第3話 鏡の国のアリス
今回いちばん難しかったのは、龍之介が「実際に見たこと」と、そこから「想像してしまうこと」を混ぜずに描くことでした。
同じ光景を見ても、受け取り方は人によって違う。そんな怖さを、鏡という題材に重ねています。
どうぞ最後までお付き合いください。
鏡というものは、案外、信用できない。
こちらが右手を上げれば、向こうの自分は左手を上げる。いや、正確には左右が逆になっているわけではない、と説明する人もいる。前後の問題だとか、座標の取り方だとか。
僕はその手の説明を読むたびに、たいそう勉強になった顔をする。そして五分後には忘れる。
売れない小説家に必要なのは、世界の仕組みを完全に理解することではない。よく分かっていない世界を、さも分かっているように書く技術だ。
胸を張って言える話ではないが、僕の持ち合わせている技術の中では比較的上等な部類に入る。
そんな僕の机の引き出しには、今、小さな銀色の鍵が入っている。
昨夜、まいさんから渡されたものだ。
鍵は、書斎の奥の小部屋の扉を開けた。そこには椅子が一脚と、窓のない壁を覆うカーテン、そしてルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』があった。
僕はカーテンに触れずに引き返した。
正しい判断だった、と今でも思っている。
思っているのだが、正しい判断というやつは、必ずしも人をよく眠らせてくれるわけではない。
「りゅうくん、卵いる?」
食卓から顔を上げると、まいさんがフライパンを持っていた。
こういうとき、妻はちゃんといつもの妻だ。黒い髪を後ろで結んで、僕の皿には半熟の目玉焼きを乗せ、自分の分にはきっちり火を通す。
テーブルの上には、いつもの青と白のマグカップが二つ並んで湯気を立てている。
僕らは結婚して一年の夫婦である。好みが分かれているのは卵の焼き加減ぐらいで、ほかは概ねうまくやっている。少なくとも、僕はそう思っていた。
「いる。できれば二つ」
「昨日も二つだったよ」
「昨日の僕は正しかった」
「じゃあ今日も正しくしてあげる」
まいさんは笑った。
僕も笑った。
あの小部屋のことを話す機会なら、いくらでもあった。
昨日の鍵、ちゃんと合ったよ。あのカーテン、何なの。あの本は次の宿題なのか。
どれも普通の質問だ。夫婦の会話として、法に触れるようなところは何もない。
ただ、一つ聞くと、残りも全部聞かなくてはならない気がした。
僕は卵に醤油をかけた。
まいさんはそれを見て、ほんの少し眉を上げた。
「今日は塩じゃないんだ」
「昨日から、ちょっと冒険してみようと思って」
「へえ。りゅうくんにしては珍しいね」
「卵ごときで冒険家扱いされる人生もどうかと思うけど」
「小さな冒険から始めるの、大事だよ」
そう言って、まいさんは僕の向かいに座り、白いマグカップに口をつけた。
彼女が何を意味しているのか、僕には分からない。
たぶん、目玉焼きの話だ。
そうであってほしい気持ちと、そうでなかったら面白いという気持ちが、同じ皿の上で向かい合っていた。
午後、僕は原稿を二ページ進めた。
やればできるのだ。少なくとも、宇宙人が玄関に来るより先に僕の作品が完成する可能性は、わずかに上がった。
問題は、三ページ目の途中で登場人物が扉を開けようとしたことである。
犯人はまだ決めていない。動機もろくに考えていない。扉の向こうに何があるかなど、作者である僕自身が知らない。
それでも主人公は、勇ましく取っ手に手をかけてしまった。
「……お前はいいよな。作者を信用できて」
パソコンの画面に向かって愚痴を言った。
返事があったら、それはそれで困る。
僕は保存をして、椅子の背にもたれた。
机の端には、白い糸の付いた『蜘蛛の糸』と、革のしおりの挟まった『鍵』。
昨日まで、この二冊の役目は別々だと思っていた。
一冊目は妻からの記念日の贈り物。二冊目は、その続きらしい妙な遊び。
でも、鍵を開けた先にも本があった。
つまり妻は、本を使って本を紹介しているわけではない。
