような、少し緊張した、礼儀正しい声だった。
思い出す。
高瀬さんを迎えて三人でコーヒーを飲んだとき、僕は自分が知らない話題でも、ちゃんと会話の中に座っていられるのだと知った。
今日は席が一つしかない。
しかも、まだ座っていない。
僕は一度、書斎へ戻ろうとした。
取っ手に手を伸ばし、そこで止まった。
自分で渡した原稿の最後の行が浮かぶ。
『男は、扉の取っ手に手を掛けた。』
まったく、つまらないところで文章と人生が似てしまうものだ。
僕はカーテンの前へ戻った。
カードの一つ目の枠に印を付けた。
『最後まで読む』。
そう書いてから、ようやく椅子へ座った。
布を引くと、あちら側に灯りがあった。
以前より机が少し片づいている。
部屋の中央には広い空間が作られ、壁際に椅子が並べられていた。
男が七人いた。
人数が分かったのは、椅子の数ではない。僕はひとりずつ、そこに立っている姿を数えた。
一、二、三。
声を出さず、目で追う。
四、五、六、七。
七人とも成人で、身に着けているものはなかった。
僕は思わず一度、窓の外を見た。
いや、窓ではない。
あの黒いガラスだ。
そんなことを今さら訂正する必要はないが、頭の中で訂正しなければ呼吸が落ち着かなかった。
彼らはひどく似ているわけではない。
眼鏡を外してケースにしまった男がいる。
短く刈った髪の男は、足元を見ながら何かを考えていた。
年上に見える男は、ほかの人へ水の入ったグラスを渡している。
言葉数の多い男がひとり、冗談を言って、みんなが少し笑った。
その笑い方は、あまりにも普通だった。
僕は勝手に、もっと異様な空気を想像していたらしい。
七人の男がいる。
ただ、それだけで、人間は少しも同じ姿にはならない。
僕と同じくらい背の低そうな男もいた。
その人が笑うと、口元に小さな皺ができた。
なぜそんなところを覚えたのか分からない。
たぶん、僕が彼らを人数以外の何かとして見ようとしていたからだ。
そのうち、一人が壁際の紙へ目を向けた。
紙には大きな文字で『無理はしないこと』とある。
男は隣の人に何か尋ね、頷いてから水を飲んだ。
僕は少しだけ息を吐いた。
誰かがここにいてほしいと思うことと、その誰かが本当にここにいたいと思っていることは、別だ。
今日の僕は、それを混同したくなかった。
だから、全員の返事がそろっていることに、少し安心した。
それから、安心した自分にも驚いた。
僕はいつから、安心してここにいたいと思うようになったのだろう。
扉が開いた。
まいさんだった。
仕事で着る上着ではなく、普段より少し落ち着いた色のワンピースを着ている。
彼女が部屋へ入ると、男たちは自然に顔を上げた。
誰かが立ち位置をずらし、通り道を作る。
まいさんは一人ひとりの顔を見て、挨拶した。
それから、何か短い確認をした。
笑いが起きた。
返事があった。
誰も急いでいなかった。
僕は、妻の声が聞こえるまで息を詰めていた。
「ありがとう。今日は、私も自分で選びたいと思っています」
簡潔な言葉だった。
彼女は一度、部屋の全員を見回した。
「途中で嫌になったら、いつでもやめましょう。私もそうします」
男たちが頷いた。
そのうちの一人が、冗談めかして何かを言った。
まいさんは声を立てて笑った。
僕はその笑顔を見て、見慣れていると思った。
同時に、初めて見たようにも思った。
妻がワンピースの肩に手を掛けた。
少し間があって、服を脱いだ。
彼女は裸になった。
僕は目を逸らせなかった。
鏡のこちら側で、椅子の木の縁を握った。
それは僕の知っている妻の姿だった。
家で見かけるより、ずっと広い空間に立っているだけだ。
なのに、周囲に七人の男がいると、同じ人の輪郭が違って見える。
僕は彼女のことを知っている。
