第6話 仮面の告白
小説家を主人公にした以上、「自分のことを自分の言葉で書く難しさ」は避けて通れないと思っていました。
今回は、龍之介の冗談と、原稿に向かうときの真剣さを両方書くのが課題でした。
真衣さんの編集者としての顔にも、少し注目してもらえたら嬉しいです。
小説家は、嘘をつくのが仕事である。
こんなことを書くと、全国の小説家から異議が届きそうだが、少なくとも僕は毎日のように嘘をついている。行ったことのない街の匂いを語り、会ったことのない人物の心を決めつけ、ときには一度も経験したことのない別れに涙まで流させる。
もっとも、僕の場合は嘘の質がよくないらしい。
作品が売れていないのだから、説得力については推して知るべしだ。
それでも一つだけ、自信を持って言えることがある。
僕は今、自分について嘘をつくのが、これまでのどんな仕事より下手になっている。
机の上には、昨日の夜から一冊の文庫本が伏せられていた。
三島由紀夫『仮面の告白』。
まいさんが置いていった六冊目の本だ。
正確には、『蜘蛛の糸』から数えて六冊目になる。本屋なら新刊を並べるところだろうが、我が家では一冊増えるたびに夫の睡眠時間が減る。あまり健全な書店とは言えない。
昨夜、僕はその表紙を確かめてから、ノートに一行書いた。
『第四の証言者――僕。』
寝る前にもう一度読んだ。
朝起きてから、また読んだ。
三回読んでも、僕のことが書いてあるのは変わらない。字を書いた本人なのだから当然である。
僕は机の横に立てかけた小さな鏡を見た。
髪は寝癖で跳ねている。目の下には、普段より少し濃い影がある。
文豪と同じ名前をつけられた二十三歳の売れない小説家。
鏡の中にいるのは、どこからどう見てもいつもの僕だった。
ただ、鏡の中の男が何を考えているのか、自分でもうまく説明できなかった。
「りゅうくん、今日は早く起きたんだね」
台所では、まいさんが食パンをトースターに入れていた。
仕事の日の朝は、彼女の動きが少し速い。黒髪を後ろでまとめ、いつもの青と白のマグカップを二つ出し、青い僕の分だけミルクを用意する。その手順は、付き合い始めたころからほとんど変わっていない。
僕らの間には、言わなくても分かることがいくつもある。
困ったことに、最近は言わなくても分かるかもしれないことまで増えてしまった。
「何となく目が覚めてさ」
「原稿?」
「うん。今日は少し進めたい」
「いいね。どんな場面?」
「主人公が、自分のことを考える場面かな」
「……ふふ。難しそう」
「困ったことに、作者もあんまり得意じゃない」
まいさんは皿を置いて笑った。
僕より二つ年上で百七十センチある彼女は、笑うと少し目尻が下がる。その顔を見ていると、朝の眠気も、夜の余計な考えも、ひとまず食卓の外へ追い出せる気がした。
「ねえ、りゅうくん」
「ん?」
「昨日の本、読んだ?」
「『仮面の告白』?」
「うん」
「昔、読んだよ。今回も少し開いた」
「どうだった?」
「タイトルが、いろいろ厄介だと思った」
「タイトルが?」
「仮面をつけてるのに告白するんだろ。結局、どこまでが本当なのか分からなくなりそうで」
まいさんは、焼けたパンを皿へ移し、白いマグカップにコーヒーを注いだ。
「でも、仮面をつけてるから話せることもあるんじゃない?」
「たとえば?」
「……小説とか」
僕は青いマグカップに口をつけるのを忘れた。
「自分のことだと恥ずかしくても、登場人物のことなら書けるでしょう?」
「それは、まあ」
「りゅうくん、そういうの得意そう」
「褒めてる?」
「もちろん。わたし、小説家のりゅうくんが好きだもん」
まいさんはあっさり言った。
結婚して一年も経つのに、こういう言葉に僕はいまだに弱い。
褒められたのは職業なのに、まるで人間として合格点をもらった気分になる。
売れない小説家は、経済的には厳しいが、おだてれば比較的よく働く。飼育の難しくない生き物である。
「じゃあ、今日はその得意技を使ってみるかな」
「うん。無理しないでね」
まいさんは出勤前に僕の肩へ軽く触れた。
玄関の扉が閉まる。
いつもの静かな家が戻ってきた。
僕は食器を洗い、机へ向かった。