本で、何か別のものを案内している。
そのことを考えると、あのカーテンの形がどうしても頭に浮かんだ。
天井の近くから床まで垂れた厚い布。
椅子が一脚。
窓のない壁。
そして『鏡の国のアリス』。
鏡の国では、こちらの常識がそのまま通用するとは限らない。
そういう話だ、と僕は覚えている。
なら、今の僕にとっての常識とは何だろう。
妻は僕を愛している。僕も妻を愛している。
僕らは、互いのことをよく知っている。
最後の一つだけ、少し怪しかった。
携帯電話が震えた。
まいさんからだった。
『今日、少し早く帰るね。仕事の相談で人を一人連れていくから、奥の部屋を使わせてね。りゅうくんは原稿に集中してて大丈夫だよ』
なるほど。
出版社の企画編集者は、帰宅しても編集者だったらしい。
仕事の資料を持ち帰ることは珍しくないが、人を家に連れてくるのは久しぶりだ。
奥の部屋。
僕はその四文字を見て、画面を閉じた。
仕事相手が来るのなら、なおさら小部屋には近づかないほうがいい。
そう考えるのが常識的な夫だろう。
僕は常識的な夫になろうとした。
少なくとも、十五分ぐらいは。
銀色の鍵は、昨日と同じところにあった。
僕はそれを手に取り、書斎の奥へ歩いた。
誰かの仕事を盗み見るつもりはなかった。
あの布が何を隠しているのか、確かめたいだけだ。
この二つの行動の間に明確な線を引ける人がいたら、ぜひ僕の代わりに小説を書いてほしい。
鍵を回す。
乾いた、短い音。
昨日はそれだけで胸が騒いだのに、今日は少しだけ慣れていた。
人間は恐ろしい。二度目というだけで、ずいぶん大胆になれる。
部屋に入ると、机の上には『鏡の国のアリス』が昨日と同じ位置に置かれていた。
背の低い棚。筆記具。椅子が一脚。
ふと見ると、棚の隅に古びた小さな注意書きの紙と、見覚えのある丸みを帯びた字の付箋が貼られていた。
『観察面保護および光量調整のため、遮光布を扱う際は室内の照明を落とすこと』
その横に、まいさんの字で小さく、明るさと了承についての控えめなメモが添えてある。
僕は無意識のうちに、小部屋の照明スイッチに手を伸ばし、明かりを落とした。
薄暗がりの中、机の上の『鏡の国のアリス』を何気なく開く。
目に留まったのは、反転した鏡文字で印刷された『ジャバウォックの詩』のページだった。
そのままでは読めない、鏡に映して初めて意味を結ぶ言葉。
カーテンも同じように、ただそこに垂れている。
違うのは、僕がその手前で立ち止まらなかったことだけだった。
手を伸ばす。
布に触れた指先へ、少しひんやりした感触が伝わった。
ごく普通の、厚手の遮光カーテンだ。
重たくもなければ、何か仕掛けが埋め込まれている気配もない。
その普通さが、かえって嫌だった。
僕は端をつまみ、数センチだけ横へ引いた。
黒い面が現れた。
壁、ではなかった。
ガラスだ。
薄暗い室内にあって、鏡のように僕自身が映っている。
片目を細めた、二十三歳の売れない小説家。期待と疑いを混ぜたような顔をしている。
見苦しいので、なるべく長く見たくない種類の表情だった。
「……鏡?」
僕が息をかけると、そこに白い曇りが生まれた。
当たり前だ。鏡とはそういうものだ。
では、なぜ窓のない壁に鏡があるのか。
しかも、どうしてカーテンで覆われている。
さらに布を引いた。
ガラスの向こうに、細い光の筋が現れた。
反射した僕の顔の奥に、別の輪郭が浮かんでいる。
机。棚。少し広めの仕事部屋。見慣れたスタンドライト。
顔を近づけると、向こうの景色がはっきりしてきた。
これはただの鏡じゃない。
こちらが暗く、向こう側が明るいときだけ、向こうの様子が透けて見える仕組みなのだろう。
説明としては単純だ。
理解した途端、何もかもが単純でなくなった。
僕は振り返った。
背後には椅子が一脚。
あの椅子は、なぜここにある。
何を見るための椅子だ。
自分で答えを考えかけて、やめた。
窓のない壁に窓があったことを、まずは認めなくてはならない。
