第4話 沈黙
『沈黙』という題名を使う以上、ただ登場人物に黙ってもらうだけでは足りないと思いました。
普通に会話できてしまう二人が、たったひとつのことだけを話さない。その不自然さと自然さの両方を書くのに苦労した回です。
何気ない言葉の間も読んでもらえたら嬉しいです。
人間には、黙っていたほうがいいことがある。
あまりに多くの小説がそう教えてくれるので、読書家という人種は沈黙の重要性をよく知っている。少なくとも、知っているつもりになっている。
ただし、ここで問題が一つ。
黙っているべきことと、黙っていられないことは、だいたい同じ顔をしているのだ。
その夜、僕は寝室の天井を見ていた。
隣ではまいさんが眠っている。
規則正しい寝息とともに、柔らかな胸元が静かに上下している。薄い掛け布団から覗く白い左手。その薬指には、昨日の――いや、もう一昨日になるのか――結婚一周年の夜にも見た指輪があった。
昼間、ガラスの向こうでも光っていた指輪だ。
シーツのすぐ下には、僕より長身の彼女の、豊かな腰から太ももにかけての温かい曲線がある。寝返りを打てばすぐに触れられる距離から、石鹸と混じり合ったまいさんの甘い体温が漂ってくる。
昼間、あの背の高い男に抱き寄せられ、広い肩の向こうで唇を重ねていたかもしれない身体が、今は無防備に僕の隣で眠っている。
思い出したくない、と考える。
すると、思い出す。男の背中の布地を掴んだ彼女の指先や、目を伏せたときの艶やかな唇の記憶が、暗い天井に浮かび上がる。
胸の奥がきりきりと痛んでいるはずなのに、下腹部の奥のほうでは、昼間と同じたちの悪い熱がじんわりと疼いていた。触れたいのに指一本伸ばせない。人間の頭と身体というのは、本当に不便にできている。
「……まいさん」
呼びかけてから、自分が声を出したことに驚いた。
返事はない。
寝ているのだから当たり前だ。
もしここで「なあに」と返されたら、僕はいったい何を聞くだろう。
今日、奥の部屋で何をしていたの。
あの人は誰なの。
それとも。
僕が、あそこにいたことを知っていた?
最後の問いだけ、声にしたときのことが想像できなかった。
否定されたら、どうする。
肯定されたら、どうする。
どちらの返事にも、僕には続きが用意できていない。
小説なら台詞を書き直せる。現実の会話には、保存してから前の版に戻す機能がない。
僕は小さく息を吐き、目を閉じた。
昼間のまいさんは、僕の知っている妻だった。
僕の書く小説を褒めてくれた。
見知らぬ男性の前で、売れない夫のことを、少しも恥ずかしがらずに。
そしてそのあと、僕の知らない妻になった。
いや、違う。
僕が知らなかっただけで、あれも最初から彼女だったのかもしれない。
枕元で、まいさんが身じろぎし、シーツが擦れるかすかな音がした。
僕は反射的に寝たふりをした。
どうやら僕は、妻に何かを尋ねる勇気もないくせに、妻から尋ねられるのも怖いらしい。
なかなか面倒な夫である。
翌朝、食卓にはいつもの青と白のマグカップに、コーヒーが二つ並んでいた。
この家では、まいさんが早く起きた日は彼女が淹れる。僕が先に起きた日は僕が淹れる。夫婦の役割分担としては、たいへん民主的だ。
今日、まいさんの白いマグカップの横には、一冊の文庫本が置いてあった。
遠藤周作『沈黙』。
なるほど。
そこへ来たか。
「りゅうくん、トースト焦げてない?」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとって、どのくらい?」
「小説でいうと、主人公が助かるかどうか際どいくらい」
「それ、もう食べられないんじゃない?」
「まだ希望はある」
まいさんは皿を覗き込み、笑った。
黒くなったパンの端を切り落とし、代わりにジャムを出してくれる。
ありがたい。今朝の僕にはパン一枚を救済する能力も欠けていた。
「その本、仕事の?」
努めて普通に尋ねた。
妻が『沈黙』を置いた意味など、題名を見ただけでは分からない。
出版社の編集者が本を食卓に持ってきても、何ら不思議はない。むしろ普通だ。
僕が一冊の文庫本に対していちいち動揺するほうが、家庭内の異常事態に近い。
「ううん。りゅうくんに」
「……僕に?」
「昨日、まだうまく言えないって言ってたでしょう」
僕のフォークが止まった。
昨日の夜、書斎で「面白かった?」と聞かれたとき、確かにそう答えた。
僕が何を指して言ったのか、本人でさえ分かっていなかった答えだ。
「だから、急がなくてもいいかなと思って」
