第6話 余命五日、次の船は七日後
翌朝。
朝一番に迷宮都市を出て、三時間。
俺たちは、聖女港行きの船が出る港町へ着いた。
昨日、カインから聞き出したクロウの次の標的は、聖女リリアナ。
クロウより先に辿り着ければ、狙われていることを伝えられる。
それに、本物の聖女なら、アリアの命を蝕む呪いにも何かできるかもしれない。
確証はない。
でも今は、試せる可能性を一つでも増やしたかった。
港へ近づくにつれて、潮の匂いが濃くなる。
桟橋に並ぶ魔導帆船の中に、一隻だけ、白い帆へ聖印を掲げた船があった。
【聖女港行き】
【本日正午出港】
【次便:七日後】
「……七日後?」
昨日の時点で、アリアの余命は六日。
夜を越えた今、残りは五日。
次の船は、七日後。
二日、足りない。
……乗り遅れたら雇い主が死ぬ。
人生で一番、遅刻できない船だった。
アリアも白い帆を見上げる。
「あれに乗るわ」
「異議なし。今日は何があっても乗ろう」
「きゅう……」
腕の中で、くーちゃんが小さく鳴いた。鼻先は、港町の通りへ向いている。
潮の匂いに混じって、焼きたてのパンや香草の匂いが流れてきていた。
「腹減ったのか?」
「きゅ」
そのとき。
くぅ。
すぐ隣から、もう一つ音がした。
アリアを見る。
まっすぐ前を向いたまま動かない。
耳だけが、わずかに赤かった。
「……何かしら」
「いや、何でもない」
「何か言いたそうだけれど」
「聞かなかったことにする」
腹が減っているのは、くーちゃんだけじゃなかったらしい。
出港までは、まだ少し時間がある。
朝から急いで出てきたせいで、俺たちはまともに何も食べていなかった。
「まあ、このまま船に乗って、向こうに着いてから動けませんじゃ困るか」
聖女港へ着けば、リリアナを探してすぐ動くことになる。
アリアは一度だけ咳払いした。
「……そうね。くーちゃんも空腹みたいだし、何か食べておきましょう」
くーちゃんの鼻が、通りの端にある屋台へ向く。
迷宮芋の薄焼きパン。小魚と魔藻のスープ。
「五分で食べられるものにしよう」
「それなら、あのパンね」
アリアが指した先は、くーちゃんが見ている屋台と同じだった。
「……意見が合うな、お前ら」
「きゅ!」
「何か問題でも?」
「いや。仲良くて何よりだ」
そのとき、屋台の奥から小さな声がした。
「わんちゃん、お腹すいてるの?」
振り向くと、栗色の髪の女の子が顔を出していた。八歳か九歳くらいで、大きめのエプロンをつけている。手には、端の欠けた薄焼きパンが一枚。
「これ、割れちゃったから売れないの。少しだけなら食べていいよ」
「ニナ、勝手にあげちゃ駄目でしょう」
奥から、同じ栗色の髪を後ろで束ねた女性が出てきた。疲れた顔をしていたが、ニナとくーちゃんを見ると、困ったように笑う。
「……まあ、その一枚だけね」
ニナがパンを小さく割り、くーちゃんの前へ差し出した。
「きゅ!」
もぐ。
尻尾が一気に三倍速になる。
「……分かりやすいな、お前」
俺たちも薄焼きパンを二枚買った。
表面は香ばしく、中には潰した迷宮芋と小魚が入っている。
「……普通にうまいな、これ」
「高いものは使えませんから」
母親――エルマが、少し照れたように言った。
「安いものを、どうおいしくするか。それが港の料理なんです」
ニナがアリアを見上げる。
「お姉ちゃんも、おいしい?」
アリアは一口食べたまま、少し考えた。
「……おいしいわ。温かい味がする」
ニナが嬉しそうに笑う。
「帰りも寄ってね。わんちゃんの分、取っておくから」
アリアの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
「ええ。約束するわ」
……帰り、か。
そういえば俺にも、契約が終わったらもらう約束が一つある。
願いごと一つ。
まあ、それを考えるのも、アリアがちゃんと帰ってきてからだ。
屋台を離れる背中へ、ニナが手を振る。
「またね、わんちゃん!」
「きゃん!」
港へ続く大通りへ入ると、白い帆が建物の向こうに大きく見えた。
桟橋から、船員の声が飛ぶ。
「聖女港行き、最終便の乗船を開始します!」
「走らなくても間に合いそうだな」
