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第1話 蜘蛛の糸

はじめまして、カーマイン先生です。


この第1話で苦労したのは、結婚一周年を迎えた夫婦の何気ない会話を、自然なまま描くことでした。

二人にはちゃんと幸せな一日を過ごしてほしい。でも、読み終えたとき、ほんの小さな疑問が残ってほしい。

その加減を考えながら書いたのが『蜘蛛の糸』です。


まずは、龍之介と真衣さんの一日にお付き合いください。


覗見(のぞみ)、浮気(ふけ)は実在する苗字らしいです。

僕の名前は覗見龍之介という。


初対面の人にはたいてい二度聞き返される。名字が「のぞみ」で、名前が「りゅうのすけ」。どちらも聞き慣れないほどではないが、くっつけると妙に芝居がかるらしい。


名前については、僕にも言い分がある。


親が芥川龍之介の愛読者だった。それだけの理由で、僕は生まれたときから文豪と同じ名前を背負わされたのだ。


文豪にちなむ名前を付けられた男が、二十三歳になって何をしているか。


小説を書いている。


そこまでは、親の期待に応えたと言っていい。


問題は、その小説がまったく売れていないことだ。


結婚一周年の午後、僕はパソコンの前で三時間ほど唸っていた。


画面には未完成の原稿が開かれている。朝から増えた文字数は百八十二。うち四十字ほどは、主人公が意味もなく廊下を歩いている描写である。


これなら廊下のほうがよほど働いている。


午後六時十二分。


玄関で鍵が回る音がした。


「ただいま、りゅうくん」


「おかえり、まいさん」


僕は椅子を回した。


そこに立っていたのは、浮気真衣。二十五歳。小さな出版社で企画編集をしている、僕の妻だ。


ちなみに「浮気」は「ふけ」と読む。誤字ではない。結婚してからも、妻は仕事では旧姓を使っている。


僕は覗見、仕事での妻は浮気。


戸籍上は同じ名字なのだが、二人の名前を並べると、何かの安っぽい推理小説の登場人物みたいになる。もちろん、そんな理由で結婚したわけじゃない。


「進んだ?」


「廊下を少し」


「散歩?」


「主人公がね」


「なるほど。作者は?」


「一日中ここにいたよ」


まいさんは笑った。


長い黒髪が肩から滑り、僕を見下ろす大きな目が楽しそうに細くなる。彼女は僕より十センチほど背が高い。結婚して一年経っても、立ったまま見つめられるとちょっとだけ落ち着かない。


嫌だという意味ではなく、好きな人が近くにいると、いまだに姿勢を正してしまうという意味で。


「じゃあ、今日ぐらい休もうよ」


「締め切りがね」


「あるの?」


「……自分で決めたやつなら」


「それ、変更できるね」


編集者という人種は、ときどき残酷なほど正しいことを言う。


まいさんは手に提げていた小さな紙袋を食卓に置いた。ケーキの箱と、それより少し薄い、紺色の包みが見えた。


僕も机の引き出しを一度だけ確かめる。


そこには、昨日の夜に用意した細長い箱が入っている。


結婚して一年。大事件など起きなくても、何でもない夜を少し特別にできる相手がいる。それだけで、僕には十分すぎると思っていた。


夕食は二人で作った。


僕が野菜を切り、まいさんが味を見た。料理の主導権をどちらが握っているかは明白だが、僕には包丁を持つ権利ぐらいは与えられている。


「一年って、早いね」


「そうだね。去年の今頃は、僕が君の名字を間違えずに読めるか心配してた」


「わたしは、りゅうくんが役所で自分の名前を書き間違えないか心配してたよ」


「実際、一回書き直した」


「ふふ。知ってる」


窓の外には、ありふれた住宅街の灯りが並んでいる。


まいさんは仕事の話をした。企画会議で通したい本があるらしい。僕は今日書けた百八十二字のうち、廊下の四十字を削ることにしたと報告した。


小説家と編集者の夫婦らしい会話かもしれない。ただし、一方の業績がひどくしょぼい。


食後、僕は細長い箱を差し出した。


「一周年、おめでとう」


「え、開けていい?」


「もちろん」


中身は革製のしおりだった。小さな金属の飾りが付いていて、使い込むと色が変わるらしい。まいさんは本を仕事にしている。もっと高価なものも考えたが、結局、日常の中で何度も手に取ってもらえる品にした。


