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第2話 鍵

第2話で悩んだのは、「鍵を開ける」という小さな行動を、どこまで大きな出来事として感じてもらえるかでした。

怖いのは鍵そのものではなく、開けたあとに何を知ってしまうのか、ということだと思います。

夫婦の朝の会話も大切にしながら書きました。


今回もよろしくお願いします。


結婚記念日の翌朝、僕は二冊の本を前にしていた。


一冊は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』。もう一冊は、僕自身の書きかけの小説である。


正確に言うと、後者はパソコンの画面に映っているだけなので、冊と数えるのは気が早い。そもそも完成するかどうかも怪しい。僕の作品が本として世に出る日と、宇宙人が我が家の玄関に現れる日とでは、現時点で大した確率の差はない気がする。


少なくとも宇宙人なら、玄関のチャイムぐらいは鳴らしてくれるだろう。


『蜘蛛の糸』は昨夜のまま、机の端に置いてあった。


最後の白紙に挟まれた紙のしおり。その先から垂れた、細い白い糸。


まいさんは「抜かないでね」と言った。


だから僕は抜いていない。


別に律儀だからではない。妻が何を考えているのか知りたいだけだ。そう自分に言い聞かせて、朝から三回も糸を確かめている時点で、説得力はたぶんゼロに近い。


「りゅうくん、コーヒー淹れたよ」


台所から声がした。


顔を上げると、まいさんがいつもの青と白のマグカップを二つ持って立っていた。青いほうが僕で、白いほうがまいさんだ。昨日の記念日とは違って、今日はいつもの仕事着を着ている。黒い髪を後ろで軽くまとめ、百七十センチの長身にタイトなスカートがよく似合っていた。


