第10話
王宮の回廊には、逃げ場のない悲鳴のような喧騒が満ちていた。
隣国との交渉決裂の報を受け、官吏たちは顔を青くして走り回り、大臣たちは責任をなすりつけ合っている。
国の心臓部とも言える財政に、底の見えない大穴が開いたのだ。
その混乱の渦中、リゼットが謁見の間の重い扉を開くと、視界の端で死んでいたはずのウィンドウが激しく火花を散らした。
『イベント:王太子の自業自得による国家存亡の危機』
『選択肢A:かつての情愛を思い出し、無償の援助で彼を窮地から救い出す。』
『選択肢B:彼を見限り、レオンハルトの手を取って他国へ亡命する。』
ノイズまみれの文字を見つめ、リゼットは鼻で笑った。
かつての人生なら、きっとAを選んで彼と涙の和解を果たし、共に困難を乗り越える美談に仕立て上げられていたことだろう。
あるいはBを選んで、新たな溺愛ルートへと突入させられていたか。
けれど、今の彼女が求めているのは、そんな予定調和の救済ではない。
リゼットは縋るような視線を向けてくる国王と、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべるアルヴィンの前に進み出た。
「陛下、我がヴァレリア家がこの損失をすべて補填いたしましょう」
その一言に、その場にいた全員が救いを見出したかのように息を呑んだ。
「ただし、条件がございます」
リゼットは懐から、あらかじめ用意していた契約書を取り出し、無造作に放り投げた。
「今回の損失補填と引き換えに、隣国との魔石取引に関する全権、および国内の関税決定権を、私個人に譲渡していただきます」
それは、国の経済という名の首輪を、リゼットに差し出すことと同義だった。
愛を乞うために国を焼いた男を、彼女は救うのではなく、その足元からすべてを買い叩くことに決めたのだ。
◇ ◇ ◇
震える手で、アルヴィンは契約書に署名を終えた。
「これで、僕は君と繋がっていられるんだね、リゼット」
地を這うような情けない声で、彼はかつての婚約者の裾に縋り付く。
国を売り渡し、地位を形骸化させ、ただ一人の女の支配下に降る。
それが彼にとっての、歪みきった愛の証明だった。
リゼットは、その汚れた手を見下ろし、冷ややかに微笑んだ。
「ええ、殿下。あなたはもう、私の許可なく呼吸をすることさえ許されませんわ」
彼女の言葉に、アルヴィンは絶望ではなく、狂気じみた安堵を覚えて顔を綻ばせる。
その光景を部屋の隅で眺めていたマリアは、陶酔しきった表情でリゼットを見つめていた。
「さすがはお姉様。なんて完璧で、残酷な支配」
ヒロインも、ヒーローも、もはや物語の主役ではない。
リゼットという嵐に巻き込まれ、原型を留めぬほどに砕かれた残骸に過ぎなかった。
リゼットは署名済みの書類を手に取り、窓の外に広がる夜の王都を見下ろした。
十一回の人生で守ってきた清らかな平和よりも、この崩壊していく世界の方がずっと美しい。
愛も、正義も、もういらない。
私はただ、この至高の泥沼を泳ぎ続けるだけ。
リゼットは満ち足りた心地で、暗い夜の底へ向かって静かに微笑んだ。










