第9話 一般人、強い
――鳥居の向こうだけ、夏なのに、夜だった。
「その人、人間じゃない」
美咲さんが言った。
慈恩と名乗った男は、糸目のまま首を傾げた。
「いきなりですねえ」
頭上には、黒い津波が止まっている。
無数の死者の顔を浮かべたまま。
社の入口では、四十七匹の犬が牙をむいて固まっている。
その中心で。
男だけが、困ったように笑っていた。
どう見ても普通ではない。
けれど、霊力は感じなかった。
術を使った気配もない。
護符も、呪具も、印もない。
本当に、道を間違えた一般人にしか見えない。
一般人は、黒い津波を止めませんけれど。
「慈恩様、とおっしゃいましたわね」
「はい」
「これは、あなたが?」
頭上を指す。
慈恩様は、上を見た。
いま気づいたような顔をする。
「なんでしょうねえ」
「質問に、質問で返してもおりませんわ」
「質問で返してもいませんよー」
「では、お答えくださいませ」
「ぼくも、よく分からなくてー」
語尾が伸びた。
明らかに、何かを隠している。
坂東先生が、わたくしの前へ出た。
「何者だ」
「相談屋です」
「どこの所属だ」
「自営業ですね」
「なぜ、ここにいる」
「道を間違えまして」
「この山へ入る道は、一本しかない」
「いやー、迷いましたね」
会話になっていない。
坂東先生の額に、細い筋が浮かんだ。
「坂東先生」
止める。
「いまは、正体より先に確かめることがあります」
美咲さんを見る。
片方は人の目。
片方は犬の金色の目。
その視線は、慈恩様へ張りついたままだった。
「美咲さん。この方の、どこが人間ではないのです?」
「見えない」
「何が?」
「匂い」
美咲さんは、鼻を動かした。
「人間は、みんな、匂いがする。家族の匂い。血の匂い。怖い匂い。食べていい匂い」
隼くんを抱く腕に、力が入る。
「でも、その人には、何もない」
慈恩様には、人の匂いがない。
だから、犬へ変える術が反応しない。
四十七匹も、慈恩様を襲えないのではない。
襲う対象として認識できていない。
「人ではない、というより」
わたくしは、慈恩様を見た。
「この術の中では、人として数えられていないのですわ」
慈恩様の口元が、ほんの少し動いた。
初めて、作った笑みではない顔が見えた。
「なるほど」
「ご存じでした?」
「いえいえ」
また語尾が伸びた。
知っていた。
少なくとも、自分にこの術が効かないことは分かっていた。
「では、黒い水が止まった理由は?」
「ぼくにも」
「犬が止まった理由は?」
「さあ」
「あなたが石段を上るまで、一匹も動かなかった理由は?」
「不思議ですねえ」
「語尾を伸ばせば、すべて曖昧になると思わないでくださいませ」
慈恩様が黙った。
少し離れたところで、坂東先生が咳払いをした。
笑ったのかもしれない。
慈恩様は、頭をかいた。
「怖い方ですね」
「あなたほどではございません」
「ぼく、一般人ですよ」
「一般人は、津波を止めません」
「止まってるだけかもしれません」
「では、動かしてみてくださいませ」
「それは、ちょっと」
「動かせるのですね」
慈恩様の笑みが、少し深くなった。
答えない。
けれど、否定もしなかった。
「真琴様」
坂東先生が低く言う。
「危険です」
「分かっています」
敵かもしれない。
政府側の本命かもしれない。
大津家を失敗させるために送られた監視役かもしれない。
それでも、いまは利用できる。
慈恩様がいる間だけ、犬たちと黒い水は止まっている。
その時間で、美咲さんと隼くんを助ける方法を探す。
「慈恩様」
「はい」
「しばらく、そこに立っていてくださいませ」
「保護される感じです?」
「観察します」
「ぼくを?」
「あなたが動くと、何が動き出すか分かりませんので」
「はい」
素直に、社の入口へ腰を下ろした。
止まった犬の間で。