朝の牛乳の量も、卵の焼き加減も、座る前に片足を少し引く癖も。
それでも、いま目の前にいる彼女を、僕はどこまで知っているのだろう。
その問いを口に出す場所は、ここではなかった。
まいさんは、最初の男が差し出した手を取った。
その手を握り返した。
別の男が近づき、言葉を交わす。
近づくことを選ぶのも、離れることを選ぶのも、彼女自身だった。
やがて、抱擁が交わされた。
口づけもあった。
僕はその先に続く親密な時間を、途切れ途切れに見つめていた。
誰がいつどこへ動いたか、そのすべてを正確には覚えていない。
ただ、妻が時折声をかけ、相手が頷き、また誰かが彼女に尋ねる、その短い間だけは妙にはっきり記憶に残った。
相手を確かめる声。
自分の意思を伝える声。
それらは、僕らが昨日、七枚の紙で交わした言葉と、驚くほどよく似ていた。
僕は自分の胸に手を置いた。
痛かった。
その事実を否定したくなかった。
同時に、胸の奥には熱があった。
それも、否定したくなかった。
僕は一度、カーテンを閉めた。
光が消える。
布を挟んだだけなのに、音まで遠くなった気がした。
立ち上がって扉へ向かう。
帰ろうと思えば、いま帰れる。
誰も引き止めない。
案内状には、はっきりそう書いてあった。
それは、僕がここにいる理由として十分だった。
やめることができる。
だから、続けるなら、自分が選んだことになる。
僕はカードを取り出した。
一つ目の枠には、黒い印。
『最後まで読む』。
もう一つの枠は、白いままだ。
どちらへ印を付けることも、まだできる。
廊下へ出ようとしたとき、突然、あの、妻が僕の原稿を読んだ夜を思い出した。
まいさんが、僕の書いた冗談に笑わなかった夜。
僕はいつだって、相手が笑えば安心すると思っていた。
でも、笑わないで最後まで読んでくれたことが、あんなに嬉しいとは思わなかった。
それと同じなのかもしれない。
今日は、誰かに褒めてもらうために、ここに来たんじゃない。
誰かに笑ってもらうためでもない。
自分の選択について、自分に嘘をつかないために来たのだ。
……そう書けば、小説としては格好がつく。
ただ、現実の僕はもっと情けなかった。
自分が怖い。
嫉妬している。
泣きたいような気もする。
それでも、もう一度見たい。
僕は扉から手を離した。
椅子へ戻る。
カーテンを開いた。
その動作を、今度は言い訳せずに行った。
向こう側では、時間が流れていた。
七人の男と、僕の妻。
誰かが水を飲み、誰かが笑い、また別の誰かが沈黙している。
同じ場所にいるからといって、みんなが同じ気持ちでいるわけじゃない。
まいさんは、時折、相手の表情を確かめる。
少し離れたところにいる男へも、ちゃんと目を向ける。
それは彼女が編集部で打ち合わせをしていたときにも見せた、相手の話を聞く顔だった。
僕が知っているのは、夫としての彼女だけではない。
すでに見てきた、いくつもの彼女がある。
夫の僕に笑う人。
仕事の席で判断を下す人。
一人の読者として、僕の原稿を黙って読む人。
そのどれもがまいさんだ。
いま目の前にいる人も、そのひとつなのだろう。
そう考えたからといって、嫉妬が消えたわけではない。
むしろ、胸の奥ではっきりした。
失いたくない。
あの人と、一緒に帰りたい。
朝はまた、二人分のパンを買いたい。
その望みは、少しも小さくならない。
でも、もう一つの望みもあった。
僕は、続きを見届けたい。
彼女が自分で選ぶところを、見届けたい。
それが僕にとってどういう意味を持つのか、今なら少しだけ言える気がした。
七人目の男が、壁際の椅子から立ち上がった。
彼はまいさんに何か尋ね、彼女が頷くまで待った。
その慎重さを見たとき、僕は妙なことを考えた。
あの人たちは、それぞれ自分でここへ来ることを選んだのだろう。
なら、僕は?