パソコンの画面には、昨日までの原稿が残っていた。
主人公は扉を開けた。カーテンを見つけ、その向こうの光景を知った。そして、自分が何を見たのか、うまく説明できずにいる。
実に仕事の遅い主人公だ。
作者に似ているのだから仕方がない。
昨日の僕は、彼にこう言わせた。
『僕には、君が全部知っていたように見えた。』
断定を避けたつもりだった。
でも、その次をどう書けばいいのか分からない。
相手が何を知っていたのか。
自分は何を知りたかったのか。
どちらも曖昧なまま、画面の中で男が立ち尽くしている。
僕は新しい行を作った。
『彼は、あの扉を開けたことを後悔していた。』
悪くない。
少なくとも、文章としては成立している。
続けてみる。
『見たくないものを見たからだ。もう一度あの場所へ行けと言われても、きっと断るだろう。』
そこで手が止まった。
僕は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
文章の出来が悪いわけではない。たぶん、多くの読者には自然な反応に思えるだろう。
問題は、僕自身には自然に思えないことだった。
あの日、鏡の向こうにいたまいさんは、知らない男性と親しげにしていた。
その事実を思い返すたび、胸の奥に鈍い痛みが走る。
嫉妬だと思う。
腹が立った瞬間もあった。
目を閉じれば、何も見なかったころへ戻れるのではないかと考えた。
けれど、それだけではなかった。
僕は目を逸らせなかった。
原作の『仮面の告白』で、主人公が、木に縛られ、白い肌を矢に射抜かれた聖セバスチャンの殉教画を見て、生まれて初めての激しい昂ぶりを覚えた場面が頭をよぎる。
あの小部屋で僕が味わったのは、それによく似た倒錯だった。
自分より背の高い男の腕に抱き寄せられ、タイトなスカートの下の豊かな腰から太ももにかけての曲線を張りつめさせていたまいさんの姿。男の広い肩の陰で、上着の布地をぎゅっと掴んでいた白い指先と、離れた直後の濡れたように艶めく唇。
それを思い出すたび、嫉妬という鋭い矢が胸に突き刺さるのに、その痛みがそのまま下腹部の奥の熱い疼きへと変わってしまう。傷つくと分かっているからこそ見たい。痛むからこそ、あの小部屋にもう一度入ることを考えている。
入ってはいけないと分かっているから、いっそう気になる。
それとも、気になっている自分に理由をつけるために、いけないことだと言っているのか。
小説家の悪い癖だ。感情が一つ生まれると、すぐに説明を三つほど付けたくなる。
『藪の中』から何も学んでいない。
僕は書いたばかりの二行を読み返した。
そして「きっと断るだろう」を消した。
『彼は、扉を開けたことを後悔していた。けれど、二度と開けたくないのかと問われれば、答えられなかった。』
こちらのほうが、少しだけ正直だった。
さらに一行。
『本当に恐ろしかったのは、扉の向こうに何があったかではない。もう一度あそこに立ちたいと思っている、自分自身だった。』
書き終えた瞬間、胸が変に静かになった。
何だ、これは。
主人公の心理を書いただけではないか。
そのはずなのに、なぜ僕は、誰にも見せていない原稿を隠したくなっているのだろう。
画面の左上には、まだ仮のファイル名があった。
「新規小説_改稿中」。
壮大な物語を予感させる題名とは、とても言えない。
けれど今日は、そこへきれいな名前をつける気になれなかった。
名前をつけた途端、自分の気持ちまで確定してしまいそうだったからだ。
昼過ぎ、僕は原稿を印刷した。
印刷機が一枚ずつ紙を吐き出す。
普段なら、推敲するための作業だ。画面で見逃した誤字を探したり、同じ言葉を使いすぎていないか確かめたりする。
今日は違った。
紙にしてしまえば、さっき書いた気持ちを少し遠くから眺められるかもしれない。
そんな期待があった。
机の上に原稿を置く。
数枚の紙。
たいした分量ではない。
世に出ている作家たちは、この紙束の何十倍もの量を完成させているのだろう。
僕は一度、全部を引き出しへしまおうとした。
そのまま封筒に入れて、奥へ隠してしまおうとも考えた。
だが、昨日の約束を思い出した。
