第7話 秘密
第7話で苦労したのは、過去の出来事を説明しすぎないことでした。
一枚の写真は、写っていることしか教えてくれません。でも、写真を見る側には、その外側にある時間まで気になってしまう。
小さな手掛かりが心に残るよう、丁寧に書いたつもりです。
よろしくお願いします。
写真は嘘をつかない、と言う人がいる。
僕はその意見に、半分だけ賛成だ。
写っているものは、たぶんそこにあったのだろう。だが、写っていないものがそこになかったとは限らない。
カメラの外側には、いつだって広い世界が残っている。
写真一枚から人の過去を推理しようとするのは、たった一頁で長編小説の結末を当てようとするようなものだ。
難しいに決まっている。
……などと、もっともらしいことを言えるようになったのは、僕がそれを実際にやってしまった後の話である。
昨夜、まいさんが書斎に置いていったのは、東野圭吾の『秘密』だった。
赤いペンで直された自分の原稿の隣に、その二文字がある。
事故で亡くなった妻の魂が娘の身体に宿り、夫の前で「妻でありながら別の人間として生きていく」というあの物語の構造が、今の僕たちの関係性と奇妙に重なり合う。夫である僕の知らない時間や秘密を抱えたまま微笑む妻の姿が、ページをめくる前から重くのしかかっていた。
僕は結局、本を開かずに眠った。
いや、正確には、何度か開こうとした。表紙を指で持ち上げては戻し、ページの間に挟まった何か硬い紙片の膨らみを確かめては、机に置き直した。
いかにも思慮深そうな行動だが、単に怖かっただけだ。
売れない小説家にも怖いものはある。締め切り、口座残高、そして妻が意味ありげに置いた文庫本。
この三つのうち、昨夜もっとも近くにあったのが文庫本だった。
翌朝、まいさんはいつもどおり出勤の支度をしていた。
僕は台所でコーヒーを淹れ、食パンを焼いた。トースターが鳴るまでの数分間、彼女は洗面所の鏡の前で黒髪を整えている。
鏡。
その言葉だけで、脳内のどこかが律儀に反応した。
世の中に鏡がいくつあると思っているのだろう。洗面所の鏡にまで事情聴取を始めたら、僕は一生原稿を書き終えられない。
「りゅうくん、眠れた?」
「うん。まあまあ」
「目の下、ちょっと疲れてる」
「作家の風格ってことにしてくれない?」
「ふふ。風格は原稿のほうに出してね」
「厳しいな、編集者」
「今は奥さんだよ」
まいさんはそう言って、いつもの青と白のマグカップのうち、青い僕のカップにだけミルクを入れた。
頼む前から量がちょうどいい。
結婚して一年。僕らには、こういう小さな一致がいくつもある。
その一方で、彼女が置いた本の意味については、僕はまだ一つも正解をもらっていない。
「昨日の原稿、ありがとね」
「僕がお礼を言うほうだろ」
「そう? でも、読ませてもらえて嬉しかったから」
「赤字まで入れてもらったし」
「主語、直した?」
「……うん。少しね」
「そっか」
彼女は嬉しそうに笑った。
僕はその笑顔を見てから、書斎のほうへ目を向けた。
あそこには、まだ開いていない『秘密』がある。
「ねえ、まいさん」
「なあに?」
「昨日の本、今日読んでみるよ」
彼女の白い指が、白いマグカップの取っ手で一瞬止まった。
ごく短い間だ。気のせいかもしれない。
「うん」
「難しかったら、また感想を聞いてくれる?」
「もちろん」
それから、彼女は少しだけ声を落とした。
「……りゅうくん。全部、分かったつもりにならなくていいからね」
昨夜も似たようなことを言われた気がする。
妻の編集方針は一貫している。ありがたいことだ。作者としては、肝心なときほど具体的な指示がほしいところだが。
「分かった。分からないことがあったら、分からないって書いとく」
「ふふ。それがいいと思う」
まいさんは玄関で靴を履き、僕に手を振った。
僕も振り返した。
いつもの朝だった。
少なくとも、家の中の景色は。
書斎の机に座り、『秘密』を開いた。
知っている作品だ。昔、一度読んだことがある。
事故で亡くなった妻の魂が娘の身体に宿り、夫の前で「妻でありながら別の人間として生きていく」ことになる物語。最も身近な存在だったはずの妻が、自分の知らない時間や秘密、さらには新しい恋愛まで抱えていくのを、夫が痛みと愛情の狭間で見つめる話だ。
しかし、今の僕は内容の知識にほとんど頼れない。