僕は、いつから自分を数の外へ置いていたのだろう。
鏡の向こうに七人の男がいる。
こちら側には、僕がいる。
七人と、一人。
八人。
僕の妻を含めれば、九人。
数字の上では、それだけのことだ。
なのに、僕はそこで初めて自分がその一人なのだと気づいた。
観覧席に座っていたからではない。
最初から案内状に八人目と書かれていたからでもない。
書かれていなかった。
だから、僕は自分の名前をそこへ書かなければならなかったのだ。
ほかの誰でもなく。
僕自身の手で。
しばらくして、向こう側の灯りが少し落ちた。
七人の声が、ひとつずつ小さくなる。
何が続いているのか、細部を全部見たわけではない。
見えない時間もあったし、僕自身が目を伏せた時間もあった。
それでも、今日は一つだけ、段ボール箱へ入っていた日の僕と違うところがある。
見えないところに勝手な物語を補う前に、僕は自分の気持ちを確かめた。
怖い。
でも、ここにいたい。
その二つは、同じ胸に収まっていた。
途中、まいさんの姿が一瞬こちらの壁の方を向いた。
彼女が何を見たのかは分からない。
壁に映る自分の姿かもしれない。
何かを考えるとき、視線を遠くへ置いただけかもしれない。
僕は、その意味を探すのをやめた。
今日は、その目がこちらを見たかどうかより、大切なことがあった。
自分のほうが、目を逸らさずにいられるかどうか。
しばらくして、まいさんが静かに頭を下げた。
男たちがそれぞれ言葉を返した。
有人の部屋は、少しずつ普通の部屋へ戻っていった。
椅子が引かれ、グラスが片づけられ、布が戻される。
やがて玄関のほうで、何度か扉の音がした。
僕は最後までそこにいた。
誰も見なくなってからも、しばらく椅子を立てなかった。
照明の落ちたガラスには、僕自身の姿が映っていた。
二十三歳の、身長百六十センチほどの男。
初めてこの部屋に来た日と、姿はたいして変わらない。
でも、今夜の僕は、自分を人数に入れた。
ずっと、それをしてこなかった。
書斎に戻ると、机の上には『ルーズヴェルト・ゲーム』が開いたままだった。
帰宅しようとしている男の原稿も、その隣にある。
扉の前で止まっている、僕の主人公。
七枚目の注文票。
黒い『MAI NOTE』。
僕はひとつずつ眺めた。
昨日の店で渡された紙は、七枚。
六枚には二つの読み方があり、七枚目の裏は白かった。
だから僕がそこへ書いた。
妻が、続きを書いた。
それでも、まだ一枚足りない気がした。
店が用意してくれた紙は七枚で十分だったのに。
僕は白い便箋を取り出し、七枚目と同じ大きさに切った。
角へ、小さく八と書く。
今夜は、店から新しい注文をもらったわけじゃない。
僕自身が、自分に一つだけ尋ねたかった。
『僕は、どうしたい?』
それから、裏へ答えを書いた。
『僕は、続きを見たい。僕自身の意思で。』
書き終えて、しばらくその文字を眺めた。
これほど短い文章に、こんなに時間がかかるとは思わなかった。
古いソファの中へ入った。
段ボールの小窓から世界を覗いた。
妻を笑わせることで何かを隠そうとした。
出版社では、知らなかった妻を見た。
昨夜は、初めて自分から本を渡した。
どれも別々の出来事だと思っていた。
いま読み返せば、全部、同じ男がしてきたことだ。
待っていたのも、逃げようとしたのも、知りたがったのも、僕だった。
八枚目の紙を、『MAI NOTE』の最初の頁に挟む。
そこには以前、自分の名前を書いた控えがある。
『覗見龍之介』。
僕はその文字を指でなぞった。
妻の名前を冠したノート。
自分の名前が記された頁。
そして、初めて自分で書いた答え。
僕は急に笑いたくなった。
うれしいからだった。
少し情けないからでもあった。
誰かが八点目を取ってくれるのを待っていたのだ。
それなのに、打席に立っていたのは僕自身だった。
これまでの七点は、消えない。
嫉妬も、怖さも、夫としての迷いも、なくなったわけじゃない。
でも、八点目は加えられる。
最後の一点は、僕の意思だった。
八対七。
その数字を、今夜の僕は勝利として読んだ。
自分の望みを認められたのだから。
僕は初めて、勝ったと思った。
