第3話
ヴァレリア公爵家の重厚な門が、重苦しい音を立ててマリアを迎え入れた。
馬車から降りた彼女の顔は、期待よりも恐怖に引きつっている。
無理もない。
男爵令嬢として育ち、王太子を誘惑して婚約破棄まで追い込んだ女が、その被害者の実家に養女として乗り込むのだ。
テンプレ通りの物語なら、待っているのは冷たい床の地下室か、使用人からの陰湿な嫌がらせ、あるいは毒の入った食事だろう。
けれど、玄関ホールでマリアを待っていたのは、磨き上げられた大理石の床よりも冷ややかな笑みを湛えたリゼットだった。
「ようこそ、私の可愛い妹」
リゼットは優雅な所作でマリアの手を取り、彼女が住むことになる部屋へと案内した。
そこは公爵家の中で最も日当たりが良く、王妃の私室にも引けを取らないほど贅沢な調度品で飾られた、南向きの客室だった。
絹の天蓋がついたベッドに、銀細工の化粧台。
クローゼットを開ければ、最新の流行を取り入れたドレスが色とりどりに並んでいる。
困惑するマリアの前に、リゼットは一枚の羊皮紙を差し出した。
「お姉様、これは」
マリアが震える声で尋ねる。
リゼットは、聖母のような慈愛に満ちた、けれど一切の温度を感じさせない声で答えた。
「教育のカリキュラムよ」
マリアが目を通したその紙には、早朝から深夜まで、分刻みで詰め込まれた教養の講義が記されていた。
帝王学、五カ国語の語学、魔石経済学、そして上級社交礼法。
一分の隙もない、王妃となるための苛烈な修練。
「殿下を愛して、この家の娘になったのでしょう?」
リゼットはマリアの耳元に唇を寄せ、毒のように甘く囁いた。
「ならば、ふさわしい価値を見せなさい」
「もし落第したら、その時は鉱山の底で石でも磨いてもらうから」
愛を盾に逃げることを許さない、完璧なまでの姉としての振る舞い。
マリアは目の前の豪華な部屋が、金で飾られた檻に見え始めていた。
◇ ◇ ◇
数日後、期待に胸を膨らませたアルヴィンが公爵邸を訪れた。
彼は確信していた。高慢なリゼットのことだ、婚約者を奪ったマリアを地下室に閉じ込めるか、少なくとも食事を抜くくらいの嫌がらせはしているに違いないと。
正義の味方としてマリアを救い出し、リゼットを冷酷な女だと改めて断罪する。
その完璧なシナリオを描いて応接間に足を踏み入れたアルヴィンは、しかし、そこに広がる光景に言葉を失った。
「殿下、ようこそいらっしゃいました」
現れたマリアの背筋は、定規でも入っているかのように真っ直ぐに伸びていた。
その歩き方、ドレスの裾の裁き方、そして完璧な角度の会釈。
かつての、守ってやりたくなるような危うい男爵令嬢の面影はどこにもない。
数日間、寝る間も惜しんでリゼットに叩き込まれた成果が、彼女の全身に張り付いていた。
「マリア、顔色が悪いじゃないか。さてはリゼットに何かされたのか?」
アルヴィンが駆け寄り、彼女の手を握ろうとする。
いつものように縋り付いてくることを期待した彼の手を、しかしマリアは、流れるような動作でさりげなくかわした。
そして、部屋の隅で優雅に茶器を弄ぶリゼットの方へと、縋るような視線を向けたのだ。
「お姉様、殿下へのご挨拶、これでよろしかったでしょうか……?」
アルヴィンではなく、リゼットに許しを請う。
その瞳に宿っているのは、恋人への愛ではなく、厳しい師匠に認められたいと願う狂信的なまでの渇望だった。
リゼットは一口、ゆっくりと紅茶を喉に流し込む。
その沈黙の数秒間、マリアは息を止めて、判決を待つ罪人のように震えていた。
「……ええ。及第点ね。後の課題は、殿下を相手にしてもその平静を保つことかしら」
リゼットの短い言葉に、マリアの顔にぱあっと歓喜の火が灯る。
それを見て、アルヴィンの胸の中に言いようのない焦燥感が渦巻いた。
自分が救うべきヒロインが、自分を見ずに、敵であるはずの悪役令嬢の顔色ばかりを窺っている。
リゼットは、アルヴィンの不機嫌など意に介さず、ただ静かに微笑んでいた。
まるで、壊れ始めた玩具の挙動を観察する子供のような、無垢で残酷な微笑みだった。











