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第8話 ティファニーで朝食を

今回は大きな謎よりも、朝ごはんを二人で食べることの意味を大切にしました。

静かな日常の回ほど、会話やちょっとした手つきが不自然にならないようにするのが難しいですね。

何でもない時間が、あとから振り返ると特別だった。そんな一話になっていたら嬉しいです。

朝食には、推理小説にはない重大な欠点がある。


時間が経つと冷めるのだ。


謎なら三日放っておいても謎のままだが、目玉焼きは三分放っておけば目玉焼きとしての大切な何かを失う。とりわけ半熟の黄身については、時間との戦いである。僕は小説家であって料理評論家ではないので、その大切な何かを適切な言葉で説明することはできない。そんなだから小説が売れないのだ、と言われると反論もしにくい。


午前六時四十二分。


僕は寝室の天井を見つめていた。


普段なら、もう少し眠っている時間だ。隣にはまいさんがいる。規則正しい寝息が聞こえ、布団の端から黒い髪が少しだけはみ出していた。


シーツのすぐ下から、寝起きのまいさんの柔らかく甘い体温が伝わってくる。ゆったりとした部屋着の襟元がわずかに緩み、白い鎖骨と、呼吸に合わせて静かに上下する胸元が朝の淡い光に浮かんでいた。


妻の寝顔を眺めているうちに、昨日の写真が頭に浮かんだ。


四年前の秋。今より髪の短いまいさん。右端で顔の半分が途切れている男。そして裏に書かれた「17」。


数字の意味は分からない。


男の名前も分からない。


ただ、昨夜、まいさんがその写真を見て「昔のわたしだよ」と言った声だけは、妙にはっきり覚えている。


そこには、僕を試すような調子も、はぐらかすような軽さもなかった。むしろ、もっと普通の、昔のアルバムを開いたときのような声だった。


僕は知らない。


その言葉を、昨日初めて、少しだけまともに使えた気がする。


寝返りを打つと、まいさんが小さく動いた。布団の中で彼女の長い脚が僕のすねにそっと触れ、思わず息が詰まる。


「……りゅうくん?」


「ごめん。起こした?」


「ううん。何時?」


「六時四十二分」


「細かいねえ」


「時計がそう言ってるから」


「時計って、たまに余計なこと言うよね」


そのまま彼女は、もう一度目を閉じた。


僕も目を閉じようとしたが、うまくいかなかった。


昨日の夜、まいさんは台所で、明日の朝は一緒に食べようと言った。


いつも一緒だろ、と僕は答えた。


彼女は笑って、うん、だから明日も、と言った。


たったそれだけの約束を、僕は覚えている。


たぶん、忘れたくないからだ。


七時を少し過ぎてから、僕は先に起きた。


書斎へ行くと、昨夜から机の端に置いてある文庫本が目に入った。


トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』。


正直なところ、この題名だけなら僕にも意味が分かる。


朝食だ。


実に分かりやすい。


もっとも、妻が本を置くたびに僕の解釈が正しかった例は、これまで一度もない。最近ではその自信のなさだけが、揺るぎない自信になりつつある。


僕は本を開いた。


知っている物語だった。宝石店の名が題名になっているからといって、店内で優雅にフレンチトーストを注文する話ではない。少なくとも、そんな喫茶店ガイドとして読んだ覚えはない。


自由奔放で、誰のものにもなりきらないヒロインのホリー・ゴライトリー。自分の名前さえ仮のものみたいに軽やかに扱い、どこへも完全には属さず、名前のない猫と一緒に暮らしている女性。


そんな彼女にとって、どんなに不安でたまらない朝でも、そこへ行けば心が落ち着き、自分を保てると信じられる場所――それがティファニーだった。


僕は以前、この小説をそんなふうに読んだ。


もちろん、昔の読書感想などというものは当てにならない。高校生のころの僕は、世界文学の主人公たちに必要以上の共感を示しながら、翌朝の小テストでは単語を三つ間違える男だった。感受性だけで生きていけるなら、今ごろ僕は大作家である。