それだけでも、今日の僕には十分すぎる発見だ。
廊下の遠くで、玄関の扉が閉まる音がした。
僕は反射的に肩をすくめた。
続いて、まいさんの声。
それに重なる、低い男の声。
玄関から奥の部屋へ向かう足音が二人分、ゆっくり近づいてくる。
今なら布を戻せる。
鍵を閉め、書斎の原稿へ戻ることもできる。
そうすれば僕は、鏡を見つけただけの夫でいられる。
けれど僕の手は、布の端を離さなかった。
ガラスの向こうの部屋に、まいさんが入ってきた。
いつもの仕事鞄を肩から下ろし、机の端に置く。
その後ろから男性が一人、姿を現した。
三十歳前後だろうか。百六十センチの僕よりずっと背が高く、百七十センチあるまいさんと並んでもさらに頭一つ分ほど高い。濃い色の上着を着て、手には薄い封筒を持っている。
見覚えはない。
まいさんの出版社の人か、それとも仕事で知り合った誰かなのか。
その程度のことさえ、僕には分からなかった。
「ここでよかった?」
男が尋ねた。
「うん。ここが落ち着くと思って」
まいさんが答えた。
声は、ごく自然だった。
会社から戻った妻が仕事相手に話す、ごく普通の口調。
僕はなぜか、それに安心した。
男は薄い封筒を机に置き、部屋を見回した。封筒の口から、展示のレイアウト図や校正刷りのような紙の端がわずかに覗いている。
「本が多いね」
「夫が小説を書くから」
「ああ、そうだったね」
「まだ売れてないけど、文章はすごくいいんだよ」
僕は思わず口を結んだ。
本人が見ていないと思っている場所で、妻が自分の小説を褒めている。
普通なら、これほど嬉しい盗み聞きはない。
少なくとも、この瞬間だけは。
男が笑った。
「君がそこまで言うなら、読んでみたいな」
「ふふ。本人に言ってあげて。照れると思うけど」
よく分かっている。
僕なら間違いなく照れる。
できれば今すぐ鏡に向かって抗議したい。まいさん、そんな話を知らない人にしないでくれ、と。
ところが、僕は声を出せなかった。
人に見つかりたくない場所にいるから、という理由だけではない。
男が、まいさんの手にそっと触れた。
彼女は手を引かなかった。
その事実を理解するまで、短い時間が必要だった。
仕事の話なら、手を触れ合わせる理由がない。
何かの確認かもしれない。冗談かもしれない。僕が見ている角度のせいで、そう見えるだけかもしれない。
言い訳なら、書こうと思えば何通りでも書けた。
僕の職業は小説家である。
事実から目を逸らすための筋書きぐらい、即席で用意できる。
「……本当に、いいの?」
男の声が、先ほどより低くなった。
まいさんは少し考えるように長い睫毛を伏せ、それからゆっくりと頷いた。
「うん。わたしが、そうしたいから」
白い指先が、男の指と重なる。
男が一歩近づく。
まいさんも、その距離を縮めた。
普段は僕を見下ろすことの多い長身の妻が、自分よりさらに背の高い男の前で、わずかに顎を上げて見上げている。タイトなスカートの布地が、彼女の豊かな腰から太ももにかけての柔らかな曲線をなぞるように張りつめていた。
次の瞬間、二人は抱き合った。
僕は目を見開いた。
鏡の中の僕も、同じ顔をしていたのだろうか。
それを確かめる余裕はなかった。
男の腕がまいさんの背中に回り、引き寄せられた彼女の身体が小さくしなる。
男が彼女の頬に手を添え、まいさんが顔を上げた。
二人の顔が近づく。
その瞬間、男の広い肩が僕の視界を横切った。
一番肝心なところが、見えない。
ただ、男の背中に回されたまいさんの白い指先が、上着の布地をぎゅっと掴んで深い皺を寄せるのだけが見えた。
ガラス越しにかすかな衣擦れの音が届き、閉ざされた部屋の空気が甘く揺れた気がした。
一秒か、二秒か、あるいはもっと長かったのか。
次に見えたとき、まいさんは熱を帯びたように目を伏せていた。
何が起きたのか、僕には正確には分からなかった。
けれど彼女の唇はわずかに濡れて艶めいて見え、耳たぶから白い首筋にかけて、見慣れない淡い朱色が差していた。そして彼女は、男の腕の中から離れなかった。