小さな出版社の企画編集者は、土日や祝日でも締め切り次第で出勤することがある。職業柄、他人の文章を待つ仕事だ。そして僕は、文章を待たせる側の人間だった。


「今日、早いんだね」


「企画の打ち合わせがあるの。夕方には帰るよ」


「了解。晩ご飯は僕が何とかする」


「『何とかする』っていうのが少し不安だなあ」


「大丈夫。火と水の違いは分かる」


「それは頼もしいね」


からかっているのか本気なのか、判断の難しい笑顔だった。


でも、その笑顔を見ると僕は安心する。昨日、意味の分からない質問を何度もされて、少し落ち着かない気持ちのまま眠ったはずなのに。


結婚して一年。朝のマグカップの置き場所や、コーヒーの濃さまで互いに知っている。そういう小さなことが、僕らを夫婦にしているのだと思う。


まいさんは僕の机に目を向けた。


「まだ、あの本を置いてあるんだ」


「しおりを抜くなって言ったのは、まいさんだろ」


「うん。約束、守ってくれたんだね」


「まるで僕が普段は約束を守らないみたいな言い方だな」


「そんなことないよ。だから、次の本も大丈夫だと思う」


次の本。


僕がその言葉を繰り返すより早く、まいさんは食卓の端から一冊の文庫本を持ち上げた。


僕の前に、表紙をこちらへ向けて置く。


谷崎潤一郎『鍵』。


「……また、ずいぶん意味深な題名を」


「りゅうくん、読んだことある?」


「あるよ。たぶん、まいさんの予想よりちゃんと読んでる」


「失礼しました、作家先生」


「先生はやめてくれ。今日の原稿はまだ一行も進んでない」


まいさんは笑いながら、昨日もらった革のしおりを『鍵』の中に挟んだ。


僕が贈ったものだ。さっそく使ってくれるらしい。


けれど、どうして僕のために置いた本へ挟むのだろう。


「これも僕に?」


「うん。昨日の続き」


「『蜘蛛の糸』の?」


「どうだろう。りゅうくんが決めて」


昨夜から、まいさんの返事はやけに自由だ。


僕が小説の登場人物にこんな台詞を言わせたら、担当編集者に「何を伝えたいのか明確にしてください」と赤字を入れられるに違いない。


そして、その担当編集者が目の前の妻だった場合、僕には抗議する相手がいない。


「『鍵』って、何かを開けるためのものだよね」


「普通はね」


「普通じゃない場合は?」


「閉めるためにも使えるよ」


「……それもそうか」


まいさんは白いマグカップを片づけ、仕事用の鞄を肩にかけた。


出がけに僕のそばへ寄り、長身の身体を少し屈めて、僕の肩へそっと手を添える。仕事着の襟元から、朝の石鹸の香りと混じり合った彼女の甘い体温がふわりと漂った。


「もし読むのが嫌になったら、そこで閉じていいからね」


「谷崎潤一郎って、そこまで危険な作家だったっけ」


「さあ。読者によるんじゃないかな」


玄関の扉が閉まったあとも、その一言と、肩に残った彼女の指先の温もりが消えなかった。


読むのが嫌になったら、閉じていい。


本に対する忠告にしては、妙に丁寧で、どこか艶めいた響きがあった。


仕事は進まなかった。


この場合、仕事が進まない原因が本なのか、もともとの僕の才能なのかについては、慎重に判断を保留したい。


僕は『鍵』を開いた。


この小説では、夫婦がそれぞれの日記を書く。自分の内面や性愛の欲望を記録するための文章なのに、相手がそれを盗み読んでいるかもしれない。その疑いと期待が、書かれる言葉そのものを変えていく。


そればかりではない。作中の夫は、貞淑に見える妻の肉体や秘められた欲望を暴き出そうとして、若い男を家に招き入れ、妻へ近づけようとさえする。


秘密の日記のはずが、相手を挑発し、導くための文章になってしまう。


読まれていないふりをする側と、読んでいないふりをする側。


見せていないふりをする妻と、見ていないふりをする夫。


……何だ、それは。


僕は本を閉じた。


昨日からまいさんが口にしている「読んで」「抜かないで」「まだ秘密」という言葉が、急に別の熱を持った響きに変わり始める。


ふと、今朝出ていくときのまいさんの後ろ姿が脳裏に浮かんだ。タイトなスカートに包まれた豊かな腰から太ももにかけての曲線や、白い首筋。毎日のように見ているはずの妻の身体が、谷崎の小説を通した途端、まるで僕の知らない秘密を隠し持った他人の女のように生々しく思い出された。