「最初の読者にしてくれる?」
「……うん」
あれは、妻が僕の原稿を読むという、ごく普通の約束だった。
それなのに今日の僕には、急に重く感じられる。
文章を読まれることと、心の内側を読まれることは違う。そう言い聞かせたい。
谷崎潤一郎の『鍵』を思い出す。
読まれるかもしれないと知って書く文章は、もう完全な独り言ではない。
あのとき偉そうに文学論を語ったのは、確か僕だった。
自分の言葉が数日で戻ってくるとは、世の中、便利な仕組みになっている。
僕は原稿を引き出しへしまわなかった。
かわりに、表紙になる白い紙を一枚重ね、端をクリップで留めた。
題名は書かない。
その代わり、右上に小さくこう書いた。
『読んでもらいたい部分だけ。まだ途中。』
卑怯だろうか。
全部を読ませる勇気はない。
でも、すべてを無防備に晒すのではなく、今読んでもらいたい範囲を自分で選んで手渡すことならできる気がした。
自分でも驚いた。
昨日までの僕なら、妻が原稿に近づくだけで必要以上に緊張していた。
今日は、自分で読んでほしい場所を選んでいる。
たったそれだけのことが、扉に手をかけたときと同じくらい大きな決心に思えた。
「ただいま、りゅうくん」
「おかえり。今日は早かったね」
「会議が一つ延期になったの」
「いいこともあるんだ、延期って」
「締め切りも延期してほしい?」
「それはぜひ。全人類が幸せになる」
「ふふ。編集者には言わないでね」
「いま言った相手は編集者じゃなかった?」
「今は、りゅうくんの奥さんです」
まいさんはそう言って笑った。
玄関の明かりの下で、左手の指輪が小さく光る。
僕は鞄を受け取り、いつもの場所へ置いた。
夕食は僕が用意した。といっても、昼間作ったカレーを温めただけだが。
昨日のスープをようやく食べ終えたばかりなのに、また数日かけて食べる料理を作ってしまった。
料理に関して、僕は連載作家向きらしい。
「今日、原稿進んだ?」
「うん。少しだけ」
「見せてもらってもいい?」
その質問を待っていた。
待っていたのに、胸が鳴った。
僕は茶碗を置き、しばらく考えた。
「……今日は、僕から頼んでもいい?」
「なあに?」
「読んでほしい。ほんの数枚だけど」
まいさんは驚いた顔をした。
それから、僕の顔を見て、ゆっくり頷いた。
「うん。読むよ」
「ただし、まだ途中。話のつじつまが合わないところもある」
「大丈夫。途中の原稿、毎日読んでるから」
「僕のより立派なやつをね」
「りゅうくんのだって、わたしは楽しみだよ」
こちらが照れると分かっていて、まいさんはさらりと言う。
反則だ。
出版業界には、配偶者への過剰な励ましを規制する規則が必要だと思う。
制定されたとしても、僕は率先して抜け道を探すだろうけれど。
食後、僕らは書斎に移った。
まいさんは机の端に積んである本を眺めた。
『蜘蛛の糸』『鍵』『鏡の国のアリス』『沈黙』『藪の中』『仮面の告白』。
六冊とも、彼女が用意したものだった。
順番を知っているはずの人が、何も知らないように背表紙を一つずつ眺めている。
その横顔を見ていると、僕はまた推理を始めそうになった。
いけない。
今日は推理を休む日だ。
少なくとも、妻に関する推理だけは。
「これ?」
まいさんが紙束を指した。
「うん。今日の分」
「じゃあ、読ませてもらうね」
妻が紙をめくる。
かすかな音がした。
僕はその音を聞きながら、どうでもいいことを考えた。
紙というものは、どうしてこんなに無防備なのだろう。
開かれたら中身を読まれるしかない。
本棚に戻ることも、黙ることもできない。
読んでほしくて差し出したのは僕なのに、その音から逃げたくなった。
まいさんは最初のページを読み終えた。
次のページ。
そして、僕が今日書き加えた箇所に目を落とす。
長い睫毛が伏せられ、静かに息を吐くたびに、柔らかい部屋着の胸元がわずかに上下する。
読んでいるあいだ、彼女は一度も僕を見なかった。
それが少しありがたくて、同時に少しだけ物足りなかった。
「……ねえ、りゅうくん」
「はい」
「なんで敬語なの?」
「仕事の時間かと思って」
「ふふ。じゃあ、ちょっとだけ編集者になろうかな」