僕は息を吸うのを忘れていた。
何か言わなくては、と思った。
いや、そもそも僕がここで何かを言うのはおかしい。
飛び出して問いただすべきなのか。扉を閉めて、何も見なかったことにするべきなのか。
頭の中で意見が割れた。
売れない小説家の脳内会議は、いつだって結論が遅い。
ただ、誰も予想していなかった議題が、その会議に割り込んできた。
僕は、目を逸らせない。
妻がほかの男と抱き合っている。
その事実が胸に刺さっているのに、胸の奥のずっと深い場所では、どくりと別の熱が生まれていた。
痛いのか、怖いのか、それとも興奮しているのか。
自分の感情に名前を付けようとして、どの言葉も決定打にならなかった。
まるで鏡の国のチェス盤の上で、自分の番が来ないまま立ち尽くしている歩の駒だった。
相手の男が、まいさんの左手を取った。
薬指に小さな指輪が光る。
結婚一周年の昨日も、彼女はそれを着けていた。
見慣れたものだった。
あの指輪をしているのは、間違いなく僕の妻だ。
それなのに僕は、まるで初めて見る女を見るように彼女を見ていた。
まいさんがふっと笑った。
仕事から帰ったときに見せる笑顔とも、僕のくだらない冗談を聞くときの笑顔とも、少し違って見えた。少しだけ無防備で、ひどく艶やかだった。
その違いに僕が気づいたのか、違いがあると思いたかっただけなのかは分からない。
僕はカーテンの端を握り直した。
布がかすかに擦れる音を立てた。
その瞬間。
まいさんが顔を上げた。
こちらを、見た気がした。
正確には、鏡のある壁へ視線を向けただけかもしれない。
男の肩越しに、潤んだ瞳がたまたまこちらを通り過ぎたのかもしれない。
ガラスの向こうから暗いこちら側が見えるはずはない――そう信じたい気持ちが先に立った。
でも彼女の目が一瞬だけ止まったことを、僕は見逃さなかった。
まいさんは何も言わず、男へ向き直った。
男も、こちらには気づいていない様子だった。
それ以上は、もう見ていられなかった。
僕は静かに布を戻した。
最後の細い光が消えるまで、妙に時間がかかった。
目の前には、ただの厚いカーテン。
その向こうには、今も同じ部屋がある。
僕が見ていようといまいと、きっとある。
椅子に腰を下ろした。
膝の上で、汗ばんだ両手を握った。
何も見えていないはずなのに、僕の頭の中ではさっきの光景――男の背中を掴んだ彼女の指先や、見えなかった数秒の空白が、何度も生々しく繰り返された。
止めたかった。
忘れたかった。
それなのに、もう一度あの布を引きたがっている自分がいた。
僕はようやく、そのことが一番怖いのだと気づいた。
どれぐらい時間が経ったのだろう。
時計を見ていないので分からない。
廊下の向こうで、玄関が閉まる音がした。
男が帰ったのかもしれない。
続いて、食器の触れ合う音が聞こえた。
まいさんが台所にいるのだろう。
僕の知っている生活の音だった。
だから余計に、現実感がなかった。
僕は椅子から立ち、照明を元の状態に戻して部屋を出た。
鍵をかける。
手の中の銀色の鍵は、朝と変わらず冷たかった。
いくつもの意味を知ってしまった今も、見た目は何一つ変わらない。
書斎の机へ戻ると、パソコンは午前中に書いたままの画面を表示していた。
主人公が扉の取っ手に手をかけた場面で止まっている。
僕は椅子に座り、キーボードへ指を伸ばした。
登場人物なら、自分が見たものに名前を与えられる。
不倫、裏切り、秘密、誤解。
どれか一つに決めてしまえば、話は次へ進む。
けれど現実の妻は、小説の登場人物よりずっと厄介だ。
愛しているという事実と、理解できないという事実が、同時に成立してしまう。
「りゅうくん?」
僕は肩を跳ねさせた。
まいさんが書斎の入り口に立っていた。
鞄はもうなく、柔らかい部屋着に着替えている。
「ただいま。声かけたけど聞こえなかった?」
「ああ……ごめん。集中してて」
「ふふ。珍しいね」
「そこは否定してくれよ」
普段なら、もう少し上手に返せたと思う。