黒い水の真下で。
煙草を一本、取り出す。
「吸っても?」
「この状況で?」
「待ち時間みたいなので」
「ご自由に」
火がつく。
煙が、細く立ち上った。
そこで、わたくしは気づいた。
この村には風がない。
香の煙も、腐臭も、同じ場所へ溜まっている。
それなのに、慈恩様の煙だけが動いていた。
真っすぐ上へ。
黒い津波の中へ入る直前で、右へ曲がる。
「坂東先生」
「見ています」
煙は、社の奥へ流れている。
床一面の骨の、その先。
壁に見える場所へ。
そこだけ、煙が吸い込まれていた。
「空気の道があります」
慈恩様は何も言わない。
煙草を吸っているだけだ。
けれど、偶然ではない。
見えない道を示すために、煙を使った。
「あなた、最初から分かっていましたわね」
「煙は、気まぐれですから」
「あなたに似ていますこと」
社の奥へ進む。
美咲さんが、隼くんを抱いたままこちらを見る。
「来ないで」
「大丈夫です。あなたには近づきません」
床へしゃがむ。
骨の下から、冷たい空気が上がっていた。
壁ではない。
薄い板で塞いでいる。
桃木剣の柄で叩く。
向こうに空洞がある。
「隠し部屋です」
坂東先生が骨を脇へ避ける。
人の頭蓋。
犬の背骨。
小さな子どもの腕。
その下に、四角い扉があった。
床下へ続く扉。
表面に、新しい血が塗られている。
「この血……」
美咲さんを見る。
腕に傷があった。
けれど、血の匂いが違う。
もっと幼い。
隼くんの血だ。
扉を開くために使われた。
「隼くんは、一度、下へ連れていかれています」
「いまは、ここにいる」
美咲さんが言う。
「連れ戻したの」
「一人で?」
美咲さんは答えなかった。
犬へ変わりかけた身体で、弟を奪い返した。
だから変化が急に進んだのかもしれない。
床下の扉へ触れる。
冷たい。
向こうから、低い鼓動が伝わってきた。
どくん。
どくん。
神社の床下で、巨大な何かが生きている。
「犬神大明神」
呼ぶと、鼓動が一度、大きくなった。
返事をした。
慈恩様が、入口から言う。
「開けます?」
「そのつもりです」
「危ないですよ」
「知っています」
「開けないほうが、楽かもしれません」
「楽な方法を選びに来たのではございません」
慈恩様が、少しだけ笑った。
「じゃあ、一つだけ」
「何ですの?」
「下にいるものを見てから、決めてください」
「何を」
「祓うか、助けるか」
わたくしは、慈恩様を見た。
父と同じことを言った。
見て。
読んで。
そのうえで決めろ。
「あなたは、決めませんの?」
「大津家のお役目で来たのは、ぼくじゃないですからねえ」
また、語尾が伸びた。
けれど今度は、隠すためではなかった。
本当に、わたくしへ返したのだ。
坂東先生が扉の片側へ手をかけた。
わたくしも反対側を持つ。
「美咲さん。何が出ても、隼くんを離さないでください」
「分かってる」
「慈恩様」
「はい」
「犬たちを、もう少し止めておいてくださいませ」
「一般人なので、できる範囲で」
「できるのですね」
「さあー」
語尾が、さらに伸びた。
わたくしは、床下の扉へ力を入れた。
ゆっくり開く。
冷たい空気が噴き出した。
腐臭ではない。
乳の匂いがした。
暗い穴の底に、白いものが横たわっている。
巨大な犬だった。
腹を裂かれ。
四本の脚を杭で床へ打ちつけられ。
それでも、何十匹もの子犬へ乳を与えていた。
子犬たちは、すべて人の顔をしていた。
犬神村。鳥居の向こうは、夏なのに、夜でした。
音もなく、風もなく、時間だけが止まっている。
真琴と坂東は、その異界へ、足を踏み入れました。
――先に村へ入ったのは、真琴でした。慈恩は、まだ。
ここから、ほんとうの怖さが始まります。
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