第19話 今度こそ、見落とさない
リリアナの両手から、白い光が何度も溢れた。
ガイの胸を包み、残っていた火傷を消していく。
傷は、もうほとんど残っていない。
それでも、胸は動かなかった。
何度目かの光が消えたところで、リリアナの手が止まった。
「……どうして」
そのままガイの手を握って、動かなくなる。
閉じたままの瞼を、ただ見ていた。
俺も、ガイの顔を見る。
焼けた傷は治っている。
苦痛に歪んでいた顔も、もう静かだった。
さっきまで黒炎の前に立っていた男と、同じ身体には見えないくらいに。
全部、あの盾へ置いてきたみたいだった。
「……ガイ」
返事はない。
くーちゃんが、ガイの胸元に置かれていた櫛を咥えた。
そのまま俺の前まで来て、見上げる。
「きゅーん……」
ガイは、いつまで待ってもそれを使わなかった。
だから今度は、俺のところへ持ってきたのか。
「……俺に、どうしろって言うんだよ」
差し出された櫛を、そっと受け取った。
端が焦げ、少しだけ歪んでいた。
何度も、あいつが前髪を直していた櫛。
初めて会った日も、そうだった。
あいつはこの櫛で前髪をひと撫でしてから、俺に言った。
『見てるだけの奴は、漢じゃねえ』
初対面でそんなことを言う、面倒な男だった。
正直、最初は好きじゃなかった。
でも、悪いやつじゃなかった。
借りは返す。
誰かが後ろにいれば、必ず自分が前に出た。
馬鹿みたいに筋を通して、一度決めたことだけは曲げなかった。
そして最後は、本当に俺たち全員の盾になった。
もう少しだけ、この面倒な男と一緒にやってみたかった。
櫛を握る手に、力が入った。
あの時、ガイは言った。
『俺が止める。お前は、見ろ』
あいつは俺の目を、本気で頼ってくれた。
自分の盾まで、俺の合図に預けた。
それなのに。
俺がもっと早く見つけていれば。
あの管を。
サンクトイーターの弱点を。
砕けるのは、盾だけで済んだかもしれない。
鑑定士なのに。
見つけるのが、遅かった。
……ごめんな、ガイ。
「……透矢」
アリアの声で、顔を上げた。
「あなたも、精一杯戦ったでしょう」
自分だって立っているのがやっとなのに、俺の顔を見ていた。
「最後まで、あの人の隣にいたじゃない。あなたは、一度も目を逸らさなかった。だから――」
言葉が止まった。
「……っ」
アリアの身体が大きく傾く。
アステリアを石畳へ突き立てた。
それでも支えきれず、片膝が落ちる。
深紅の髪が、頬から滑り落ちた。
「アリア!」
駆け寄ろうとして、息が止まった。
首筋までだった黒紋が、頬を這い上がり、こめかみの近くまで届いている。
細い黒が、さらに上へ這おうとしていた。
【血統呪詛:死蝕】
【進行率:九十九パーセント】
……まずい。
もう、身体だけじゃない。
頭まで回り始めてる。
ガイだけじゃない。
アリアまで失う。
「……リリアナ」
呼んだ。
けれど、反応がない。
リリアナはガイの手を握ったまま、俯いていた。
俺の声が聞こえているのかさえ分からない。
「リリアナ! アリアが……!」
声を張る。
それでも、顔は上がらなかった。
ガイは、目を開けない。
アリアまで、もう時間がない。
「……頼む」
声が震えた。
「アリアを……助けてくれ」
視界が滲む。頬を何かが伝った。
「俺じゃ、もうどうにもできない」
「アリアまで……失いたくない」
リリアナの肩が、小さく揺れた。
ゆっくりと、顔が上がる。
そこで初めて、アリアを見た。
頬まで這い上がった黒紋。
立っていることさえできない身体。
「……アリアさん」
リリアナの目が見開かれた。
握っていたガイの手から、指を一本ずつほどいていく。
最後の一本だけ、少し長く触れていた。
それから強く目を閉じ、頬を伝った涙を拭う。
「すぐ、戻ります。……待っていてください」
泣き腫らした目のまま、アリアの前へ膝をついた。
黒紋の這う頬へ、両手を添える。
「今度こそ、届かせます」
リリアナは目を閉じた。
「どうか、この人に明日を」
白い光が灯り、アリアを静かに包んだ。
花びらも、聖歌もない。
ただ触れているだけで、張り詰めていたものが少しほどけるような、そんな光だった。
【進行率:九十八パーセント】
こめかみまで伸びた黒の先が、ほどける。
【進行率:七十二パーセント】
頬から黒が引き、首筋まで退いていく。
【進行率:四十一パーセント】
肩から腕へ、黒紋が薄れていく。
【進行率:十八パーセント】
手首に残った最後の黒が、白い光の中へ溶けた。
そして、鑑定表示が切り替わった。
【血統呪詛:死蝕】