けれど、今朝は一つのことが気になった。


僕にとって、落ち着ける場所はどこだろう。


書斎か。


この机の前にいるとき、僕はたいてい締め切りと口座残高を気にしている。安らぎの象徴としては、ずいぶん成績が悪い。


寝室か。


最近は天井にまで余計なことを問いかけるようになってしまった。こちらも危うい。


あの鍵のかかった小部屋は、論外だろう。椅子一脚と遮光カーテンのある場所を心の避難所にしたら、いよいよ僕の人生は奇妙な方向へ進みそうだ。


そう考えて、僕は本を閉じた。


台所から、冷蔵庫を開ける音がした。


まいさんが起きたらしい。


僕は本を持って台所へ向かった。


「りゅうくん、おはよう」


「おはよう」


「早いね。お仕事?」


「ちょっと読書」


「ふふ。じゃあ、いい朝だね」


「売れない作家にしてはね」


「そこは毎回言わなくてもいいんじゃない?」


「自分に課した戒めだから」


「りゅうくん、自分には厳しいんだねえ」


「編集者に言われたくないな」


まいさんは笑った。


寝癖のついた黒髪を指で押さえながら、冷蔵庫から卵を取り出す。背伸びをして上の棚に手を伸ばすたび、部屋着の裾がわずかに上がり、豊かな腰から太ももにかけての柔らかな曲線が朝の光に縁取られた。


昨日、買い物のメモにあった卵だ。


なんの変哲もない白い卵が三つ。


僕はそこでようやく、毎朝の食卓にどれだけ多くの普通のものが並んでいたのかを思い出した。


「今日は僕が焼こうか」


「ほんと?」


「卵ぐらい焼けるよ」


「知ってる。でも、半熟にするの上手なの、りゅうくんだもんね」


「自分のだけね。まいさんのは難しい」


「わたしのはよく焼いてくれればいいんだよ」


「簡単そうに言うけど、あれはあれで火加減があるだろ」


「ふふ。じゃあ、今日は任せちゃおうかな」


妻がフライパンを渡してくる。


その動作は、銀色の鍵を渡すときよりずっと気軽だった。


いや、鍵を渡すときが特別だったのだ。


いちいち比較するな、と自分に言い聞かせる。


僕はフライパンを火にかけ、冷蔵庫から牛乳を出した。


「まいさん、コーヒーは?」


「いつものでお願い」


「了解」


結婚して一年。


お互いの好みを覚えるのに、それほど苦労はしなかった。


僕は半熟の卵が好きで、まいさんは黄身まで火が通っているほうが好きだ。僕のコーヒーには牛乳を少し多めに入れ、まいさんはブラックのまま飲む。ジャムを塗る量も違うし、食パンをトースターから取り出すタイミングも違う。


同じ朝食を、まったく同じようには食べない。


それなのに、何年も前から一緒に暮らしていたように、僕らは自然に同じテーブルへ向かう。


僕はその事実を、これまで一度も謎だと思わなかった。


「焦げてる?」


「……食パンの端が少々、文学的になった」


「文学的?」


「解釈の余地がある色をしている」


「ふふ。焼きすぎたんでしょ」


「簡単に結論を出さないでいただきたい」


まいさんが笑いながら皿を二枚並べた。


皿には、ちゃんと別々の卵が乗る。


僕のは半熟。


彼女のは、頼まれたとおりによく焼いた。


トーストの端は少し濃くなったが、致命傷ではない。料理には、推敲できない部分が多い。焦げた文章なら削ればいいが、焦げたパンを削ると朝食まで減る。作家にとっては難しい問題である。


