第5話 藪の中
今回は、謎を作ること以上に「推理と事実を分けること」を意識しました。
疑い始めると、何でも証拠に見えてしまう。でも、考えたことが全部本当になるわけではありません。
龍之介の少し理屈っぽいところも、こんなときは役に立つのかもしれません。
どうぞお楽しみください。
小説家という職業には、少々厄介な特権がある。
目の前で起きたことを、いくらでも別の物語に書き換えられるのだ。
主人公が転んだ。間抜けだから転んだ、と書けば喜劇になる。誰かに突き飛ばされた、と書けば事件になる。自分から飛び込んだ、と書けば、ずいぶん面倒な心理小説のできあがりだ。
ただし、書き換えられるのは文章だけである。
現実のほうは、こちらの都合で一文字も動いてくれない。
昨夜、まいさんが僕の机に置いていった芥川龍之介の『藪の中』は、朝になってもそこにあった。
当然だ。本には、持ち主が寝ている間に移動する機能はない。僕の妻が相手なら、そう言い切るのにも若干の勇気が必要だが。
表紙の作者名を指でなぞる。
芥川龍之介。
覗見龍之介。
親が好きだった文豪と、親が心配している売れない作家。この二人を同じ机に並べていいものか、毎回判断に困る。
「りゅうくん、朝ご飯できたよ」
台所から、いつもの声がした。
僕は本を閉じた。まだ一行も読んでいない。正確には、何年も前に読んだ話を頭の中で繰り返していただけだ。
ある出来事について、いくつもの証言が語られる。ところが語り手によって、見えている真実が違う。
最後まで読んでも、安心して「これが正解です」と言えない。
作者の名前をいただいた身としては、できればもっと親切な作品を選んでほしかった。
いや、作者に文句を言っても仕方がない。
選んだのは妻だ。
今朝の献立は、目玉焼きとトースト、それから昨日の残りのスープだった。
夫婦二人で暮らすと、スープはしばしば三日連続で登場する。僕が作りすぎるからである。幸い、まいさんはその手の反復を嫌がらない。
「その本、懐かしいでしょう?」
妻が、いつもの青と白のマグカップに淹れたコーヒーを置いた。青いほうが僕で、白いほうがまいさんだ。
「懐かしいけど、朝から読むにはちょっと重いかな」
「そう?」
「だって、同じ事件なのにみんな言うことが違うんだよ。誰の話を信じたらいいか分からなくなる」
「ふふ。りゅうくんは、ひとりに決めたい?」
「小説家としては決めたいよ。犯人が三人いる推理小説なんて、編集者が困るだろ」
「犯人が三人いるのと、三人とも違うことを言うのは、別の話じゃない?」
「……ごもっともで」
我が家の編集者は、朝食中でも容赦なく原稿の論理を点検する。
けれど今日の指摘は、たしかに正しかった。
誰かの話がほかの誰かと食い違うとき、人はつい、どちらが嘘つきなのかを探す。
でも、両方とも見えたとおりに話している可能性だってある。
まいさんが白いマグカップに口をつけ、ゆっくりとコーヒーを飲む。
細く白い喉元がわずかに上下し、カップの縁から離れた唇がしっとりとした艶を帯びる。普通の朝の風景のはずなのに、僕の視線はその唇や、テーブルの下で組まれた長い脚のラインに吸い寄せられてしまう。風景が変わったのではない。僕の見方だけが、あの日からすっかり変わってしまったのだ。
「じゃあさ、まいさん」
「なあに?」
「見たことと、分かったことって、どのくらい違うと思う?」
質問した瞬間、自分で驚いた。
普通の食卓からは、なかなか生まれない疑問である。
まいさんはフォークを置き、白いマグカップの取っ手に指を添えたまま少し考えた。
「……見えたものは、見えたものじゃないかな」
「うん」
「でも、それを見た人がどう思ったかは、その人にしか分からないよね」
「見られた側の気持ちも?」
「うん。聞いてみないと分からないこと、あると思う」
妻はそう言って、僕の皿を見た。