「わあ……いい色」


「気に入った?」


「うん。すごく。ありがとう、りゅうくん」


そう言って、まいさんが少しだけ身を屈め、僕の頬に軽く口づけた。


肩から流れ落ちた黒髪が頬をかすめ、外気と混じった彼女特有の甘い匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。唇が離れたあとも、そこだけ小さな熱が残っていた。


結婚一周年にして、今日の僕の最大の成果が確定した瞬間である。


「じゃあ、今度はわたしから」


まいさんは紺色の包みを持ってきた。


四角く薄い。重さは軽い。


職業柄、僕の予想はほぼ当たっていた。


「本?」


「本」


「出版社の編集者が、売れない小説家に本を贈るのって、少し当てつけじゃない?」


「だって、りゅうくん、本が好きでしょう」


「まあ、それは否定しない」


リボンを外し、包装紙を開いた。


出てきたのは一冊の文庫本だった。


芥川龍之介『蜘蛛の糸』。


「……これはまた、分かりやすい人選で」


「本のほうは人じゃないよ」


「作者の話」


「分かってるよ」


まいさんは、少しだけ得意そうに笑った。


「りゅうくん、子どもの頃に読んだって言ってたでしょう?」


「読んだよ。名前の由来になった作家だからね。親に何度も薦められた」


「今、読んだら違うふうに感じるかもしれないよ」


「二十三歳になった僕が、蜘蛛の糸に新解釈を?」


「うん。ちょっと期待してる」


わざわざ結婚記念日に、昔読んだことのある短編を贈る。


それも、この薄さの文庫本を。


まいさんが僕に本をくれるのは珍しくない。だけど今夜のそれには、いつもと違う、妙に慎重な選び方の気配があった。


「どうしてこれにしたの?」


彼女は答える前に、一拍置いた。


「それは、読んでからのお楽しみ」


「なにそれ。書店の帯みたいな宣伝文句だな」


「編集者なので」


妻が誇らしげに胸を張る。


僕は笑った。笑ったのだが、なぜか、そのやり取りが頭の片隅に引っかかった。


寝る前、僕はリビングの深緑色のソファに腰を下ろして『蜘蛛の糸』を開いた。


短い話だ。もう内容は知っている。


地獄を見下ろす者がいて、そこへ細い一本の糸が垂らされる。助かると思った者は糸を登る。しかし、自分のことばかり考えた末、糸は切れてしまう。


子どもの頃には、悪いことをすると罰が当たる話だと思っていた。


大人になった今は、それほど単純でもない気がする。


助かるかもしれないと知った瞬間、人はどこまで自分勝手になるのだろう。誰かがこちらを見ていると知ったら、僕はどう振る舞うのだろう。


ページをめくりながら、妙なことに気づいた。


僕がこれまで気にしていたのは、糸を登る側の人間だった。


けれど、この物語にはもう一人いる。


上から、地獄を覗いている者が。


「りゅうくん、読んでる?」


顔を上げると、まいさんが湯飲みを二つ持って立っていた。


「うん。懐かしいよ」


「どう?」


「昔より、怖い話だと思った」


「どうして?」


「僕なら、助かるって期待したあとで糸が切れるのが一番嫌だな」


「ふうん」


まいさんは隣に座り、僕の手元を覗き込んだ。


「でもさ、りゅうくん」


「なに?」


「地獄を覗いている人は、地獄にいるのかな」


僕は本を持つ手を止めた。


「……どういうこと?」


「ううん。ちょっと思っただけ」


「地獄にいる人を見ているんだから、少なくとも本人は上にいるんじゃない?」


「そうだよね」


彼女は湯飲みに口をつけた。


その答えで納得したようにも見えるし、最初から答えを知っていたようにも見える。


「それで、どうしてこの本なの?」


「また聞くの?」


「さっきの答えが全然答えになってなかったから」


「りゅうくん、推理小説の主人公みたい」


「売れない小説家の現実逃避とも言う」


まいさんは声を立てずに笑った。


そして、僕が開いているページに細い革のしおりを挟もうとした。


「あ、それ。さっきのプレゼント」


「使ってくれるんだ」


「もちろん。でも、今日はこっち」


彼女はそう言って、文庫本の後ろに挟まっている白い紙のしおりを指さした。