まいさんは食器棚から、いつもの青と白のマグカップを二つ取り出した。


僕が使う青いカップと、彼女が使う白いカップ。


昔からそうだった。


高価な品ではない。近所の雑貨店で買った、口の少し厚いカップだ。


取っ手の根元にごく小さな傷があるのに、何度も買い替えようかと話しても、まいさんはいつも、まだ使えるから、と言う。


「そのカップ、結局ずっと使ってるね」


「うん。好きだもん」


「新しいのを買ってもいいんだよ」


「知ってるよ」


「じゃあ、なんで?」


「んー……」


まいさんは白いカップの縁を、細い指でゆっくりとなぞった。


「これで飲むと、家の味がするからかな」


「家の味って何だよ」


「りゅうくんの淹れるコーヒーの味」


「それなら、どんなカップでも同じだろ」


「そうかなあ」


妻はそれ以上説明しなかった。


僕も追及しなかった。


たぶん、そういう答えがあってもいいのだと思う。


僕らは向かい合って座った。


窓から朝の光が入る。テーブルの木目に、青と白のカップの丸い影が二つできる。


その隣に文庫本が一冊。


昨夜の『秘密』ではない。写真も挟まっていない。


今朝の本は『ティファニーで朝食を』だ。


僕は、どうしても笑ってしまった。


「なあ、まいさん」


「なあに?」


「今日のは、いくらなんでも分かりやすすぎない?」


「そう?」


「朝ご飯だよ。題名に書いてある」


「確かに書いてあるね」


「僕だってそれぐらい読めるぞ」


「うん。りゅうくんは本を読むの得意だもん」


「……その褒め方、子ども扱いしてない?」


「してないよ。わたし、りゅうくんの文章も好きだし」


そんなふうに言われると、言い返す言葉がなくなる。


卵の焼き加減は褒められなくても、文章を褒められると弱い。


作家の悲しい習性である。


「でもさ」


僕は本の表紙を指した。


「朝食だけなら、料理本でもよかったんじゃない?」


「料理本を渡したら、りゅうくん、レシピを調べ始めるでしょう?」


「調べるだろうね」


「だから、これは違うの」


「違う?」


「うん」


まいさんはトーストを一口かじった。


少し焦げた端だ。


彼女の艶やかな唇にパンの粉がわずかに付き、舌先がそれをちろりと舐め取る。何気ない朝の仕草なのに、僕の視線はそこに釘付けになり、胸の奥が小さく跳ねた。


僕が何か言うより先に、彼女はおいしい、と言った。


そんなことを言う必要は、たぶんなかった。


だからこそ、僕には嬉しかった。


「この本の人ってね、落ち着ける場所が欲しいんだと思うの」


「……ホリーのこと?」


「うん。高価なものが欲しいとか、誰かに鳥籠に入れられたいとか、そういうことじゃなくて」


「うん」


「自分が自分のままでいられて、ここなら大丈夫、って思える場所」


その言葉は、驚くほど普通だった。


普通すぎて、僕は少し戸惑った。


最近の僕は、妻の言葉に第二の意味がないと落ち着かなくなっている。実に困った病気だ。もし医者にかかることがあれば、病名は『文庫本過剰解釈症候群』あたりだろう。


「まいさんには、ある?」


「何が?」


「ここなら大丈夫、って場所」


彼女は答える前に、少しだけ間を置いた。


『蜘蛛の糸』を渡された夜にもあった、あの短い間。


僕は思わず身構えた。


「……今は、ここかな」


妻が言った。


僕は青いカップのコーヒーを飲みかけて止まった。


「ここ?」


「うん。このテーブル」


「ずいぶん狭いティファニーだな」


「ふふ。確かに」


「しかもトーストの端が焦げてる」


「でも、わたしは好きだよ」


「本当に?」


「りゅうくんと一緒に食べられるから」


僕の返事は少し遅れた。


こういう言葉を正面から受け取るのは、案外難しい。


余計な意味を探してしまう癖が、ここ数日ですっかりついた。


彼女が「ここ」と言ったのは、本当にこの台所のことなのか。


それとも、何かもっと別の場所を指しているのか。


僕らが暮らす家全体か。


二人の関係か。


あるいは、彼女が僕の知らない過去や願いを抱えたままでも、帰ってきていいという場所のことか。


……いや。


また始まった。


今のまいさんは、僕が焼いた卵を食べている。


その事実をまず大切にしろ、と自分に言いたくなった。


「僕も、ここが好きだよ」


僕は言った。


「書斎よりも?」


「原稿が進まない書斎は、どちらかというと処刑場だからね」


「ふふ。じゃあ、朝ご飯の席は?」


「……帰ってきた感じがする」


まいさんの顔から、笑みが少しだけ消えた。


驚いたようにも見えた。


すぐに、また柔らかく笑った。


「そっか」


「うん」


「……よかった」


その「よかった」が、何に対しての言葉だったのか。


僕には分からなかった。


けれど、あえて尋ねなかった。


少なくとも今この瞬間、それは怖い言葉ではなかったからだ。


食後、二人で片づけをした。


僕が皿を洗い、まいさんが隣に立って拭く。


百六十センチの僕のすぐ横に、百七十センチの彼女が並ぶと、洗い物のたびに二人の肩や腕が自然に触れ合う。水の音の中で彼女の温かい二の腕が擦れるたび、僕はその確かな体温を意識した。