「補給も済んだし、予定どおりね」
その時、背後の通りがざわついた。
「取り立て屋コレクトが来てるぞ!」
「エルマの屋台らしい」
「あの子まで連れていかれるぞ」
俺とアリアが振り返る。
白い船からは、乗船を急かす鐘。
屋台の方からは、エルマの叫び声。
「きゃん!」
先に動いたのは、くーちゃんだった。
小さな毛玉が身を翻し、屋台へ駆け戻る。
「おい、くーちゃん!」
俺も追った。
アリアは一度だけ白い帆を見て、それから俺たちの後を追う。
屋台の前には、黒い外套の男が立っていた。
細い目。
白い革手袋。
胸元には、黒い帆を刻んだ銀章。
その周囲を、同じ銀章をつけた黒服が四人囲んでいる。
エルマは地面へ膝をつき、男の外套へすがっていた。
ニナは、別の男に腕を掴まれている。
「回収です」
白手袋の男――コレクトが、抑揚のない声で言った。
「金がなければ、物を。物がなければ、人を」
「今朝も払ったじゃない!」
「払いましたね。利息を」
コレクトは帳簿を開く。
「ですが、元金は残っています」
「そんな……この子だけは!」
「よく働く子だそうですね」
コレクトがニナを見る。
「黒帆市なら、買い手もつくでしょう」
……人を売るのか。さっき、くーちゃんにパンをくれた子を。
「お母さんをいじめないで!」
ニナが腕を振りほどこうとする。
隣で、金属が小さく鳴った。
アリアの手が、アステリアの柄へかかっている。
「待て」
その手首を掴んだ。アリアが俺を見る。
「離しなさい」
「ニナが近すぎる。周りにも四人いる」
「なら、五人とも斬るわ」
即答だった。
「いや、そうじゃなくて」
俺はコレクトの帳簿を見る。
「そいつら斬ったら、借金も消えるのか?」
アリアの手が止まった。
……たぶん、消えない。
ここで五人倒しても帳簿は残る。
俺たちが船に乗ったあと、別の取り立て屋が来れば同じだ。
コレクトが薄く笑う。
「賢明です」
遠くで、二度目の鐘が鳴った。
「旅のお方でしょう。船に遅れますよ」
……こいつ、分かってて言ってるな。
あの船を逃せば、次は七日後。
アリアの残り時間は五日。
それでも、このままニナを連れていかせるのか。
アリアの指が、アステリアの柄へ食い込んだ。それでも、剣は抜けなかった。
迷っている間に、黒服たちが動いた。
「わんちゃん……」
連れていかれながら、ニナがくーちゃんを見る。
「きゅう……」
黒服たちが、ニナを連れて倉庫街へ消えていく。
エルマが石畳へ崩れ落ちた。
「ニナ……お願い……誰か……」
ニナを追って、一歩踏み出しかけた。
「行くわよ、透矢」
アリアの声に、足が止まった。
「……船へ?」
「聖女港へ行かなければ、私は死ぬ」
……反論できなかった。
足元に、薄焼きパンの欠片が落ちていた。さっきニナが、くーちゃんへ分けてくれたものと同じだった。
それを拾う。
……最悪だな。
俺たちは、泣き崩れるエルマの横を通り過ぎた。
港へ戻ると、白い帆が風をはらんでいた。
「聖女港行き、最終乗船です!」
船員が乗船口の鎖へ手をかける。
「……なんとか間に合いそうだな」
なのに、足が妙に重い。
「きゅ」
くーちゃんが、俺の手元を見上げた。
薄焼きパンの欠片。
『帰りも寄ってね』
ニナの声が、嫌なくらい耳に残っている。
アリアは白い船を見る。それから、俺の手の中のパンを見た。
「透矢。あなたとくーちゃんは、あの船に乗って」
「……は?」
「先に聖女港へ行って。リリアナに、クロウのことを伝えて」
「いや、待て。お前は?」
アリアは答えなかった。
俺の手から、パンの欠片を取った。
「約束したから」
それだけ言って、背を向けて走り出した。
向かう先は白い船じゃない。
ニナが連れていかれた黒い倉庫街だ。
……まただ。
最初に会った時から、こいつはこうだ。
自分の命だけ、すぐ計算から外す。
「くーちゃん、追うぞ!」
「きゃん!」
俺も走り出す。
「まだ契約期間中だ。専属鑑定士を勝手に置いていくな」
背後で、出港の鐘が鳴った。
人生で一番、遅刻できないはずの船だった。
聖女港行きの白い船とは、反対方向へ。
俺とくーちゃんは、アリアを追って黒い倉庫街へ飛び込んだ。