「目玉焼き、今日は塩なんだ」
「……この前は醤油だったからね」
「ふふ。冒険、終わっちゃった?」
「検証の結果、元の仕様に戻りました」
まいさんは笑った。
その笑い方を、僕は知っている。
少なくとも、そう思っている。
妻を送り出すと、僕は原稿用のノートを一冊取り出した。
いつもなら登場人物の設定や、使えそうな比喩を書き散らすためのものだ。いちばん最近のページには「廊下の描写は長くしない」と書いてある。苦労の跡としては、なかなか切ない。
今日は新しいページを開き、上に大きく書いた。
『あの部屋で、僕は何を見たのか。』
『藪の中』の主人公たちに倣って、証言を整理しようというわけだ。
名探偵のまねをする売れない小説家。
その絵面だけで、出版社の企画会議なら却下されそうである。
しかし、今の僕にはほかにできることがなかった。
まず、確かなことを書いた。
まいさんが『鍵』と一緒に銀色の鍵を渡した。
鍵は書斎の奥の小部屋を開けた。
小部屋には、椅子とカーテンと『鏡の国のアリス』があった。
カーテンの向こうは、条件がそろうと隣室を見通せるガラスだった。
その部屋にまいさんと見知らぬ男性が入ってきた。
二人は抱き合った。顔が近づいたところで視界が遮られ、その先は見えなかった。
ここまでは、僕が自分の目で確かめたことだ。
書いた文字が、妙に大きく見えた。
小説家として冷静に事実だけを書き留めようとしたはずなのに、乾いたインクの線の裏側から、文字にしきれない生々しい肉体の記憶がべっとりと滲み出してくる。
ペンを握る指先にじわりと汗が滲んだ。脳裏に、あのとき背の高い男の腕の中で小さくしなった、百七十センチあるまいさんの背中が鮮明に蘇る。強く引き寄せられた拍子にタイトなスカートが張りつめ、彼女の豊かな腰から太ももにかけての柔らかな曲線がくっきりと浮き上がった瞬間。
男の広い肩の向こう側で、上着の布地をぎゅっと掴んで深い皺を寄せた白い指先。ガラス越しに届いた衣擦れの音と、離れた直後の濡れたように艶めいていた唇、耳たぶから白い首筋にかけて差していた淡い朱色。
数日前までなら、最後の一行だけで一晩眠れなくなっていただろう。
実際、眠れなかった。
それなのに今は、陽の差す昼間の書斎でひとりノートに向かっているだけなのに、呼吸が浅くなり、下腹部の奥にじわりと鈍い熱が灯ってしまっている。だから、もう一つ書きたくなる。
見ていた僕は、途中で目を逸らせなくなった。
これも、たしかなことだ。
妻についての証言ではなく、僕自身についての証言だけれど。
原作の『藪の中』では、薄暗い竹林の杉の根元に縛り付けられた夫の目の前で、妻が多襄丸という盗賊に奪われる。しかも夫の証言では、妻が盗賊の言葉にうっとりと顔を上げ、見たこともないほど美しく映った、とも語られる。
もしあの小部屋で立ち尽くしていた僕が、杉の根元に縛られた夫だとしたらどうだろう。僕がその場から一歩も動けず、声も出せなかったのは、縄で縛られていたせいでも猿轡を噛まされていたせいでもない。見知らぬ男の手のひらに包まれて艶やかに息づく妻の姿を前にして、僕自身の浅ましい熱と倒錯した昂ぶりが、僕をあの暗い部屋に縫い止めていたのだ。
ペン先を止める。
僕は妻のことを調べているつもりだった。
最初の証拠品から、調べられていたのは僕のほうだったらしい。
次のページに、三つの見出しを作った。
第一の仮説。
まいさんは、最初から僕にあの光景を見せるつもりだった。
『蜘蛛の糸』も『鍵』も『鏡の国のアリス』も、すべて一つの案内図だった。あの男性が来る日を知っていて、僕がカーテンを引くことまで予想していた。
そう考えれば、本が順番に置かれた理由は説明できる。
何より、彼女は鏡のある壁へ一瞬、視線を向けた。
男の肩越しに、熱を帯びて潤んだ瞳でこちらを見たのだ。僕がいると知っていたのだ。
……本当に?
