第17話 盾が砕けても、番犬は笑った
広場は、もう祭りの体裁を保っていなかった。
壇上にいるのは、三メートル近い黒い魔獣。
太い四本脚。背中から伸びる何本もの黒い管。
その身体の一番上にだけ、セラフィナの顔が残っている。
聖女喰い《サンクトイーター》。
くーちゃんの毛先に、さっきの白い光がまだ薄く残っている。
もう一度、《本来評価》を向けた。
【種別:擬態捕食魔獣】
【危険度:災害級】
【特性:高位個体模倣】
「……よりによって、サンクトイーターかよ」
ガイの声が低くなる。
「知ってるのか?」
「騎士団の古い記録にあった。人の目を集める奴に化ける魔物だ。姿も振る舞いも真似る。だが、ここまで完璧に人間へ化ける奴じゃねえ」
……だったら、何かが擬態を補っていたのか?
《本来評価》の表示が更新される。
【擬態補助:祈光ヴェール・喪失】
あのヴェールが、擬態を誰にも気づかれないレベルまで完成させていたのか。
……なら、あの奇跡は?
【模倣対象:聖女奇跡】
【欠落:治癒作用】
……そういうことか。
リリアナから力を吸い、奇跡まで真似ようとした。
だが、再現できたのは光だけ。
人を治す、聖女の奇跡までは真似できなかった。
だから、痛みと危機感だけを消していた。
偽物の聖女が、偽物の奇跡を作っていたんだ。
黒い管の一本が、大きくしなった。
狙いは、逃げ遅れた母子。
「――させるかよ!」
ガイが飛び込み、大盾を真上へ構える。
直後、黒い管が盾ごとガイを叩き潰しにきた。
ごぉん、と石畳が震える。
「ぐっ……!」
ガイの膝が沈み、盾の縁から亀裂が走った。それでも、押し負けない。
「早く行け!」
母親が子供を抱え、人波の向こうへ駆けていく。
背後では、リリアナが息を切らしながら、救済されなかった三人を壇上の端へ誘導していた。
「ゆっくりで大丈夫です。こちらへ」
アリアも手を貸そうと一歩出て、黒紋の走る右脚が沈んだ。
「……っ」
剣の柄を握ったまま、悔しそうに唇を噛む。
今は、二人とも戦える状態じゃない。
「……ったく」
肩で息をしながら、ガイがこっちを見た。
「お前は行かねえのか?」
「行けるなら行きたい。普通に怖い」
「じゃあ、なんで残ってる」
一瞬、答えに詰まった。
逃げたい。
本当に、今すぐ逃げたい。
「……前に、誰かに言われたからな。見てるだけの奴は、漢じゃねえって」
ガイの眉が動いた。
「……ちっ」
別の管が、地面を這ってくる。 大盾の縁で弾きながら、ガイが俺を見た。
「……気にしてやがったのか、お前」
懐から、小さな櫛を取り出す。乱れたリーゼントへ、一度だけ通した。
「……こういう時に、それやる意味あるか?」
「意味なんてねえよ」
なんでやったんだよ。
ガイが、櫛をしまう。
「悪かったな」
「何がだ?」
ガイがサンクトイーターへ向き直る。
「お前は、見てるだけの奴じゃなかった」
「……俺が、見誤ってたぜ。透矢」
ガイがにやりと笑った。
「ま、今度一杯くらい奢ってやる」
ガイはサンクトイーターへ視線を戻した。
「クソやべえ状況だが……こういうの、燃えてくるよな」
「勘弁してくれ。最近こんなのばっかりだ」
「お前と俺で、ここをなんとかするぞ」
「きゃん!」
くーちゃんが、抗議するようにガイの足を叩いた。
「……ああ。お前もだ」
ガイの笑みが消える。
「失敗すりゃ、この聖都は終わる」
大盾を構え直し、俺の前へ出る。
「俺が止める。お前は、見ろ」
前に言われた「見てるだけ」とは、意味が違った。
今度は、俺の目を頼ってくれている。
「くーちゃん、やるぞ」
「きゅ!」
ボーロを一粒差し出すと、くーちゃんが勢いよく食べた。
白い光が広がり、視界が切り替わる。
ガイが、迫る黒い管を大盾で受け止める。 その背中越しに、蠢く管を一本ずつ追った。
ほとんどは、逃げる人間を狙って好き勝手に暴れている。
だが。
「……っ」
リリアナが胸を押さえた。
同時に、一本だけ管の根元が白く脈打ち、リリアナの身体から淡い光が引かれるように抜けていく。
……あの一本だけ、リリアナとつながってる?