まいさんは筆箱から赤いペンを取り出した。
いつも仕事に使っている細いペンだ。
キャップを外す音が、静かな書斎にやけに大きく響く。
彼女の白い指先がペンを握り、一文に小さな丸を付けた。
僕はその丸がどこに描かれたのか、見ないふりをした。
「この主人公ね」
「うん」
「自分の気持ちを、ずいぶん上手に隠すね」
「そういう人なんだと思う」
「ふふ。そうかもしれない」
まいさんは原稿を少し持ち上げた。
「『後悔していた』って書いてあるでしょう?」
「うん」
「でも、その次の文章には『もう二度と見たくない』とは書いてない」
「……そうだね」
「作者は、どうして書かなかったの?」
僕は口を開いた。
簡単に答えられるはずだった。
だって、僕が書いたのだから。
それなのに出てきたのは、ひどく頼りない言葉だった。
「……その人が、そう思ってないからじゃないかな」
まいさんは僕を見た。
ほんの一瞬だった。
「そっか」
それだけ言って、また原稿へ目を戻した。
僕は椅子の背に寄りかかった。
まだ何も言っていない。
僕たちは、主人公について話している。
この部屋には紙とペンと、小説家と編集者がいるだけだ。
それなのに、どうしてこんなに喉が渇くのだろう。
「ねえ、ここ」
細い赤ペンの先が、別の一文をゆっくりとなぞった。
『本当に恐ろしかったのは、扉の向こうに何があったかではない。もう一度あそこに立ちたいと思っている、自分自身だった。』
赤いペン先が紙の上を滑るたび、まるで僕自身の隠していた肌や急所を直接指先でなぞられているかのように、背筋がぞくりと粟立った。
「この言葉、好き」
「……ありがとう」
「でも、一つだけ気になる」
「どこ?」
「最初のほう、ずっと『彼は』って書いてるのに、途中から『僕には』になるでしょう」
「ああ。それは、語りの距離を変えたくて」
「うん。効果はあると思う。でもね」
まいさんは紙の余白に、鮮やかな赤いインクで小さく文字を書いた。
『ここで主語を隠さなくてもいいのでは?』
僕は赤い文字を見つめた。
主語。
誰が見たのか。
誰が恐れたのか。
誰が続きを知りたいのか。
そんな当たり前のことを、一日かけて避けていたらしい。
「主人公の気持ち、ちゃんと分かるようにしたいんだね」
「うん。だって、分かってあげないと可哀想だから」
「……ずいぶん優しい編集者だ」
「仕事ではもっと厳しいよ」
「知ってる。僕の誤字、見つけるときの顔が怖い」
「りゅうくんが同じ漢字を三回間違えるからでしょう?」
「作者の個性として認めてほしい」
「それは難しいなあ」
僕らは笑った。
笑えることが、ありがたかった。
まいさんが赤ペンで何を指しているのか、その意味を本当は確かめたかった。
でも、今は原稿の話をしている。
だから僕は、原稿の話として答えることにした。
「……ここ、書き直してみるよ」
「うん。楽しみにしてる」
まいさんはペンを置くと、紙束を揃えた。
そして僕へ返す前に、もう一度だけ最後のページを開いた。
「りゅうくん」
「なに?」
「この主人公、まだ扉の向こうへ行くつもりなの?」
僕は答えを用意していなかった。
少し考える。
向こうへ行くというのは、何を意味する。
小説の続きか。
それとも、もっと別のことか。
「……まだ決めてない」
「そっか」
「でも、自分で決めさせたいとは思ってる」
まいさんは頷いた。
「それがいいと思う」
その声は、仕事中の編集者のものにも、いつもの妻のものにも聞こえた。
どちらなのかを聞かなかった。
聞かなくても、たぶんどちらでもよかった。
寝室へ行く前、僕は赤字の入った原稿をもう一度読んだ。
余白に小さな丸がある。
その横には、『ここで主語を隠さなくてもいいのでは?』という文字。
ありがちな編集指示だ。
主語を省きすぎれば、読者には誰の感情か分からなくなる。
僕も、ほかの人の原稿を読めば同じことを言うかもしれない。
けれど、今日は違う気がした。
僕は「彼は」と書かれた一文を、もう一度見た。
『彼は、扉を開けたことを後悔していた。』
ペンを持つ。
一度、置く。
それから、原稿の空いているところへ、少しだけ書き直した。