僕は最後の一文に線を引いた。
「こちらを見た」と「僕がいると知っていた」は、同じ意味ではない。
昨日の僕なら、二つを一息に書いていたと思う。
今日の僕は、そこだけは書き直せた。
第二の仮説。
まいさんは僕に小部屋を見つけてほしかった。しかし、あの日あの時間に、僕がそこへ入るとは思っていなかった。
本と鍵は、何か別の話をするための準備だったのかもしれない。鏡には、僕の知らない用途があったのかもしれない。
その日に見知らぬ男性が来たのは、あくまで仕事の都合だった。
僕が自分の意思で扉を開け、見てはいけないものを見てしまった。
そういう説明だ。
この説には、妙な説得力があった。
なぜなら、僕がいちばん慣れ親しんでいる現実に近いからだ。
妻は優しい人間で、僕らは仲のいい夫婦で、予定外のことはたまに起きる。
それだけの話なら、僕はまだ自分の知っている世界にとどまれる。
第三の仮説。
まいさん自身にも、はっきりした結末は決まっていなかった。
鍵を渡し、本を置き、あとは僕に選ばせた。
来客を知らせたのも事実。原稿に集中していていいと言ったのも事実。
僕が小部屋へ行く可能性は考えていたけれど、実際に行くかどうかは知らなかった。
だから、あの視線には意味があるかもしれないし、ないかもしれない。
そして僕が引き返した後、妻は妻なりに、何かを考えたのかもしれない。
我ながら曖昧な仮説だった。
「かもしれない」が三回出てくる文章を、真衣編集者に渡したら赤ペンで真っ赤にされるだろう。
ただ、三つのうち、いちばん簡単には否定できない仮説でもあった。
昼前、僕は例の小部屋へ向かった。
銀色の鍵を持つとき、以前ほど手が震えなくなっていることに気づいた。
慣れるのは怖い。
慣れていく自分を観察するのは、さらに怖い。
それでも今日は、カーテンの向こうを見たいわけではなかった。
見えるものが増えれば真実に近づける、という考えが、昨日より信用できなくなっていたからだ。
鍵を回す。
乾いた音がした。
部屋には誰もいない。
閉ざされた薄暗い空気に足を踏み入れた瞬間、鼻腔の奥がわずかに疼いた。あの日ここで息を潜めていた僕自身の汗ばんだ熱気と、ガラス一枚隔てた隣室から染み出してきたような、まいさんの甘い香りと見知らぬ男の体温の残り香が、幻のように漂っている気がしたからだ。
机には筆記具が並び、椅子は鏡の正面に置かれている。
遮光カーテンは閉まっていた。
風が吹くたびに木漏れ日が揺らめく『藪の中』の竹林のように、厚い布のわずかな隙間から、隣室の細い光の筋が漏れている。
僕が戻したときのままにも見えるし、誰かがきれいに整えたようにも見える。
それを見ただけで、もう推理が始まった。
さっそく何も学んでいない。
僕は椅子の背に手を置いた。
背もたれの木が、指先にひんやりしている。
椅子をほんの少し引くと、床に擦れたような浅い跡があった。
僕が座ったときに付けたのかもしれない。
もともとあったのかもしれない。
どちらにせよ、この椅子がここに置かれた理由までは教えてくれない。
カーテンの隙間から覗く暗いガラス面に、ふと自分の顔が映り込んだ。誰もいない部屋で妻の残り香を探し、彼女がほかの男に抱き寄せられた場面を思い出して目を潤ませている二十三歳の夫の顔が、巫女の口寄せで呼び出された亡霊のようにこちらを見返している。
壁際の照明スイッチには、小さな丸い印が付いていた。以前、部屋を暗くしたときに触れたものだ。
小部屋に初めて入った日、机の紙片にも、まいさんが仕事で使うのと同じ丸が描かれていた。
印は新しくも古くも見えた。指で触れれば、少しだけ盛り上がっている。
だが、なぜわざわざ丸い印を付けたのだろう。机の紙片に描かれた丸と同じ形に、意味があるのだろうか。
僕は手を伸ばして、止めた。
確かめたいことなら山ほどある。
確かめていいことが、同じ数だけあるとは限らない。
昨日から、もう一つ頭を離れない疑問があった。
あの男性は、ガラスのこちら側について知っていたのだろうか。
僕が覗き見たことは、僕ひとりの秘密で済ませられることではないのかもしれない。
もし誰にも知らされていなかったのなら、僕は妻に対してだけではなく、あの男性に対しても説明しなければならない。
そう考えると、僕はもう、向こう側に人がいるときにカーテンを開けようとは思えなかった。
スイッチには触れず、椅子を元に戻した。
鍵をかける。
外へ出る前、最後に一度だけ、カーテンを振り返った。