《本来評価》が更新される。
【接続先:リリアナ聖印】
【吸収:聖女能力】
……見つけた。
「ガイ! 背中の右! 一本だけ白く脈打ってる!」
ガイが管を受けながら、盾越しに目を細める。
「……ああ、見えた」
「あれがリリアナの力を吸ってる!」
「なら、ぶっ壊す!」
踏み込もうとした瞬間、サンクトイーターの動きが変わった。
何本もの管が、白く脈打つ一本を庇うように集まっていく。その前へ黒い炎が膜のように広がり、飛んできた瓦礫を触れた端から灰にした。
「待て、ガイ」
外から来たものは焼く。なのに、内側ではサンクトイーター自身の黒い魔力だけが平然と行き来していた。
……自分の力しか通さないのか。
だったら、使える。
「ガイ。あいつの攻撃、返せるか?」
「どこへだ」
俺は、管の束を指した。
「あそこへ」
ガイの口元が吊り上がる。
「……なるほどな」
サンクトイーターの縦に裂けた瞳が、ゆっくりこちらへ向いた。
いや、俺じゃない。
白く光るくーちゃんを見ている。
「……その光る犬、目障りだ」
背中の黒い管が一斉に開き、その先端へ、広場の空気まで歪ませる黒炎が集まり始める。
「くーちゃん!」
「……きゅう」
黒炎が放たれた。
その真正面へ、ガイが割り込む。大盾を石畳へ叩きつけた。
「犬狙うなって、言っただろうが!」
大盾と黒炎が、激突する。
視界が一瞬で黒く染まり、盾が悲鳴みたいに軋んだ。 ガイの腕から血が飛び、黒炎の余波が頭上を吹き抜ける。
さっき櫛で整えたばかりのリーゼントも崩れ、前髪が額へ落ちた。
それでも、ガイは盾から手を離さない。
「合図しろ、透矢!」
「まだだ!」
白く脈打つ管と、黒炎の流れ、その角度を追う。
まだ、合わない。
「タイミングは、お前が決めろ!」
……こいつ、自分の盾まで俺に預けやがった。
管が、大きく白く脈打った。
「今だ! 返せ!」
「おらぁぁぁっ!」
大盾に刻まれた古傷が一斉に白く光る。
盾を捻ると、受け止めていた黒炎が反転し、そのまま管の束へ叩き返された。
「ギィィィィッ!」
黒炎をまともに受け、庇っていた管が左右へ弾け飛ぶ。その奥、白く脈打っていた一本に、深い亀裂が走った。
「やった……!」
効いた。
そう思った瞬間、ばきん、と嫌な音が響いた。
ガイの大盾が、中央から砕けた。
「ガイ!」
反射の勢いを受けきれず、身体が石畳へ投げ出される。二度、三度と転がり、口元から血が散った。
リリアナが真っ先に駆け寄り、アリアもふらつきながら後を追う。
「きゅーん……」
くーちゃんが倒れたガイの横へ走り、頬へ鼻を押しつけた。
さっき整えたばかりのリーゼントは、もう見る影もない。前髪を額へ垂らした姿は、一瞬だけ別人みたいに見えた。
「……生きてる、よな」
「勝手に殺すな」
ガイが薄く目を開けた。
口元は血だらけなのに、まだ笑っている。
「……情けねえところ、見せちまったな」
「喋らないでください!」
リリアナの声が震えた。
「もう十分です。あなたは、十分守ってくれました」
「十分、ねえ……」
ガイが小さく呟いた、その時だった。
サンクトイーターの咆哮が、広場を揺らした。
「よくも……ッ!」
亀裂の入った管が激しく脈打つ。
残った管が集まり、黒炎が膨れ上がった。
セラフィナだった顔が、歪む。
「私は聖女だ!」
「あれだけ祈られた。あれだけ崇められた! お前たちを救ったのも私だ!」
縦に裂けた瞳が、逃げ惑う人々を睨む。
「それなのに――どうして私を恐れる!」
そして、リリアナを見る。
「どうして、お前を聖女と呼ぶ!」
黒炎の熱で、広場の空気が歪む。
「お前たちを救えるのは、私だけだ!」
「もういい。全部、灰にしてやる!」
背中の黒い管が、一斉にリリアナへ向く。
先端に集まった黒炎が、さっきよりさらに膨れ上がった。
……まずい。もう、返せる盾はない。
その時、ガイの手が石畳を探った。
砕けた盾の柄を掴む。
「……ガイ?」
膝を震わせながら、それでも立ち上がる。
そして、リリアナの前へ出た。
「ガイ、もういい! 無理だ!」
「もうやめてください!」
リリアナが後ろから、その腕を掴む。
「俺は、この町を守る」
さらに半歩。
「リリアナを守る」
そこで一度だけ振り返り、俺とくーちゃんを見た。
「ついでに、お前らもだ」
「ついでかよ」
「きゃん!」
ガイが少しだけ笑った。
「……分かったよ。ついでじゃねえ」
そして、前を向く。
その向こうで、黒炎が大きく脈打った。空気が熱で歪む。
リーゼントは崩れ、血も止まっていない。手に残っているのは、もう盾と呼べるかも怪しい残骸だけだ。
それでも、ガイはリリアナの前から退かなかった。
その背中が、妙に遠く見えた。
「最後まで見とけ、透矢」
砕けた盾を構える。
「これが俺の生き様だ」
その正面で、黒炎がさらに膨れ上がった。
やめろ、ガイ。
駄目だ。
そう叫びたかったのに、声が出なかった。
ガイはもう、振り返らない。
その手に残った砕けた盾へ、小さな白い光が灯った。