彼女は洗い上がった二つのカップを受け取り、食器棚のいつもの場所へ戻した。


「今日、予定ある?」


「僕は原稿。まいさんは?」


「ちょっと仕事のメールだけ返したら、あとはお休み」


「珍しいね」


「うん。たまにはね」


「じゃあ、お昼は外に食べに行く?」


「いいね。でも、朝ご飯を食べたばっかりだよ」


「計画性のある夫と言ってほしい」


「ふふ。まず原稿の計画を立てようね」


「容赦ないな、うちの編集長は」


「今は奥さんです」


その言い方がおかしくて、僕らは同時に笑った。


先日、まいさんは原稿の赤字について、編集者として話しているのか妻として話しているのか、曖昧なまま僕に返事をした。


今朝は違う。


今は奥さん。


たったそれだけの区別が、僕には少し嬉しかった。


まいさんが仕事のメールを確認している間、僕は書斎へ戻った。


机の上には、昨日の写真が挟まった『秘密』と、書きかけの原稿がある。


朝食を終えたからといって、写真の男が消えたわけではない。


裏面の「17」が「朝ご飯は二人分」という意味に変わったわけでもない。


僕が見たものは見たものとして残っている。


それでも、今朝の食卓でまいさんが言ったことも、同じくらい現実だった。


事実というものは、互いを打ち消し合わなければ同時に存在できないわけじゃない。


小説を書く人間として、そのぐらいは知っていてもよさそうなものだ。


僕は原稿の最後の行を読み返した。


昨日、書いた一文。


『彼女には、僕が知らない年月がある。』


その下に、もう一行を書こうとした。


『それでも、僕には――』


そこまで打って、手が止まった。


続きを、どう書けばいい。


彼女には知らない年月がある。


それでも、僕には彼女を愛する権利がある。


……権利?


何だか妙だ。愛情を役所の申請書みたいに扱わないでほしい。


彼女には知らない年月がある。


それでも、僕には彼女を信じる義務がある。


……義務?