【状態:浄化完了】
その下に、何も続かない。
昨日まで、見るたびに減っていた余命の数字が、どこにもなかった。
「……消えた」
アリアは自分の腕へ目を落とし、何度も確かめるように指先で肌をなぞった。
「本当に……?」
リリアナが、少しだけ笑った。
「これで、明日を迎えられますよ」
アリアはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐く。
「……明日」
その言葉を確かめるように、呟いた。
「私にも……その先があるのね」
声が震えていた。
その手が、俺の袖を掴む。
初めて会った日と、同じように。
力は弱い。
それでも、離れなかった。
くーちゃんがアリアの膝へ潜り込み、黒紋の消えた頬へ鼻先を押しつける。
「きゅーん」
……アリアが助かった。
明日も。
その先も。
俺の雇い主は、来週も生きている。
気づいたら、涙が出ていた。
さっきとは、違う理由で。
「……また、泣いているの?」
くーちゃんを抱いたまま、アリアが言った。
「……こういうときぐらい、いいだろ」
「そうね」
アリアがこっちを見る。
そして、笑った。
今まで何度も見た笑顔だった。
でも、その奥にいつもあった影が、今はなかった。
その顔を見て、肩の力がほんの少し抜けた。
リリアナも、小さく息を吐く。
ガイが取り戻してくれた力が、アリアを救った。
手の中の櫛を、握り直す。
『俺が止める。お前は、見ろ』
ガイの声が蘇る。
……そうだ、まだ緩めるな。
視線を、広場の中央へ戻す。
黒く焼け焦げたサンクトイーターの巨体。
砕けた管。
石畳へ投げ出された、四本の脚と、腕。
しばらく、そのまま見ていた。
……ん?
何かが、引っかかった。
目を凝らす。
右腕。
倒れた時は、胴体の下に半分隠れていた。
今は、外へ伸びている。
……位置が違う。
そのまま、目を離さない。
焼け焦げた指先が、ほんの少しだけ曲がった。
ざり、と。
爪が、石畳の継ぎ目を掻く。
「……待て」
今度は、はっきり動いた。
半分潰れた腕が身体を引き寄せる。
黒い巨体が、わずかに路地の方へずれた。
……生きてる。
しかも、逃げようとしてる。
「……どこ行くんだよ」
サンクトイーターの動きが止まった。
ゆっくり、こちらを見る。
裂けた口が、震えた。
「……ミ、ル……ナ……」
掠れた音だった。
人の声を、もう一度だけ真似しようとしているみたいに。
「ミル……ナ……!」
「悪いな。見るのが、俺の仕事なんだ」
今度こそ、見落とさない。
「くーちゃん!」
「きゅ!」
アリアの膝から飛び出したくーちゃんへ、ボーロを一粒。
もぐ。
白い光が、俺を包んだ。
視界が切り替わる。
焼けた皮膚の奥。 砕けた管の奥。 黒く濁った肉の、さらに奥。
ガイが《一命反照》で砕いた管の根元。
今まで何重もの肉と管に隠れていた場所に、小さな黒い核があった。
【本体核:聖喰核】
……見つけた。
ずっと管の束と黒炎の膜に守られていた場所。
あれが、あいつの核だ。
今度こそ、間に合わせる。
「アリア! 背中の右、砕けた管の根元だ! その奥に核がある!」
アリアが立ち上がった。
「見えたわ」
アステリアを抜く。 白銀の刀身が、くーちゃんの光を映して淡く光った。
トン。
最初の一歩は、驚くほど軽かった。
タン。
聞き慣れた足音。
なのに、いつもの重さがない。
今までより、ずっと軽い。
サンクトイーターが、残った管を振り上げる。
トン。 タン。
管が右の石畳を叩いた時、アリアはもう左にいた。
「逃がさないわ」
白銀の剣が閃いた。
「《白星一閃》」
一本の白い線が、黒い核を通り抜けた。
「ギ、ィ――」
裂けた口から、潰れた声が漏れた。
核に、一本のひびが走る。
次の瞬間、それが一気に広がった。
ぱきん。
黒い核が砕けた。
サンクトイーターの身体から、力が抜ける。
今度こそ。
もう、何も動かなかった。
アリアが剣を下ろし、振り返る。
小さく頷いた。
俺も頷き返す。
それから、広場の向こうに倒れているガイを見る。
「……ガイ、倒したぞ」
返事はない。
「お前が開けた穴だった」
手の中の櫛へ目を落とす。
「……一杯、奢るんじゃなかったのかよ」
待っても、声は返ってこなかった。
「なんとか言えよ、ガイ」
「きゅーん……」
その時だった。
からん。
すぐ近くで、何かが石畳へ落ちた。
振り返る。
サンクトイーターの残骸から、
黒く汚れた何かが転がり出ていた。
くーちゃんが駆け出す。
黒い塊の前で止まり、俺を振り返った。
「きゃん!」