夕飯は、いつもより遅くなった。
まいさんは台所で手を洗い、冷蔵庫を開けた。
僕は食器を二枚並べた。
何に使ったか分からないグラスを、勝手に洗うのはやめた。家の中でできることだけをすればいい。
「りゅうくん、今夜は簡単なものでいい?」
「もちろん。なんなら昨日のパンの続きを食べてもいい」
「ふふ。あれ、今朝でなくなっちゃったよ」
「作家には比喩表現があるからね」
「じゃあ、比喩でお腹いっぱいになる?」
「……ごめん。現物をください」
妻は笑って、卵を二つ取り出した。
僕は彼女の横へ立った。
「ねえ、まいさん」
「なあに?」
「『ルーズヴェルト・ゲーム』、面白いね」
「もう読んだの?」
「全部じゃない。でも、結末の見え方が少し分かった気がする」
「どうだった?」
妻は包丁を置いた。
答えを急かしてはいない。
でも、ちゃんと聞いてくれている。
「……七点取られても、八点取れたら勝ちなんだね」
「ふふ。そうだね」
「僕、ずっと七点のほうばかり数えてたんだと思う」
「負けてるって思った?」
「うん。負けたくないってね」
「それで?」
僕は少し考えた。
ここで格好のいい台詞を言おうとするのは、昔からの悪い癖だ。
でも、今日は短く言いたかった。
「……最後の一点は、自分で取りたい」
まいさんは僕の顔を見た。
それから、ゆっくり頷いた。
「うん。いいと思う」
妻はフライパンへ卵を落とした。
僕の分は半熟。
彼女の分は、もう少し焼く。
この程度の違いなら、僕たちは昔から知っている。
ただ、それだけではない違いを、今夜の僕はもう恥ずかしいと思わなかった。
食卓に向かい合って座ると、まいさんが『注文の多い料理店』の文庫本を持ってきた。
栞が、少しだけ飛び出している。
「ねえ、りゅうくん」
「うん?」
「この本、もう一回読みたいんだ」
「いいよ。君の本だし」
「ふふ。もらった本でしょう?」
「そうだった」
「……今度は、最後まで読んでいい?」
僕は妻を見た。
彼女の顔には、いつもの笑みがある。
読みかけの本を最後まで読む。
その程度のお願いに、答えをためらう理由はない。
「もちろん」
僕は言った。
妻は嬉しそうに頷き、栞を丁寧に抜いて、別の頁へ挟み直した。
紙の端には、小さな鉛筆の絵があった。
僕はその手元を見てから、自分の皿へ目を戻した。
今夜は、卵が冷める前に食べたかった。
寝る前、僕は原稿を開いた。
『男は、扉の取っ手に手を掛けた。』
昨夜までの一行。
僕はその下へ続きを書いた。
『男は、自分で扉を開けた。』
ごく当たり前の文章だ。
説明も少ない。
編集者の妻なら、もう一工夫できるでしょうと言うかもしれない。
でも、今夜はこれがよかった。
扉の向こうに何があるか、まだ書かない。
男がそこでどんな人間になるのかも、まだ決めない。
ただ一つ、もう誰かが開けてくれるのを待ってはいなかった。
僕は保存ボタンを押した。
机の上には、七枚の注文。
その横に、僕自身が作った八枚目。
どの紙にも、誰かの名前を勝手に書き足してはいない。
でも、僕の名前は『MAI NOTE』の中にある。
妻は寝室にいる。
僕は、これからそこへ帰る。
ホームへ帰って、初めて一点になるのだとしたら。
今夜の試合は、まだ終わっていないのかもしれない。
廊下から声がした。
「りゅうくん、もう寝る?」
「うん。いま行く」
「おやすみ、りゅうくん」
「おやすみ、まいさん」
僕は明かりを落とした。
扉は、開いていた。
誰かが開けたままにしてくれたのか、自分でそうしたのか。
今夜は、そこを間違えなかった。
僕は自分の足で、妻のいる部屋へ向かった。
第20話、最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございます。
ここまで長い道のりでした。
何かを得るために手放すものがあるとして、それが何だったのかは、読む人によって違って見えるかもしれません。
でも、龍之介の歩いてきた時間は、確かにここにあります。
次回は第21話『手紙』。
物語はまだ終わりません。今度は、別の時間に書かれた言葉が待っています。