こちらはもっとおかしい。


信じるというのは義務ではないはずだ。分からないことを分からないままにしておけるようになるまで、僕はそれなりに苦労したのだから。


僕は途中まで打った一文を消した。


今日は、書けない日なのかもしれない。


たった一行を残すために、何行も消している。


でも、以前の僕なら消した痕跡さえ嫌になって、原稿のファイルを閉じていた。


今は少し違う。


書けなかった理由だけは、分かるような気がした。


僕は今、結論を急ぎたくなかった。


この先、妻について知ることがあったとしても、今日の朝食を「知らなかった頃の幸せ」として片づけたくなかった。


今朝、まいさんは僕と一緒にいた。


それを後からなかったことにするのは、なんだか失礼だと思った。


僕は画面を閉じ、台所へ向かった。


コーヒーをもう一杯淹れようと思ったのだ。


妻は奥の仕事部屋で電話をしているらしい。


台所には誰もいない。


食器は片づき、テーブルには『ティファニーで朝食を』だけが残っていた。


僕は本を持ち上げた。


表紙を閉じたまま、ずっと食卓の端に置いてあったものだ。


そのとき、間に挟まっていた薄い紙が、一枚だけ床に落ちた。


僕は反射的に身構えた。


こういう展開には、もう慣れたつもりだった。


『秘密』には古い写真。


『蜘蛛の糸』には白い糸のしおり。


『鏡の国のアリス』には、見てはいけないものを見てしまう入口。


最近の我が家では、本の間から何かが出てくると、だいたい夫の心臓に悪い。


紙は、小さな買い物メモだった。


昨日の夜、まいさんが冷蔵庫の前で持っていたものだ。


表には、見覚えのある字で三つの品名が並んでいる。


『食パン』


『卵』


『牛乳』


『朝ごはん ふたり分』


「……はいはい」


僕はひとりで頷いた。


今回は本当に朝ご飯の話だったらしい。


少しだけ拍子抜けした。


そして、拍子抜けした自分がおかしくなった。


朝食のために買い物をした。それだけで十分な理由だろう。


僕はメモを本へ戻そうとして、裏側に何か書いてあることに気づいた。


細い鉛筆の字だった。


いつもの編集メモほど整っていない。


たぶん、急いで書いたのだろう。


一度書いて消したような短い線があった。


僕はしばらく見つめた。


消された文字を、光に透かして確かめようとはしなかった。


昨日、写真を透かしたときの自分を思い出したのだ。


紙に書いてないことまで、無理に読み取れるようになるわけじゃない。


ただ、小さく書かれた一文だけは読めた。


『りゅうくんが食べたくなかったら、無理には誘わない。』


……そうか。


僕は椅子に座った。


この一文が書かれたのは、たぶん昨日の夜だ。


僕が『秘密』に挟まれた写真を見たあとで。


写真のことを尋ね、怖くなったと告げたあとで。


そして、明日は一緒に朝ご飯を食べようね、と約束した、その前か後で。


どちらなのかは分からない。


さっきまで、僕はまいさんの言葉の裏を探していた。


妻はどこまで知っているのだろう。


どこまで僕を試しているのだろう。


何を見せようとしているのだろう。


でも、このメモを書いたとき、まいさんだって、怖がりながら何かを考えていたのだ。


僕が明日の朝にどんな顔をするのか。


いつもと同じように席につくのか。


彼女と朝食を食べることさえ、嫌になっていないか。


もちろん、断言はできない。


メモの一行だけで、妻の気持ちを完全に読めたつもりになるのは、昨日学んだことに反する。


もしかすると別の理由があるのかもしれない。


それでも、今朝の「よかった」の意味が、さっきより少し違って聞こえた。


『ティファニーで朝食を』の語り手が、去っていったホリーを無理に引き戻すことなく、彼女にもいつか安らげる場所が見つかるよう願ったように。


まいさんが僕にとって帰る場所であるなら、僕も彼女にとって安心できる場所でありたい。


そんな当たり前のことを、僕はずいぶん遠回りして考えていたらしい。


「りゅうくん?」


背後で声がした。


まいさんが廊下に立っている。


僕の手元を見て、少し目を丸くした。


「あ、そのメモ」


「本から落ちてきた」


「……そっか」


彼女は一歩近づき、僕の隣に立った。


紙を奪おうとはしなかった。


僕も慌てて隠さなかった。


「昨日、書いたんだ?」


「うん。買い忘れたら困るから」


「卵と牛乳ね」


「あとパン」


「それと、もう一つ」


妻の視線が、紙の裏へ落ちた。


長い睫毛がわずかに揺れ、しばらく何も言わなかった。


「……読んだ?」


「うん」


「そっか」


謝ろうかと思った。


でも、何を謝るのだろう。


彼女が僕に渡した本の間にあった紙だ。


それでも、書いた人にとっては誰にも見せるつもりのなかった一文かもしれない。


僕は少し考えてから、言った。


「僕、食べたかったよ」


まいさんが顔を上げた。


「今日の朝ご飯」


「……うん」


「明日も食べたい」


言ってから、少し照れくさくなった。


ここ数日、僕は妻に言えないことばかり考えていた。


ようやく口にしたのが朝食の希望とは、我ながら情けない。


でも、嘘ではなかった。


「まいさんが作る日も、僕が作る日もあるだろうけどさ」


「うん」


「ちょっと焦がすかもしれないけど」


「今日ぐらいなら平気」


「そこは、もう少し褒めてもらってもいいんじゃない?」


彼女は笑った。


それから、今度はゆっくり頷いた。


「……よかった」


また、その言葉だ。


でも今度は、さっきほど遠く感じなかった。


「それとね、まいさん」


「なあに?」