「感想を?」
「うん。感想も、続きも」
まいさんは自分のトーストにバターを塗った。
いつもより厚く塗っているように見えたが、それが暗号なら、この家の食卓はすでに解読不能である。
「『沈黙』って、ずいぶん重い宿題だね」
「読んだことある?」
「あるよ。これでも一応、小説家だから」
「一応、なの?」
「出版社が認めてくれるまでは、もう少し控えめに名乗ろうかと」
「わたしは、りゅうくんの小説、好きだけどな」
その言葉は昨日と同じ意味だった。
少なくとも、僕にはそう聞こえた。
だから困る。
僕はまいさんのこういうところが好きなのだ。
好きだという気持ちが、昨日見たものを消してくれるわけではない。それでも消えない。
「それにね」
妻が続けた。
「本って、全部説明してくれるわけじゃないでしょう?」
「まあ、そうだね」
「書いてないところを、読む人が考えることもあるよね」
「ある。だけど、書かれてないことは何でも好きに考えていいってわけでもない」
「うん。そう思う」
まいさんは、そこで話を終えた。
僕も続けなかった。
その先へ進むと、僕らは突然、本の話ではない何かを始めてしまいそうだった。
まいさんを仕事へ送り出してから、僕は『沈黙』を机に持ってきた。
『蜘蛛の糸』、『鍵』、『鏡の国のアリス』。
そこへ四冊目が加わる。
売れない小説家の机に、名作ばかりが四冊。
これを見た他人は、僕がたいへんな勉強家だと思うかもしれない。
実際には、妻の選書について頭を悩ませているだけの男である。
実に情けない文学活動だ。
遠藤周作の『沈黙』は、信じているものが答えてくれないことや、言葉にできない選択の重さを描く作品だ。
そんな小説を、今朝の僕に渡す。
単なる偶然なのか。
昨夜、僕が眠れなかったことを見抜いていたのか。
それとも――。
「……いや、考えすぎだろ」
声にしてみる。
言った途端、考えすぎではない理由がいくつも浮かんだ。
普通の小説家なら、こういう状況を物語にしたくなるのだろう。
残念ながら、普通の小説家という肩書きは今の僕に荷が重い。
読み返そうと本を開き、数ページで閉じた。
内容が難しいからではない。
何を読んでも、自分のことに引き寄せてしまうからだ。
原作の主人公が足元に置かれた踏み絵を見つめる場面が、そのまま昨日のあの小部屋の情景に重なってしまう。
妻を疑うこと。あるいは、妻が別の男に抱かれる姿にもう一度目を向けたいと願ってしまうこと。それは僕にとって、これまでの平穏な結婚生活に対する踏み絵のようなものだった。
足をかければ間違いなく胸が痛む。それなのに、自分の中のどこか暗い場所――あるいは鏡の向こうでこちらを見たかもしれない妻の微笑み――が、『踏むがいい』と静かに囁いて許してしまっているような錯覚を覚えるのだ。
こんな読み方では、作品に失礼だろう。
僕は本を伏せ、パソコンに向き直った。
書きかけの小説は、まだ主人公が扉の取っ手に手を掛けたままだった。
先へ進めないのは、主人公ではなく作者の都合である。
昨日、そのことを痛いほど知った。
僕は新しい行を書いた。
『彼は扉を開けた。そこには、誰もいなかった。』
違う。
消す。
『彼は扉を開けた。そこには、会いたくなかった人がいた。』
これも違う。
消す。
『彼は扉を開けた。そこには、彼がまだ知らない自分がいた。』
今度は、すぐに消せなかった。
気障すぎる。新人賞の選考委員なら、たぶん赤ペンを入れる。
でも、昨日の僕に一番近いのは、この一文だった。
妻の秘密を見に行ったはずが、いちばん理解できなかったのは自分自身だ。
僕は文章の下に、メモを残した。
『主人公はなぜ何も言わなかったのか。』
しばらく眺めてから、答えを書き足す。
『何を言えばいいのか分からなかったから。』
事実としては正しい。
けれど、理由としては不十分だった。
僕はもう一行、書いた。
『もし相手に答えられたら、今の自分が変わってしまうと思ったから。』
その瞬間、なぜか少し腹が立った。
ずいぶん身勝手な主人公だ。
自分から扉を開けておいて、答えが返ってくるのを怖がっている。
「……誰に似たんだか」
原稿の主人公は、今日も沈黙していた。
作者としては、ぜひそのまま黙っていてほしい。
午後、まいさんから短い連絡があった。
『今日は少し遅くなるよ。夕飯、先に食べててね』
いつもの連絡だ。
仕事が忙しい日は珍しくない。
昨日のように、人を連れて帰るという話もない。
それなのに、文面を三回読み返した。
『少し遅くなる』。