まいさんが教えようとしているのは、作品のあらすじではないらしいからだ。
数頁めくる。
紙の手触りは普通だった。文字も普通。出版社が仕込んだ秘密の仕掛けがあるわけではない。
当然である。
文庫本は、僕のために印刷されているわけではない。
それでも、途中で一箇所だけ、頁の間がわずかに浮いていることに気づいた。
昨夜、外から見ても分かったあの膨らみだ。
白い糸のしおりでも、僕が贈った革のしおりでもなかった。
少し厚みのある、光沢を抑えた印画紙。
指を差し入れて取り出すと、一枚の古い写真だった。
「……おいおい」
僕は思わず声に出した。
ここ数日、妻から渡される本には何かが挟まっている率が異様に高い。
書店で「初回特典つき」と宣伝しても、そろそろ僕は驚かないと思う。
ただし、今回の特典については、できれば事前に説明が欲しかった。
写真には、若いまいさんが写っていた。
今より黒髪が少し短い。服装も違う。白っぽい襟のシャツを着て、木漏れ日の差す古い洋館か文庫の庭のような場所で、少し横を向きながら笑っている。
そのすぐ横に、男性がいた。
いた、という言い方しかできない。
写真の右端に、その男性の肩から顔にかけての一部分だけが残っていたのだ。
切れ長の左目のあたりと頬、わずかに上がった口元。もう半分は、写真の外へぷっつりと切れている。
身なりのよい、落ち着いた大人の男性に見える。
年齢ははっきり判断できないが、当時のまいさんと同じか、少し年上だろうか。
横顔でもない。正面でもない。
こちらを向く途中で、世界の端に引っかかったような顔だった。
僕は写真を机へ置き、もう一度持ち上げた。
光へ透かしてみる。
当然、写っていない部分は現れない。
スマートフォンの画面なら指で拡大できるが、紙の写真にその機能はない。二十三歳の小説家にとって、なかなか残酷な仕様である。
写真の縁は、四方とも同じ余白ではなかった。
右端だけには白枠がなく、刃物か裁断機で落としたようにまっすぐだった。現像したときからこの大きさだったのではない。あとから誰かの手で、意図的に切り取られたのだ。
ただ、なぜ男性の顔を半分だけ残すような中途半端な切り方をしたのかまでは、僕には判別できない。
そして、もう一つ。
写真の中のまいさんが、ひどく艶やかに笑っている。
僕のよく知っている笑顔だった。
同時に、僕の知らない「女」の笑顔でもあった。
白っぽいシャツの襟元から覗く、今と変わらない白い鎖骨と首筋。男性の肩と触れ合うほど近い距離に立ち、少しだけ重心を相手へ預けるようにして微笑んでいる。
あの日、鏡の向こうで背の高い男に抱き寄せられたときの横顔が、不意に頭へ浮かぶ。
この写真を撮られた日の夜も、あるいはその前後の時間にも、僕と出会う前の二十一歳のまいさんは、この半分しか顔のない男にその白い首筋や豊かな腰を抱かれ、甘い吐息を漏らしていたのだろうか。
そう想像した途端、みぞおちの奥がキュッと締め付けられるように痛み、それとまったく同時に、下腹部の奥にあの厄介な熱がじわりと広がった。
自分の知らない過去の男に抱かれる妻の姿を勝手に幻視して、嫉妬しながら昂ぶっている。
嬉しいときに笑う人の顔が似ているのは、たぶん当たり前だ。
僕はそこに、自分が疼くための意味を見つけたがっているだけかもしれない。
逃げるように、写真を裏返した。
白い裏面には、鉛筆で控えめに時期が記されていた。
四年前の秋。
僕がまだ、浮気真衣という人の存在さえ知らなかったころだ。
その文字の下に、丁寧な筆跡で数字が一つ書かれていた。
『17』
数字の横には何の説明もない。
整理番号だろうか。展示か何かの番号かもしれない。あるいは撮影した人の癖という可能性もある。
小説なら間違いなく重要な伏線である。
だが実物の写真は、僕の小説の伏線として生まれたわけではない。
どこかに意味があったとしても、それが僕に向けられた意味とは限らない。
僕は写真を表に戻した。
右端の男の半分だけの顔と、もう一度向き合う。
……どこかで見たような気がした。
その感覚が、いちばん頼りなかった。
見覚えというものは不思議だ。目の前に完全な顔があっても人違いをするくせに、半分しか見えないと残りを自分の記憶で勝手に補ってしまう。
あの日、鏡の向こうにいた男だろうか。
濃い色の上着。手に持っていた薄い封筒。