何も見えない。
それが、今日は少しありがたかった。
午後、仕事へ戻ろうとして、僕はようやく自分が一行も原稿を書いていないことに気づいた。
芥川先生と同じ名前を名乗りながら、午前中の仕事が妻の行動に関する三つの仮説だけとは、胸を張れる話ではない。
もっとも、名前の立派さと生産性に関係があるのなら、世の中の「太郎」さんたちは今ごろ全員、超人的な仕事をしているはずだ。
パソコンを開く。
書きかけの物語の主人公は、例によって扉を開けたところで止まっていた。
数日前よりは進んだ。扉の向こうに何があるかは、もう書いてある。
けれど登場人物が何を信じ、何を恐れているのかを、僕はまだ説明できていない。
僕はひとまず、主人公に台詞を言わせた。
『君は、全部知っていたんだろう。』
声に出して読んだ。
妙に偉そうだった。
すぐに消して、書き直す。
『僕には、君が全部知っていたように見えた。』
こちらのほうが、まだ少しまともだった。
僕の主人公は、今のところ世界の中心を自分の目だと思っている。
その欠点を作者が把握しているという意味では、進歩したと言える。
作者が同じ欠点を持っているという問題は、棚に上げておく。
ふと、先ほどノートに書いた第二の仮説を思い出した。
まいさんは、僕に見つけてほしいものを用意していた。
でも、あの場面まで見せるつもりではなかった。
これがいちばん無理のない説明に思えた。
彼女が僕に鍵を渡したことと、驚かせるつもりのない人がいてもおかしくないこと。二つを同時に説明できる。
あの視線も、偶然だったのだろう。
妻は鏡の存在を知っていても、僕がその裏にいたとまでは思っていなかった。
僕はノートの「第二の仮説」に丸を付けた。
丸を付けただけで、胸が少し軽くなった。
その軽さが、かえって気にかかった。
僕は真実に近づいたから安心したのか。
それとも、自分が安心できる筋書きを一つ選んだだけなのか。
今のところ、区別は付かなかった。
夕方、まいさんが帰ってきた。
今日は八時前だった。
玄関で靴を脱ぎながら、いつもより少し大きな紙袋を持ち直している。
「ただいま、りゅうくん」
「おかえり。何買ってきたの?」
「会社の資料。あと、パン」
「先にパンと言ってくれれば、僕の評価はもっと上がったのに」
「ふふ。りゅうくんは資料よりパンが好きだもんね」
「どちらも読めるならパンを選ぶね」
妻は笑った。
僕は鞄と大きな紙袋を受け取り、台所へ運んだ。ずしりと重い紙袋の口からは、香ばしいパンの袋の横に、黒い表紙の試作ノートのような束や、古い展示記録の封筒、それに裏の角に小さく数字が書かれた写真の束がちらりと覗いていた。
こうして顔を合わせている時間のほうが、あの鏡の向こうで見た時間よりずっと長い。
なのに、僕は最近、短いほうばかり思い出している。
少し申し訳なくなった。
食事のあと、まいさんが僕の書斎を覗いた。
「今日は原稿、進んだ?」
「少し。主人公が、やっと喋った」
「わあ。おめでとう」
「出産みたいに言わないでくれ」
「ふふ。どんなこと言ったの?」
「……相手に、全部知ってただろうって」
言ってから、しまったと思った。
これは原稿の話だ。
今の僕に限って言えば、間違いなく原稿の話である。
けれど、話題の選び方がまずかった気はした。
まいさんは表情を変えずに、椅子に座る僕のすぐ後ろへ歩み寄り、百七十センチの長身を少し屈めて机の上のモニターを覗き込んだ。
肩越しに彼女の柔らかい黒髪がさらりと頬に触れ、部屋着の襟元から漂う甘い体温と吐息がすぐ耳元にかかる。少し首を巡らせば、僕の唇が彼女の首筋や鎖骨に触れてしまいそうな距離だ。もし第一の仮説のとおり、彼女があの日すべてを知っていて鏡の向こうから僕を見ていたのだとしたら、今こうして無防備に身体を密着させて小説の相談に乗っている彼女の余裕そのものが、たまらなく妖艶で、背筋が粟立つほど底知れないものに思えた。
「その主人公、相手が知ってたって、どうやって分かったの?」
「……分かってないよ。そう思っただけ」
「じゃあ、断定しちゃうと、ちょっとずるいかも」
「編集者らしい指摘だね」
「だって、りゅうくんの小説、ちゃんと読みたいんだもん」
妻はいつもの、まっすぐな目で言った。
逃げるように画面へ向き直りかけて、僕はやめた。
「じゃあ、今の一文はどう?」
書き直したほうを見せた。
『僕には、君が全部知っていたように見えた。』
まいさんはそれを読んだ。