この文章に、裏の意味があると考えるべきだろうか。
本当に会社の仕事なのか。それとも、昨日のあの背の高い男か、あるいは僕の知らない誰かと、どこかで会っているのか。
そんな邪推が頭をよぎった瞬間、みぞおちのあたりが冷たくなり、同時に喉の奥が渇いた。
そんなことを考え始めたら、妻の「牛乳買ってきて」まで暗号になる。
牛乳を買い忘れた理由を説明するのに、僕はたぶん長編一本ぶんの言い訳が必要になるだろう。
僕はスマートフォンを置いた。
返事を打つ。
『了解。お疲れさま。無理しないでね』
送信した。
すぐに既読が付いた。
『ありがとう。りゅうくんも原稿がんばってね』
それを見たら、僕の中の疑り深い何かが、少しだけ肩を落とした。
まいさんは普通に働いている。
僕も普通に原稿を書いている。
この当たり前の一日が、昨日の出来事と矛盾するわけではない。
矛盾しないからこそ、落ち着かない。
僕は席を立ち、廊下に出た。
書斎の奥には、例の扉がある。
銀色の鍵は、机の引き出しにしまったままだ。
鍵を持ってくることも、扉の前に立つこともできる。
誰にも止められない。
でも、僕は途中で足を止めた。
昨日、あの部屋で見たことには、まだ名前が付いていない。
僕が勝手に決めつけるには、知らないことが多すぎる。
少なくとも、もう一度あそこへ行けば分かる、という気はしなかった。
鏡の向こうに何かが映ったとして、それで妻の気持ちまで見えるわけではない。
そして、もう一つ気になっている。
昨日、薄い封筒を持って現れたあの男性は、あの鏡の存在を知っていたのだろうか。
小部屋の棚の隅には、明るさと双方の了承を注意するまいさんの付箋が貼られていた。
もし彼が鏡のことを知っていて、そのうえで部屋に入ったのだとしたら。いや、もし知らなかったとしたら。
いずれにしても、僕が暗いこちら側に立つことは、僕と妻だけの問題ではない。
それを考えると、ただ続きを見たいからという理由では動けなかった。
僕は引き返した。
臆病だからかもしれない。
でも、今の自分にはそれ以外の選び方ができなかった。
まいさんが帰宅したのは、夜九時を少し回った頃だった。
僕は台所でスープを温め直していた。
昨日と似たような献立なのは、僕の料理の引き出しが、妻の本棚よりはるかに少ないためである。
「ただいま、りゅうくん」
「おかえり、まいさん。遅かったね」
「うん。校正が長引いちゃって」
「お疲れさま。スープあるよ」
「ありがとう。今日も作ってくれたんだ」
「僕にもできることはあるから」
「知ってるよ」
その三文字が、妙に耳に残った。
知ってるよ。
妻は僕の料理の腕前を知っている。
僕の原稿が進んでいないことも、気分が顔に出やすいことも、たぶん知っている。
それ以外に、どれほどのことを知っているのだろう。
まいさんはスープを口に運び、ようやくほっとした顔になった。
温かい湯気の向こうで、銀色のスプーンが彼女の艶やかな唇に触れる。
それを見た瞬間、昨日の鏡の向こうで、男の肩の陰から現れたときの濡れたような唇と、伏せられた長い睫毛が脳裏に蘇った。
僕は目を逸らすようにして彼女の手元を見た。白い指先には、うっすらと赤ペンのインクの跡が残っている。昼間の彼女が確かに編集者として原稿に向かっていた証拠だ。その仕事着の日常と、昨日の女としての生々しさが同じ身体に同居していることに、僕はまた少し眩暈を覚えた。
向かいに座り、温め直したパンをかじる。
食卓には時計の音と、スプーンが器に触れる音がした。
こういう時間なら、僕はずっと知っている。
「今日の本、どうだった?」
彼女が尋ねた。
僕は身構えなかった。
そうしようと決めていたわけではない。ただ、もう何度も同じ質問をされているうちに、少し慣れてしまったのだろう。
「難しかったよ」
「そうだよね」
「読んでると、何か答えが出る気がする。でも、読めば読むほど自分が何を聞きたいのか分からなくなる」
「……うん」
「話さないって、いろんな意味があるんだなって思った」
まいさんはスプーンを置いた。
「例えば?」
「相手を困らせたくないとか。まだ自分で考えたいとか。……聞いたら取り返しがつかなくなりそうで、怖いとか」
最後の一つだけ、言ってから後悔した。
僕はどこまで本の感想を話しているのだろう。
妻はどこまで本の感想として聞いているのだろう。
その境目が曖昧なまま、数秒が過ぎた。
「りゅうくん」
「ん?」
「わたし、沈黙って、いつも悪いことだとは思わないな」
「……そう?」