『僕は、扉を開けたことを後悔していた。』
似ているようで、違う。
『仮面の告白』の幕切れで、強い日差しの下にさらされた若者の汗ばんだ肉体から主人公が目を逸らせなくなったように、「彼」という安全な仮面を外して「僕」と書いた瞬間、自分が何を欲しているのかがむきだしになる。
「彼」なら、都合が悪くなったときに作者は逃げられる。
「僕」では逃げにくい。
ただ、逃げにくいからといって、今すぐ扉を開ける必要はない。
それは別の話だ。
僕が何を望むのか。まいさんは何を望んでいるのか。そして向こう側にいる誰かを傷つけることにならないか。
そういうことを、ひとつずつ確かめていかなければならない。
物語の主人公にだって、勝手に結末を押し付けるのはよくない。
まして現実の誰かになら、なおさらだ。
僕は書き直した一行を見て、深く息を吐いた。
妻にすべてを話したわけではない。
妻から何かを聞き出したわけでもない。
それでも今日、少なくとも一つだけ、僕は自分に嘘をつかなかった。
廊下から足音がした。
「りゅうくん、まだ書いてる?」
「うん。あと一行だけ」
「ふふ。今日は頑張ったね」
「そういう日もある。年に数回ぐらいは」
まいさんが書斎を覗いた。
手には、文庫本が一冊ある。
それを見て、僕は思わず笑ってしまった。
「……ねえ、まいさん」
「なあに?」
「僕、まださっきの本も読み切ってないんだけど」
「うん。知ってる」
「それでも次のが来るんだ」
「ふふ。読まなくてもいいよ。置いておくだけだから」
まいさんは机の端に本を置こうとして、少し迷うように指先を止めた。
それから、赤字の入った原稿を見た。
「ねえ、りゅうくん」
「ん?」
「今日、わたしが原稿を読んだの、嫌じゃなかった?」
意外な質問だった。
答えを考えるまでもなく、僕は首を振った。
「全然。むしろ、読んでもらってよかった」
「そっか」
「うん。あの一行、自分じゃ直せなかったと思う」
「……そう。よかった」
彼女は安堵したように笑った。
その表情を見て、僕は胸のどこかが温かくなった。
編集者としての指摘がうまくいったからなのか。
それとも、もっと別の理由からなのか。
今は分からない。
分からないままで、いいこともある。
「今度はね、わたしの好きな小説も読んでほしいの」
「今までの六冊は、まいさんの好きな本じゃなかったの?」
「好きだよ。でも、次は……少し違うかな」
「違う?」
「うん。りゅうくんに、知ってほしいことがあるから」
そう言ったまいさんの瞳が、部屋の明かりを映して、普段よりわずかに熱を帯びて揺れた気がした。
僕は机の端を見た。
まいさんが本を置いた。
彼女の白い指が離れる。
見慣れた文庫本の表紙が、静かに照らされていた。
東野圭吾『秘密』。
その二文字を見た瞬間、僕は少しだけ身構えた。
閉じられた文庫本のページの間に、しおりの紐とは違う、何か硬い紙片か写真のようなものが挟まっているのか、わずかな膨らみがあることに目が留まった。
今度は、僕の仮面ではないのかもしれない。
そんな予感がした。
「……これも、読んでいいんだよね」
「うん」
「途中で分からなくなったら?」
「そのときは、聞いて」
まいさんは僕の顔を見た。
いつもの、やわらかな笑顔だった。
「全部を一度に分からなくても、いいからね」
僕は頷いた。
妻に知らないことがある。
自分にも、知らなかったことがある。
そのどちらも、まだ途中なのだろう。
机の上では、赤字の入った原稿と『秘密』が隣り合っている。
原稿の最後の一行は、まだ修正の途中だ。
それでも、今日の僕は初めて、その続きを自分で書きたいと思った。
妻が渡してきた本の意味を、僕はまだ知らない。
けれど今夜は、自分の書いた一行の意味なら、少しだけ分かった気がする。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
書いた言葉の裏には、書かなかった言葉もあります。
本を読むときも、誰かの表情を見るときも、それは同じかもしれません。
次回は第7話『秘密』。
一冊の本から、今度は少し違う時間へと目が向きます。