僕が覚えているのは、そんな断片ばかりだ。
写真に写る男の服装も、落ち着いた暗い色だった。
その程度の共通点なら、都内の駅前に立っている男性の半分以上が容疑者になりそうである。
僕は写真を机の上に戻した。
写真の中では、四年前のまいさんが変わらぬ笑顔を浮かべていた。
そこだけは、何度見ても変わらなかった。
昼になっても、原稿はほとんど進まなかった。
代わりに机のノートには、僕が書いた四つの疑問が並んでいた。
『誰が撮ったのか』
『隣の男性は誰なのか』
『なぜ顔の右半分が切られ、この本に挟まっているのか』
『裏の17は何を示すのか』
先日の『藪の中』では仮説を三つ立てた。
今日は疑問が四つだ。
この調子で数が増えていけば、月末には連載小説より長い「妻の謎に関する覚え書き」が完成するかもしれない。
そんな作品を出版社へ持ち込んだら、受付で丁寧に帰宅をすすめられるだろう。
僕はノートを閉じた。
ここで一つ、妙なことに気づいた。
四つの疑問のうち、まいさんにしか答えられないものがいくつあるだろう。
全部かもしれない。
しかし、そこに写っている男性自身の都合や、当時の事情が絡んでいる可能性だってある。
そして最後の「17」という数字にいたっては、どこかの会場の展示番号や管理番号だったとしてもおかしくない。
なのに僕は、写真が妻の本から出てきたというだけで、すべての答えを彼女ひとりが僕への暗号として握っていると決めてしまっていた。
まるで真衣さんが、僕の知らない物語の作者であるかのように。
いや。
この写真を本に挟んだことについては、彼女の意思なのだろう。
だが、彼女が自分の二十五年の人生のすべてを、僕に読ませるためだけに生きてきたわけではない。
そんなことは当たり前だ。
当たり前のことほど、気づくまでに時間がかかる。
僕は原稿の画面を開いた。
昨夜、紙の原稿から打ち直した一行が残っていた。
『僕は、扉を開けたことを後悔していた。』
その下に、空白がある。
昨夜、まいさんは「主語を隠さなくてもいいのでは」と赤字を入れた。
今日の僕は、逆のことで困っている。
写真には人物が写っているのに、名前がない。
誰がそこにいるのか、小説なら作者が勝手に主語を補えるはずなのに、現実には補えない。
僕は原稿に一行加えた。
『彼女には、僕が知らない年月がある。』
書いてから、少し考えた。
当たり前すぎないか。
二十五歳の妻には二十五年の人生があって、そのすべてに二十三歳の僕が立ち会っていたわけではない。
そんなことは、小学生でも知っている。
それでも、今まで僕はどこかで、結婚したというだけで彼女の過去や内面まで独占して共有できたつもりになっていたのかもしれない。
画面の一行を、消さずに残した。
格好のいい文章ではない。
けれど、今日の僕には必要だった。
まいさんが帰ってきたのは、七時半ごろだった。
会社の紙袋と、駅前で買った惣菜を持っている。
僕は慌てて台所へ向かった。カレーの残りを温める予定だったが、いまさら鍋の存在を思い出したからといって、昼間の執筆が進んだことにはならない。
「ただいま、りゅうくん」
「おかえり。今日は早いね」
「うん。ちょっと片づいたから」
「いいな。僕の仕事も片づいてほしい」
「ふふ。片づいたら寂しくならない?」
「原稿が片づくぶんには、毎日お祭りだよ」
彼女は笑いながら上着を脱いだ。
僕は鞄を受け取り、いつもの場所へ置いた。
その動作が、なぜかひどくありがたかった。
今夜も彼女は帰ってきた。
別に帰ってこないと思っていたわけではない。
けれど、写真を見つけてからずっと、僕は四年前の過去というものに気を取られすぎていたらしい。
目の前で部屋着に着替え、甘い体温を漂わせている妻は、まぎれもなく現在の人間だった。
夕食を終えても、写真の話を切り出せなかった。
いつもの食卓には、会社であった些細な失敗と、僕が書いた冗談の出来についての話が並んだ。
まいさんは新人作家の文章に同じ接続詞が五回続いていたと言った。
僕は「それ、僕の原稿じゃないよね」と確認した。
彼女は「内緒」と答えた。
編集者を妻に持つというのは、家庭内に小さな校閲部門を設置するようなものである。
食器を洗い終えたあと、僕は書斎へ戻った。
写真はまだ机の上、『秘密』の文庫本の横に置いてある。