「僕、聞きたいことがあるときは聞くよ」


「……うん」


「でも、聞けないことを勝手に決めつけるのは、できるだけやめる」


少し生意気な宣言だったかもしれない。


僕は夫であって、誓約書の読み上げ係ではない。


それに、できるだけ、という言い方も情けない。


小説家らしく、もっと立派な言葉を選べばよかったと思う。


まいさんは、テーブルに置かれた僕の手の上に、そっと自分の白い手を重ねた。


しっとりとした指先の熱が、僕の手の甲へじんわりと染み込んでくる。


「ありがとう、りゅうくん」


「何に対して?」


「……今の言葉に」


その答えは、あまりにも真っすぐだった。


僕は、もう何も付け足せなかった。


昼を少し過ぎてから、僕らは近所の店まで散歩に出た。


朝食の約束がこんなに長い会話になるとは思わなかったが、僕らの間には、ときどきそういうことが起こる。


書店の前を通ると、まいさんが足を止めた。


「ねえ、りゅうくん」


「何?」


「今日は何か買う?」


「今、家に何冊あると思ってる?」


「ふふ。たくさん」


「僕の机の上だけで、ちょっとした図書館だよ」


「いいじゃない。本が好きなんだから」


「本が好きなのと、本のせいで眠れないのは別の話なんだ」


「そうかな?」


「そうだよ」


彼女は笑い、店の中を覗いた。


僕はその横顔を見ていた。


写真の中の若いまいさんと、今のまいさん。


知らない人が隣にいた過去と、僕が隣にいる現在。


比較しようと思えば、いくらでもできる。


でも、そんなことをして何が分かるのだろう。


今ここにいる妻は、僕の知らない時間を生きてきた。


それはこれからも変わらない。


僕もきっと、彼女には話しきれない考えや、あの鏡の前で覚えたような名前のつけられない熱を持ち続ける。


全部を知り尽くして独占することが、愛情の証明ではないのかもしれない。


「りゅうくん、どうしたの?」


「いや、何でもない」


「また何か考えてた?」


「まあ、作家だからね」


「ふふ。それ、便利な言葉だねえ」


「仕事道具だよ」


妻は僕の腕を自然に取った。


百七十センチの彼女が腕を絡めると、柔らかい胸元の弾力と体温が僕の腕にぴたりと押し当てられる。昼下がりの街角なのに、その確かな密着に少しだけ鼓動が速くなった。


僕はそれを悟られないように、少しだけ歩幅を合わせた。


それは、以前からずっとそうしてきたことだった。


夜。


書斎の机へ戻ると、朝食のメモが置いてあった。


まいさんが捨てずに持ってきたらしい。


裏の一文は、そのままだ。


僕は近くにあった鉛筆を取り、紙の空いているところへ短く書いた。


『明日の朝も、ふたり分。』


それだけ書いて、鉛筆を置いた。


原稿なら、もっといい文章を考えたかもしれない。


けれど妻への返事に、修辞は要らない。


僕はメモを『ティファニーで朝食を』に挟んだ。


しおりの代わりには少し薄い。


でも、明日の朝にはまた取り出せる。


寝室へ向かおうとすると、廊下でまいさんとすれ違った。


「りゅうくん、もう寝る?」


「うん。今日は結構書けた気がする」


「何文字?」


「……一行」


「ふふ。大事な一行だね」


「そう思うことにするよ」


彼女は僕の横を通り、書斎へ入った。


すれ違いざまに、湯上がりのまいさんの黒髪から甘い香りがふわりと鼻先をかすめた。


机の上を少し眺めている。


やがて、本を閉じる小さな音がした。


「りゅうくん」


「ん?」


「明日も、一緒に食べようね」


「もちろん」


たったそれだけの会話だった。


なのに、その日は何か難しい問題に答えられた気がした。


僕は寝室へ向かいかけて、書斎の入り口で足を止めた。


白い糸のしおりは、まだ『蜘蛛の糸』の最後の白紙に挟まっている。


写真も、「17」という数字も、解けないままだ。


鍵のかかった部屋の本当の意味も、知らない。


今日一日で、解けた謎はおそらく一つもない。


それでも、不思議と悪い気分ではなかった。


朝食が冷める前に、一緒に食べられた。


そして明日も、そうしたいと思った。


僕にとっては、それが今日いちばん確かな答えだった。


書斎から出てきたまいさんの手には、あの本があった。


彼女は『ティファニーで朝食を』を胸元に抱え、少し考えるように表紙を眺めていた。


「ねえ、りゅうくん」


「なに?」


「今度、ちゃんと話したいことがあるの」


僕は振り向いた。


妻の声は穏やかだった。


けれど、いつもの冗談の調子ではない。


「うん。聞くよ」


「……よかった。じゃあ、明日ね」


「分かった」


彼女は本を棚へ戻した。


いつの間にか、机のいちばん端には別の文庫本が一冊置かれている。


背表紙には、池井戸潤の名前があった。


僕は題名まで読もうとして、やめた。


今夜はまだ、そこまででいい。


続きを知るのは、明日でも遅くない。


妻の過去を、僕はまだ知らない。


彼女が僕へ贈る本の意味も、きっと全部は分かっていない。


それでも、今朝の朝食に僕がいたことは、誰にも書き換えられない。


僕は寝室へ入った。


あとから、まいさんの足音が近づいてくる。


明日の朝食は、たぶん二人分だ。


それだけは、今夜の僕も知っている。

最後までありがとうございました。


分からないことが残っていても、明日の朝を楽しみにできる。

そんな二人の日常を、これからも大切にしていきたいと思います。


次回は第9話『七つの会議』。

あの穏やかな食卓の続きに、どんな言葉が並ぶのでしょうか。


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