すぐには何も言わなかった。耳元で彼女の静かな呼吸の音だけが聞こえ、背中に彼女の胸元の柔らかさがわずかに伝わる。
僕は、彼女がどんな編集意見を返すのか待った。
「……うん。こっちのほうが好き」
「なんで?」
「ちゃんと、主人公の言葉になってるから」
「知ってることだけ書いたほうがいいってこと?」
「ううん。小説なら、知らないことも書いていいと思うよ」
まいさんは、耳元で少しだけ笑った。
「でも、知らないことを、知ってるって決めつけなくてもいいでしょう?」
僕は頷いた。
もっともな意見だった。
もっともすぎて、編集者への反論を思いつかなかった。
「……それじゃ、まいさん」
「ん?」
「もし主人公が、相手にどうしても聞けないことを抱えてたら、どうする?」
「聞けない理由、ちゃんと書いてほしいかな」
「理由か」
「うん。だって、聞きたいのに聞かない人って、何かを守ろうとしてることもあるでしょう?」
守ろうとしている。
そうなのだろうか。
僕が守りたいのは妻との暮らしなのか、自分の見たものなのか、それとも、今のところ妻の真意を知らずにいられる時間そのものなのか。
分からなかった。
でも、不思議と、その分からなさを否定しなくてもいい気がした。
「まいさん」
「なあに?」
「僕の原稿、もう少し進んだら読んでくれる?」
「もちろん。最初の読者にしてくれる?」
「……うん」
「約束ね」
彼女は嬉しそうに笑った。
僕がどんな本を書くのか、今はまだ知らないはずだ。
その約束だけが、今夜はやけに確かなものに思えた。
寝る前、僕はノートを開いた。
三つの仮説。
一つだけ付けた丸。
そこへ、短い注意書きを足す。
『丸を付けた理由と、正しい理由は同じとは限らない。』
読み返して、いかにも作家らしい言い回しだと思った。
役に立つかどうかは怪しい。
けれど消さなかった。
今日の僕には、その程度の曖昧さがちょうどよかった。
「りゅうくん、今日はもう寝る?」
振り向くと、まいさんが入り口に立っていた。
片手には、薄い文庫本がある。
それを見ただけで、心臓が少し速くなる。
妻は最近、仕事帰りに本を持ってくるだけで夫を動揺させる能力を身につけたらしい。
「……また本?」
「うん。続きが気になるかなと思って」
「僕、まだ前の本の答えも出してないんだけど」
「答え、急がなくていいよ」
「それはありがたい」
「でもね」
まいさんは僕の机に、文庫本をそっと置いた。
表紙は伏せてある。
「答えを考えてるとき、自分が何を隠してるのかも、忘れないでね」
僕は妻を見た。
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
「……編集者として?」
「ふふ。どうだろう」
僕も笑った。
自分の笑顔が、どれぐらい自然だったかは分からない。
少なくとも、今夜の僕が何かを隠していることだけは、否定できなかった。
まいさんが寝室へ戻ってから、本を裏返した。
三島由紀夫『仮面の告白』。
なるほど。
次はそこへ来るのか。
今まで、僕は妻が何を隠しているのかばかり考えていた。
しかし『藪の中』で一番信用できなかった証言者は、もしかすると僕自身だったのかもしれない。
僕の頭は三つの仮説を並べて冷静に取り繕っているくせに、僕の身体という証言者だけは、あの日見た妻の姿に昂ぶった事実をどうやっても隠せないでいる。
僕はノートの三つの仮説を、もう一度見た。
その横に、新しく小さな見出しを作る。
『第四の証言者――僕。』
いや、違う。
最初から僕は、証言者だった。
ただ、自分だけは例外だと思っていたのだ。
『蜘蛛の糸』の白い糸が、机の端から細く垂れている。
僕は手を伸ばして、それに触れるのをやめた。
抜かないでね。
あの夜の約束は、まだ続いている。
真相は、相変わらず藪の中だった。
けれど今夜、僕は一つだけ確かになったことがある。
僕はまだ、まいさんに嘘をついている。
そして、まいさんがそれを知っているのかどうか、やっぱり知らない。
その本の意味を、僕はまだ知らない。
どうやら次に読むべきなのは、妻の顔ではなく、自分の顔らしい。
第5話を読んでくださり、ありがとうございます。
答えがひとつに定まらなくても、人は次の朝を迎えなければいけません。
そして、誰かについて考えているつもりが、いつの間にか自分自身を見つめていることもあります。
次回は第6話『仮面の告白』。
龍之介がどんな言葉を選ぶのか、見守ってください。