さっきまで、引き出しにしまっておこうかと思っていた。
でも、しまわなかった。
ここで僕が隠してしまえば、『秘密』の作中で互いの隠し事を抱えたまま暮らした夫婦のように、今日また新しい秘密が一つ増える。
そのことが、妙に嫌だった。
「りゅうくん、何してるの?」
背後から声がした。
振り向くと、まいさんがいつもの青と白のマグカップを持っていた。
僕の机を見る。
写真を見る。
彼女の表情が、ほんのわずかに止まった。
「あ……」
その声に、僕は何を聞き取るべきだったのだろう。
驚き。安堵。気まずさ。
どれとも決められなかった。
「『秘密』、読んでた」
「うん」
「途中で、これが出てきたんだ」
僕は写真を指した。
まいさんは二つのマグカップを机へ置いた。
写真を取り上げて隠すようなことはしなかった。
「……そっか。見つけたんだね」
「見ちゃってよかった?」
「うん。それは、いいよ。わたしが挟んでおいたんだから」
少し息を吐く音がした。
僕は写真と、目の前に立つ百七十センチの彼女の顔を見比べた。
「昔のまいさんだよね」
「そうだよ」
「今と、ちょっと雰囲気違うね」
「髪、短かったもん」
「若い」
「ちょっと。今も若いんですけど」
「もちろん。非常に。むしろ僕より二歳も年上とは思えない」
「その言い方、全然褒めてない気がする」
まいさんが笑った。
僕も笑う。
笑ってから、胸の奥が少し痛んだ。
写真の中の彼女も、笑っている。
過去の誰かの隣で笑っていた彼女と、今ここで僕の隣で笑っている彼女が同じ一人の女性であり、僕がその人をどうしようもなく好きだという事実が、妙にややこしかった。
「……まいさん」
「なあに?」
「この写真、四年前なんだね」
「うん」
「僕らが知り合う前か」
「そうだね」
沈黙が落ちた。
けれど数日前の『沈黙』の夜とは違った。
あのときは何を聞くか分からず、ただ怯えて黙っていた。
今は、何を聞きたいか分かっているのに、相手へ踏み込みすぎない聞き方を選んでいる。
「……隣の人」
そこまで言って、僕は止まった。
まいさんは急かさなかった。
「顔が、半分しか写ってないんだね」
「……うん」
「写真って、そういうことあるよね」
「あるね」
まいさんは写真のまっすぐな右端へ目を落とした。
長い睫毛が影を作り、部屋の明かりの中で彼女の横顔が静かに浮かび上がる。
その表情を見ていると、ふいに、彼女にも僕の知らない時間があり、その時間をともにした相手との間にも、僕の知らない事情があるのだと実感した。
僕を裏切るために隠された時間ではなく、僕と出会う前から流れていた、彼女の大切な人生の一部。
その中に僕の知らない男性がいたとしても、そこにどんな願いや別れがあったのかは、まだ僕には分からない。
「りゅうくん」
「ん?」
「写真を見て、何を思った?」
驚くほど真っすぐな質問だった。
逃げ道に使える小説の主人公は、この場にいない。
僕は写真を見た。
若いまいさん。
見知らぬ男の、半分しかない顔。
「……知らないことが、いっぱいあるんだなって」
「そっか」
「それで、ちょっと怖くなった。……同時に、当時のまいさんがどんな顔をしてその人の横にいたのか、気になって目が離せなくなった」
後半の言葉は、ほとんど無意識に口をついて出た。
まいさんは僕を見た。
その潤んだような黒い瞳に何が浮かんだのか、僕には正確には分からなかった。
「ごめんね」
彼女は小さく言った。
僕は首を振った。
「謝ってほしくて言ったんじゃないよ」
「うん」
「ただ……写真の外側を、勝手に想像しちゃって」
「想像、したんだ」
「小説家だからね」
「ふふ。それは便利な言い訳だね」
「昔から重宝してる」
まいさんが少し笑った。
それから、僕の椅子の背にそっと手を添え、写真の中の自分へ目を戻した。彼女の指先が僕の肩にわずかに触れ、温かな体温が伝わってくる。
「わたしね、昔の写真を見ると、ときどき不思議な気分になるの」
「どうして?」
「写ってるの、ちゃんとわたしなのに、そのとき何を考えてたか、相手がどう思ってたか、一言では言えないから」
「……うん」
「でも、過ぎたからって、なかったことにはならないでしょう?」
僕は頷いた。
その言葉は、妙に静かで、重みがあった。
僕があの写真から読み取ろうとしていたのは、単なる過去の男の正体だった。