細い糸が一本、先端に結ばれている。


気づかなかった。最初から挟んであったのだろうか。


「これ、抜かないでね」


「なんで?」


「約束」


「何の?」


「まだ秘密」


編集者は、原稿の説明不足には厳しい。


自分の説明不足については、どうやら例外らしい。


まいさんが寝室へ行ってから、僕はもう一度本を開いた。


しおりは物語の途中ではなく、最後のページのさらに先、何も印刷されていない白紙のところに挟まっていた。


妙だ。


話はもう終わっている。


そこにしおりを挟んでも、続きを読み始める場所なんてない。


僕は白紙を光に透かした。何か文字が隠れているわけでも、特殊な印刷があるわけでもなさそうだ。


しおりの糸だけが、ページの外へ細く垂れている。


なるほど、と僕は思った。


たぶんこれは、妻なりの冗談だ。


蜘蛛の糸だから、糸の付いたしおり。


僕の名前が龍之介だから、作者が芥川龍之介。


同じ名前、同じ糸。実に分かりやすい。


……いや、本当にそれだけか?


最後の白紙を、もう一度見た。


何もない。


だからこそ、何かがこれから書かれる場所にも見える。


「りゅうくん」


寝室の扉が少し開いた。


「まだ起きてたの?」


「うん。ちょっと確認してた」


「本の?」


「そう。このしおり、挟む場所おかしくない? もう話は終わってるよ」


まいさんは僕のところへ歩いてきて、白紙をちらりと見た。


「気づいたんだ」


「そりゃ気づくよ」


「よかった」


「よかった?」


彼女は僕の手から本を取り上げたりしなかった。ただ、しおりの先から垂れた白い糸を指でそっと持ち上げた。


「もし、この糸が切れたら、りゅうくんはどうする?」


「またずいぶん唐突だな」


「ね、どうする?」


「……落ちるんじゃない?」


「どこに?」


「物語どおりなら、地獄に」


まいさんは僕を見た。


いつもの、やわらかな目だった。


「そう思う?」


すぐには返事ができなかった。


僕の妻は、こんなふうにときどき、簡単な質問を不思議なくらい難しくしてしまう。


「まあ……そういう話だろ?」


「ふふ。そっか」


まいさんは糸を離し、僕の肩に手を置いた。


「おやすみ、りゅうくん。今日はありがとう」


「こちらこそ。結婚一周年、おめでとう」


「うん。来年も、お祝いしようね」


彼女は僕を見下ろしたまま、前髪を指先でそっと分け、僕の額にやわらかく口づけた。


お風呂上がりの石鹸の香りの奥に、かすかに熱い肌の匂いが混じっている。僕が息を詰めるより早く、彼女はするりと身を離して寝室へ戻っていった。


深緑色のソファには、本を持った僕だけが残された。


窓の外では、誰かが自転車を走らせている。冷蔵庫の低い音がして、卓上の時計が一分進んだ。


何も起きていない。


今日も、いつもと変わらず幸せな一日だった。


それなのに、僕はどうしてか、『蜘蛛の糸』を本棚へ戻す気になれなかった。


地獄を覗いている者は、地獄にいるのか。


妻の問いが、頭から離れない。


僕は窓に映った自分の顔を見た。部屋の光が反射して、向こう側の夜はほとんど見えなかった。


見えないからといって、何もないとは限らない。


暗がりの向こうに何かが隠されていると知ったとき、目を逸らすのではなく、確かめずにはいられない人間がいるとしたら。


そう考えた途端、背中が少し冷えた。


けれど怖いという感情と、もう一度この本を開きたいという気持ちは、どうしてか同じ場所から湧いてくる。


僕は最後の白紙に挟まったしおりを、そっと指で押さえた。


白い糸が、するりと本の外へ垂れた。


もしこれが、まいさんからの最初の謎なのだとしたら。


彼女は何を見せようとしているのだろう。


その本の意味を、僕はまだ知らない。


最後まで読んでくださって、ありがとうございます。


贈られた一冊の本と、白い糸のついたしおり。

真衣さんの言葉は、ただの読書談義だったのでしょうか。


次回は第2話『鍵』。

龍之介が次に開くものは、本の頁だけとは限らないようです。

続きも読んでいただけたら嬉しいです。

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