鏡の国の赤の女王が言った通りだ。同じ場所にとどまるためには、全力で走り続けなくてはならない。今の僕は、普通の夫の顔にとどまるだけで息が切れそうだった。
でも彼女は、僕のぎこちなさを指摘しなかった。
「ご飯、どうしようか。仕事の人、さっき帰ったよ」
「……そっか」
「遅くなってごめんね」
「いや、いいよ。僕も原稿、進めたかったし」
進めたかった、という過去形が何だか情けなかった。
まいさんは僕の机へ目を向けた。
『蜘蛛の糸』と『鍵』が並んでいる。
僕は、その間に置かれた何もない場所を見つめた。
「今日は、何か読んだ?」
彼女が尋ねた。
「……少しだけ」
「面白かった?」
「まだ、うまく言えない」
「そっか」
まいさんは僕の背もたれに軽く触れた。
それは毎日のようにする、何でもない仕草だった。
僕はその手を見上げた。
左手の薬指には、指輪があった。
この手がさっき、あの男の背中に回されていたのだと考えると、喉の奥が妙に渇いた。
「無理して続きを読まなくてもいいからね」
僕は黙った。
言葉の意味を確かめたかった。
けれど、何の続きを指しているのかと聞けば、僕が何を読んだのかを説明しなくてはならない。
「……うん。分かってる」
僕はそう答えた。
本当は、何一つ分かっていない。
まいさんは微笑んだ。
その笑顔が、さっき鏡越しに見たものと同じなのか違うのか、もう判断できなかった。
夜、まいさんが風呂に入っている間に、僕は『鏡の国のアリス』を机へ持ってきた。
小部屋に戻って、カーテンには触れず、本だけを取った。
書斎の机には三冊が並んだ。
『蜘蛛の糸』。
『鍵』。
『鏡の国のアリス』。
小説家なら、この三冊から一つの物語を組み立てられるはずだ。
糸があり、鍵があり、鏡がある。
どれも、どこかへ行くための道具に見える。
けれど、どこへ行けばいいのかは分からない。
僕は窓に映る自分の顔を見た。
昨日までと同じ顔だ。
妻を愛していることも変わらない。
なのに、自分の中に知らない部分があると気づいてしまった。
どうすればいい。
見なかったことにするか。
まいさんに全部聞くか。
もう一度、あの部屋へ行くか。
どの選択肢にも、正解の印は付いていなかった。
背後で、小さく扉が開いた。
「りゅうくん、まだ起きてたんだ」
振り向くと、まいさんが立っていた。
湯上がりの湿った黒髪をタオルで拭いている。石鹸の混じった温かい湯気の匂いが書斎にふわりと漂い、緩い部屋着の襟元から、ほんのり上気した白い鎖骨とうなじが覗いていた。
昼間、あの男の指先が触れ、男の肩の向こうに隠れていた場所だ。
そう思った途端、僕の視線は彼女の首筋から唇へと吸い寄せられ、思わず小さく喉が鳴った。
僕の机の三冊を見て、彼女が何か言うかと思った。
けれど彼女は、ただ尋ねた。
「しおり、抜いてない?」
僕は『蜘蛛の糸』の白い糸を確かめた。
「……うん。抜いてない」
「よかった」
まいさんは嬉しそうに笑った。
そして、僕が聞き返すより先に寝室へ戻っていった。
僕はしばらく白い糸を見つめた。
妻は、僕が何を見たのか知っているのだろうか。
あの一瞬、鏡の向こうからこちらを見たのだろうか。
それとも全部、僕の思い込みなのか。
答えはない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
僕は今日、妻の知らない姿を見た。
そして同じくらい確かに、妻の知らない僕自身を見た。
鏡というものは、案外、信用できない。
けれどあの鏡は、僕がこれまで見たどんな鏡よりも、正直だったのかもしれない。
その本の意味を、僕はまだ知らない。
知らないままでいられるかどうかも、分からない。
第3話を読んでいただき、ありがとうございました。
目に映ったものがすべてなのか。それとも、見えなかった部分にこそ答えがあるのか。
龍之介には、まだ整理できないことがたくさんあるようです。
次回は第4話『沈黙』。
言葉にしないという選択も、ひとつの物語になると思っています。