「うん。考える時間が欲しいこともあるでしょう」
まいさんはそこで、少しだけ言いにくそうな顔をした。
僕はその表情を初めて見た気がした。
もちろん本当に初めてかどうかは分からない。
結婚して一年。僕は妻の顔を、いったい何回見てきただろう。
全部覚えているわけではない。
「でもね」
彼女が続けた。
「何も言わないまま、相手の気持ちを決めつけちゃうのは、ちょっと違うと思う」
心臓が、ひとつ大きく鳴った。
僕はそれを隠すように、コップに手を伸ばす。
「……編集者の意見?」
「ふふ。どうだろう」
「職業病ってことにしておくよ」
「それでもいいよ」
そのあと、まいさんは僕の顔を覗き込んだ。
昨日の鏡のことを思い出し、僕は一瞬だけ息を止めた。
「ねえ。りゅうくんは、今、続きを読みたい?」
ただの読書の質問だ。
ただの読書の質問であるはずだ。
「……読みたい気持ちはある」
「うん」
「でも、少し考えたい」
まいさんは、静かに頷いた。
「じゃあ、今はそれでいいと思う」
安堵した。
何に対して安堵したのか、説明できなかった。
彼女に何かを許されたからではない。
自分の答えが、ちゃんと自分の答えとして受け取られた気がしたからだ。
僕らはその後、仕事の話をした。
まいさんは新人作家の原稿に、同じ形容詞が八回も出てきたと笑った。七回までは我慢して数えたけれど、八回目が出てきたところで赤ペンを入れたのだという。
僕は自分の小説に、扉の前で立ち止まる主人公がいると打ち明けた。
「それ、りゅうくんに似てるね」
「作者に似せた覚えはないんだけど」
「ふふ。主人公って、案外そういうものかも」
妻が笑う。
僕も笑う。
その笑い声が、昨日と同じ家の中に響いた。
それを聞いているうちに、僕は少しだけ、自分の呼吸が普通に戻ったことに気づいた。
食器を片づけて、寝る支度を済ませたあと。
僕は書斎で、今日の原稿を読み返していた。
扉を開けた主人公は、まだ何も言っていない。
けれど以前と違って、その沈黙には理由があった。
相手の答えを恐れている。
それでも、いつかは聞かなければならないことがある。
僕はそのことを、ようやく一行にできた。
机の上には四冊の本が並んでいる。
僕は『沈黙』を手に取り、最後まで読んでいないページへ目を落とした。
しおりは、まだない。
妻から贈られた白い糸のしおりも、僕が贈った革のしおりも、それぞれ別の本に挟まっている。
こんなときだけ、二人でしおりを贈り合ったことに、少し意味があるような気がした。
「りゅうくん、これ、ここに置いておくね」
振り向くと、まいさんが一冊の薄い本を持っていた。
僕の机の端へ、そっと置く。
「また新しいの?」
「ううん。前に読んだって言ってたから」
「……どれ?」
「ふふ。自分で見て」
彼女はそのまま寝室へ戻った。
僕は本の背表紙を確かめた。
芥川龍之介『藪の中』。
同じ名前の作家が、また現れた。
これはもう偶然で片づけるには、少し集まりがよすぎる。
僕は小さく笑った。
芥川先生には申し訳ないが、今夜の僕に必要なのは読書感想文ではない気がする。
昼間、僕は原稿に三つの書き出しを作って、二つ消した。
あの鏡の向こうの出来事にも、いくつかの説明を付けられるだろう。
まいさんが最初から僕を待っていた、という説明。
まいさんは僕が来ることを知らなかった、という説明。
あるいは、もっと別の説明。
どれが正しいのかは分からない。
そもそも、正しい説明が一つだけだとも限らない。
僕は『藪の中』の表紙を伏せず、机の真ん中に置いた。
そして、隣の『沈黙』を閉じる。
聞きたいことはある。
今は、まだ聞かない。
でも、いつか聞くときには、自分の考えだけを答えにするのはやめよう。
寝室から、まいさんの声がした。
「りゅうくん、おやすみ」
「……おやすみ、まいさん」
たったそれだけの会話が、今夜は妙に難しかった。
そして、不思議なことに、少しだけ嬉しかった。
妻が黙っている理由を、僕は知らない。
僕が黙っている理由だって、きっと妻は知らない。
だからといって、そこに何もないわけではない。
四冊目の本を閉じたあと、五冊目の表紙が、ずっとこちらを向いていた。
その本の意味を、僕はまだ知らない。
最後までありがとうございます。
言わなかった言葉は、なかったことになるのでしょうか。
今の龍之介には、答えを急ぐよりも、いくつもの可能性を考える時間が必要なのかもしれません。
次回は第5話『藪の中』。
一つの出来事を、いくつの物語として読むことができるでしょう。