けれど彼女が話しているのは、過去の自分の願いや、誰かとの記憶を、なかったことにせずにどう抱えて生きているか、ということなのかもしれない。
「まいさん。この写真、僕が預かってていい?」
「いいよ」
「本に戻しておくけど」
「うん。それでいい」
彼女は少し迷うように口を閉じた。
それから、いつもの柔らかい声で続けた。
「ねえ、りゅうくん」
「なに?」
「もし、いつか続きを聞きたくなったら……ちゃんと聞いてね。わたしが話せる範囲なら、ちゃんとお話しするから」
話せる範囲。
何の続きを指しているのだろう。
写真の向こう側か。裏に書かれた「17」の意味か。
妻の過去か。
それとも、あの鏡の小部屋から始まったすべてのことか。
「……うん。そうする」
僕は答えた。
今すぐ全部は聞けない。
でも、聞くときには、鏡の向こうの光景や写真の断片を、勝手な決めつけの材料に使うのはやめよう。
少なくとも、そう決めた。
まいさんが風呂へ行ってから、僕は写真をもう一度手に取った。
四年前の秋。
笑っている妻。
意図的に右半分が切り落とされた男の顔。
裏面の「17」。
僕は一つずつノートに書き出した。
そして、昼間の四つの疑問の下に新しい一行を足した。
『写っていない部分を、見たことにしない。』
これは小説の技術ではない。
たぶん、妻と暮らしていくための技術だ。
僕は写真を『秘密』の元の頁に戻した。
不思議なことに、同じ紙の一枚なのに、朝より少し重く感じられた。
そこに知らない誰かが写っているからではない。
写っているまいさんが、その過去を抱えたまま、今こうして僕の妻になってくれた人だからだ。
とはいえ、謎が解けたわけではない。
写真の右端に何があったのか。
あの男性は誰で、なぜ顔を半分だけ切る必要があったのか。
そして「17」は、何を意味するのか。
僕はまだ、どの答えも持っていない。
ただ、答えを持っていないことを、ようやく認められるようになった。
書斎を出ると、台所に小さな明かりがついていた。
湯上がりのまいさんが冷蔵庫の前に立っている。湿った黒髪から石鹸の香りが漂い、部屋着の裾から伸びた素足が明かりに白く照らされていた。
明日の朝のパンや卵が残っているか、確認しているらしい。
「あ、りゅうくん。まだ起きてた?」
「うん。もう寝る」
「明日の朝、何食べたい?」
「なんでも。まいさんの好きなやつで」
「それ、いちばん難しい注文だよ」
「編集者なら得意だろ。難しい注文」
「ふふ。じゃあ、ちょっと考えるね」
彼女は冷蔵庫の扉を閉め、台所の小さな棚から一冊の文庫本を取り出した。
その表紙が見えたとたん、僕は思わず笑った。
トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』。
「……まいさん」
「なあに?」
「今度は、ずいぶん分かりやすい」
「本当に?」
「朝ご飯、ってことだろ」
「ふふ。どうかな」
妻は笑い、僕に文庫本を手渡してから、空いた手で僕の手を取った。
湯上がりの、柔らかくて少し熱い指先だった。
もう片方の手には、明日のためのメモがある。
食パン、卵、牛乳。そして一番下に、まいさんの丸い字で『朝ごはん ふたり分』と書き添えてあった。
どこからどう見ても普通の朝食の準備だ。
頼むから、明日だけは普通の意味であってほしい。
「りゅうくん、明日はゆっくり一緒に食べようね」
「いつも一緒だろ」
「うん。だから、明日も」
僕は彼女の温かい手を握り返した。
小さな、確かな温かさだった。
その夜、書斎の机には七冊の本が並んでいた。
そのうちの一冊には、顔の半分しか見えない男の写真がある。
分からないことは、まだたくさんある。
けれど、写真の外に広がっているのは、僕の知らない過去だけではない。
僕らには、明日の朝食から続くこれからの時間もある。
妻が渡してくれた『秘密』の意味を、僕はまだ知らない。
知らないことを急いで埋めなくても、明日の朝は来る。
そして、今の僕は、その朝が来るのを少し楽しみにしていた。
読んでくださってありがとうございます。
誰にでも、出会う前の時間があります。
知りたいという気持ちと、今ある幸せを守りたいという気持ちは、必ずしも反対ではないのかもしれません。
次回は第8話『ティファニーで朝食を』。
少し肩の力を抜いて、二人の食卓に戻りましょう。