妻は僕に何かを隠している。


そんな結論なら、いくらでも思いつく。


けれど本当に隠したいなら、わざわざ題名まで意味深な本を僕の机に置くだろうか。


僕に見つけてほしいのか。


それとも、そう思わせることまで含めて、ただの冗談なのか。


「……小説家を試験にかけるなよ」


誰もいない部屋で呟いた。


残念ながら、返事はない。


小説では作者が登場人物の秘密を知っている。しかし現実の僕は、妻の秘密について何一つ確かなことを知らない。


同じ「龍之介」でも、芥川先生ならもう少し上手に状況を説明してくれそうなものだ。


ページを戻そうとして、革のしおりが指に触れた。


紙を挟んでいる部分が、わずかに膨らんでいる。


そっと開くと、薄い封筒が見えた。文庫本の見返しに差し込まれていたらしい。


宛名も差出人もない。


中には、小さな銀色の鍵が一本。


それから、名刺ほどの紙が一枚入っていた。


『読まなくてもいいよ。選ぶのはりゅうくん。』


まいさんの字だった。


大げさな装飾も、謎めいた記号もない。編集者らしく簡潔で、誤読の余地がない文章だ。


ただ、肝心の説明だけが抜けている。


「いや、何を選べと」


銀色の鍵を指先で転がした。ひんやりとした金属の感触が、妙に現実的だった。


家の玄関の鍵より短い。引き出しか室内扉に使う種類だろう。


裏表を調べても、メーカー名らしい小さな刻印があるだけだった。


そこで、ふと思い当たった。


僕の書斎の奥の廊下には、もう一つ小さな部屋がある。


この家を借りたときからあった窓のない小部屋で、さらにその隣には、廊下の別の扉から出入りするもう少し広い仕事部屋が並んでいる。


小部屋のほうは、まいさんが編集資料や仕事用の箱を置くために使っていて、扉にはいつも鍵がかかっていた。僕は普段入らない。


夫婦だからといって、仕事の書類や私物を勝手に見る必要はない。そう考えてきたし、まいさんも何も言わなかった。


扉の存在を意識したことさえ、ここしばらくなかった。


鍵を持って立ち上がる。


歩きかけて、止まった。


僕は何をしているんだろう。


本と一緒に鍵を渡されたからって、妻の部屋を開けていいとは限らない。


いや、でも紙には「選ぶのはりゅうくん」と書いてあった。


まいさんは僕がこの部屋を思い出すと予想していたのか。


ここまで来て、鍵が合わなければそれで終わりだ。


たぶん僕は、それを少し期待していた。


書斎の奥へ歩き、小部屋の鍵穴に銀色の鍵を差し込むと、抵抗なく奥まで入った。


「……当たるんだ」


鍵を回す。


小さく、乾いた音がした。


昨夜、まいさんが玄関を開けたときと同じような、ごく普通の音だった。


なのに、静まり返った廊下にやけに大きく響き、自分の心臓の音が耳の奥でどくりと跳ねた。


扉を少しだけ押した。


暗い。窓のない部屋だから当然だ。


廊下の明かりを頼りに中を覗くと、室内の奥に、背の低い棚と小さな机が見えた。段ボール箱が積み上がっていると思っていたが、拍子抜けするほどきれいに片づいている。


壁際には椅子が一脚。


その正面を、厚手の暗い布が天井近くから床まで覆っていた。


カーテン、だろうか。


外壁に面した方角ではない。その向こうは隣の仕事部屋のはずだ。窓などあるはずのない壁に、なぜこれほど厚手のカーテンが下がっているのか。


僕は息を潜め、部屋の中へ一歩だけ入った。


古い紙と木の匂いに混じって、かすかにまいさんの香水の匂いが残っている気がした。


仕事道具を置く場所にしては静かで、余計なものが少ない。


ふと見ると、背の低い棚の隅に、前の借り手が残したらしき古びた設備注意書きの札と、まいさんの丸っこい字の付箋が並んでいた。


『観察面保護および光量調整のため、遮光布を残置』


その隣にあるまいさんの付箋には、室内の明るさや、お互いの了承についての控えめな注意が短く記されている。


壁際のスイッチには、小さな丸い印が付いていた。


机の上には筆記具と、細いリボンの付いた紙片。


それから、一冊の本が伏せずに置かれていた。


ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』。


なるほど、今度は鏡か。


僕の周囲で文豪たちが順番待ちでも始めているのだろうか。


机の紙片には、短い文章があった。


『ここから先も、読みたくなったら。』


最後に小さな丸が一つ。


まいさんが仕事の原稿の余白に、ときどき赤ペンで描く丸と同じだった。


妙に穏やかな筆跡だった。


部屋の静けさも、カーテンに向かって置かれた一脚の椅子も、急ぐ必要はないと言っているように見えた。


僕は壁を覆う遮光カーテンへ目を向けた。


手を伸ばせば届く距離だ。


その向こうに何があるのか確かめるのは、たぶん難しくない。


『鍵』の作中で、夫が妻の秘密を覗き見ようとしたときの、あの後ろ暗くも甘美な緊張感が背筋をかすめる。


けれど、僕はそこで立ち止まった。


これは、妻がくれた鍵だ。


誰かの秘密を無理やりこじ開けて見つけたものではない。


開けることも、閉じることも、僕が選べる。


朝、まいさんは確かにそう言った。


なら、今ここで全部知る必要はない。


妙に大人びた結論に、自分で少し驚いた。二十三歳の僕にも、たまには分別らしいものが備わるらしい。


そう思った瞬間、カーテンの向こう――隣の仕事部屋のほうから、ごく小さく何かが擦れるような物音がした気がした。


僕は息を止めた。


……風か。


この部屋に窓はないはずなのに。


しばらく暗がりで耳を澄ませたが、自分の浅い呼吸のほかには何も聞こえなかった。


僕は本には触れず、カーテンにも触れずに引き返し、静かに扉を閉めた。


銀色の鍵は、ポケットにしまった。


夕方、まいさんは約束どおり帰ってきた。


僕は晩ご飯の支度を終えていた。正確には、具だくさんのスープを作り、パンを買ってきた。火と水の違いが分かる人間としては、十分な働きだと思う。


「いい匂い。りゅうくんが作ったの?」


「うん。今日は廊下を歩いてないよ」


「それ、原稿の話?」


「いや、台所の話」


まいさんは声を立てて笑った。


僕もつられて笑う。


そのまま今日の仕事の話をして、食事を終えて、食器を片づけた。


いつもと同じ夜。


少なくとも、外から見たらそうだっただろう。


彼女が食後のお茶を淹れたとき、僕は尋ねた。


「まいさん。今日の本、読んだよ」


「『鍵』?」


「うん。内容は知ってたけど、前に読んだときとちょっと印象が違った」


「どんなふうに?」


「日記って、誰にも読ませないつもりで書くものだと思ってた。でも、読まれるかもしれないと考えて書いた文章は、もう独り言じゃないんだね」


まいさんはお茶を置いた。


いつもなら、僕の感想にすぐ何か返してくる。仕事柄、読者の反応には人一倍敏感なのだ。


けれど今夜は、長い睫毛を伏せ、ほんの少し考えてから言った。


「うん。たぶん、そうだと思う」


「相手が読んでるって、分かってるのかな」


「どうかな。分からないから、面白いんじゃない?」


「読まれてるって気づいたら、普通は恥ずかしいと思うけど」


「そういう人もいるよね」


「まいさんは?」


彼女は顔を上げて僕を見た。


僕は、何を聞いているのか自分でも曖昧だった。


日記の話だ、と言い切ることならできる。


だからといって、それだけの話だとは思えなかった。


「わたし?」


「うん」


「……大切な人になら、知ってほしいことも、読んでほしい文章もあるかな」


部屋の明かりの下で、彼女の唇が柔らかく弧を描いた。その笑顔に一瞬だけ、昼間の小部屋の暗がりと、彼女が残した香水の匂いが重なった気がして、僕は思わず視線を逸らしそうになった。


それから、彼女はいつもの調子で付け足した。


「もちろん、誤字は直してからね」


僕は笑った。


笑わずにはいられなかった。


真剣な話をしていたはずなのに、仕事の癖から抜け出せない妻が、どうしようもなくまいさんらしかった。


「それで、りゅうくん。最後まで読めそう?」


「……まだ途中」


「そっか」


「でも、次の本は見つけたよ」


彼女の白い指が、湯飲みの縁でぴたりと止まった。


一秒にも満たない間だったと思う。


「そう」


「うん」


「……面白そうだった?」


「まだ、分からない」


「ふふ。そうだよね」


まいさんは、もうそれ以上聞かなかった。


僕も、あの小さな部屋について説明しなかった。


彼女がどこまで知っているのかは、依然として分からない。


でも、今までと一つだけ違うことがある。


僕は、今日はまだ知らないままでいることを、自分で選んだのだ。


寝る前、書斎の机に二冊の本を並べた。


『蜘蛛の糸』と『鍵』。


前者の最後の白紙には、今も白い糸が垂れている。


後者には、僕が贈った革のしおりが挟まったままだ。


銀色の鍵そのものは、机の引き出しに入れた。


自分の小説の画面を開く。


朝から一文字も増えていない。


代わりに、今日一日で僕の頭の中には、いくつもの疑問が増えた。


なぜ、まいさんは僕に鍵を渡したのか。


なぜ、あの部屋には椅子が一脚だけ置かれていたのか。


なぜ、窓のない壁に厚い遮光カーテンが掛かっているのか。


そして何より。


まいさんは、僕が扉を開けるところまで知っていたのだろうか。


答えは出ない。


けれど、答えを急いで確かめたいかと言われれば、少し違う気もする。


今夜の彼女の、「大切な人になら、知ってほしいこともある」と言ったときの笑顔が、さっきから頭の中に残って離れなかった。


僕は書きかけの原稿を閉じた。


明日の朝になれば、きっとまた続きを書こうとするだろう。


妻に借りた物語のほうも、たぶん同じだ。


扉を開ける鍵は見つけた。


けれど、その先を読む覚悟までは、まだ見つかっていない。


机の端で、『蜘蛛の糸』の白い糸が静かに揺れた。


その隣に、暗い小部屋で見た新しい本の題名が目に浮かぶ。


『鏡の国のアリス』。


どうやら僕は、次の一頁の手前に立っているらしい。


それがどんな頁なのか、まだ知らないまま。


ここまで読んでくださってありがとうございます。


鍵が開くと、今まで見えなかったものが現れます。でも、見えるようになったからといって、すぐに意味まで分かるとは限りません。


次回は第3話『鏡の国のアリス』。

龍之介が次に目にするものを、一緒に確かめてもらえたら嬉しいです。

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