第10話 音の死んだ村
千年続く陰陽師の家に生まれたお嬢様・真琴が、父の代わりに踏み込んだのは、地図から消えた村でした。
蛙も鳥も鳴かない。風さえ入らない。
——けれど、臭いだけがある。
見えないものが、いちばん怖い。
「ええ——」
真琴は、まず、"静けさ"を感じた。
ただ静かなのではない。
音が、死んでいた。
夏山であるはずなのに、蛙が鳴いていない。
鳥もいない。
羽虫の震えるような羽音さえ、どこにもない。
風すら、森の中へ入るのを拒まれているようだった。
ただ、自分たちの足音だけが、湿った土の上で、ぼそ、ぼそ、と鈍く返ってくる。
その音が妙に生々しくて、真琴は無意識に呼吸を浅くした。
——異界、というほどではない。
そう思う。
けれど、正常な世界でもない。
現実から、半歩だけ外れている。
たった半歩。
だが、その半歩のずれが、人間を戻れなくする。
森は深かった。
枝葉が空を覆い、昼だというのに薄暗い。
湿った空気が肌へ貼りつく。
その湿気の奥に、別の臭いが混じっていた。
獣の臭い。
しかも、生きた獣ではない。
腐った獣のような臭いだった。
濡れた毛皮が泥に沈み、腹を裂かれ、内臓が夏の熱で膨らみきったような臭い。
古い血と腐肉が、水に溶けた臭い。
真琴の喉が、ひゅ、と細く鳴った。
——臭う。
——何か、死んでいますわ。
でも、どこにも死骸は見えない。
見えないのに、臭いだけがある。
それが余計に怖かった。
坂東は無言で前を歩いていた。
紺の作務衣の背中が、いつもよりわずかに硬い。
——坂東先生も、感じてらっしゃる。
二人は、鳥居の先の細道を進む。
地面にはぬかるんだ黒い水が溜まり、踏むたびに、ぢゅ、と嫌な音を立てた。
その水は妙に冷たい。
夏の山水の冷たさではない。
井戸の底に長年沈んでいたものに触れたような冷たさだった。
森の奥から、ときおり、水音が聞こえる。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
何かが、水の中へ落ちる音。
けれど振り向いても、そこには誰もいない。
真琴は、見ないようにして歩いた。
しばらく進むと、視界が開けた。
——あ。
村だった。
谷間の平地に、崩れた家々が点在している。
八戸。
十戸。
いや、それより少ないかもしれない。
家々は、ほとんど腐っていた。
屋根は崩れ落ち、柱は黒く湿り、壁には蔦が這い回っている。
だが——
おかしい。
二十三年放置された程度の崩れ方ではない。
もっと古い。
もっと長い。
まるで百年、雨に打たれ続けたような朽ち方だった。
木材は黒ずみ、腐った梁には白い菌糸がびっしり絡みついている。
床下には黒い水が溜まり、その水面に油のような膜が揺れていた。
その臭いが、また酷かった。
獣が腐った臭い。
泥水に沈んだ肉の臭い。
長い時間、水の底で膨らみ続けた死体の臭い。
真琴は思わず袖口を口元へ寄せた。
——臭い。
——これ、人の住む場所じゃありませんわ。
「お嬢」
坂東が低く言う。
「家屋の劣化が異常です」
「ええ……」
真琴は頷いた。
「異界化が進行しています」
「時間の流れが違う、ということですの?」
「ええ。内部だけ、時間が加速している可能性が高い」
真琴は、崩れた家々を見つめた。
村そのものが、腐りながら沈んでいる。
世界から切り離され、ゆっくり、静かに、別の場所へ落ち続けている。
その時だった。
——ちゃぷん。
水音。
真琴は振り返った。
家と家の間。
黒い水溜まり。
その水面が、ゆらり、と揺れていた。
何かがいた。
黒い。
低い。
獣のような影。
だが次の瞬間には、もう消えている。
「っ——」
真琴の背筋が総毛立った。
「先生」
「ええ」
「今、見えましたわ」
坂東の目が細くなる。
「何を」
「……犬、みたいな」
その瞬間。
村の奥から。
ぐちゅ。
と、何か湿った音がした。
肉を踏み潰したような音。
それに続いて。
ずる、ずる、ずる。
何かを引きずる音。
真琴は息を止める。
坂東も動かない。
音だけが近づいてくる。
ずる。
ずる。
水を掻く音。
湿った毛が地面を擦る音。
けれど、何も見えない。
なのに臭いだけが強くなる。
腐臭。
濡れた獣臭。
腐った犬の腹を裂いたような臭い。
真琴の胃がきり、と縮んだ。
——いる。
——絶対、いる。
でも、見えない。
その時。
最初の家屋の戸口の奥で、何か白いものが動いた。
ふわり。
人影のようにも見えた。
濡れた犬の腹のようにも見えた。
「……!」
真琴は反射的に結界札を取り出した。
札を戸口へ貼る。
ぱち、と小さな火花のような光が散った。
その瞬間。
家の奥から。
——クゥゥゥゥ……
低い唸り声が響いた。
犬だった。
だが、普通の犬の声ではない。
喉の奥が腐り、水に濡れたような、ぶくぶくした声。
まるで肺の中に泥水でも詰まっているみたいな声だった。
真琴の首筋を冷たい汗が流れる。
「先生」
「ええ」
「いますわ」
坂東は静かに桃木剣へ手をかけた。
「お嬢。後ろへ」
「いえ」
真琴は首を振る。
恐怖で膝が震えている。
それでも、目だけは戸口から逸らさなかった。
「わたくしのほうが、"見える"側ですもの」
戸口の奥。
暗闇の中。
そこに、いた。
四足。
濡れた毛。
異様に長い前脚。
そして——
人間みたいな白い歯だけが、暗闇の中でぬらりと浮かんでいた。
その口から、黒い水が、ぽたり、ぽたり、と畳へ落ち続けていた。
家の中は、暗かった。
ただ暗いのではない。
湿っていた。
空気そのものが、長いあいだ陽を浴びていないような、冷たく濁った湿気を含んでいる。
床板は水を吸って黒く膨れ、畳は腐り、壁紙は垂れ下がっていた。
どこかで、水が落ちる音がする。
ぽた。
ぽた。
ぽた。
その音だけが、家の奥から静かに響いていた。
「お嬢」
「……ええ」
真琴は上がり框を跨ぎ、家の中へ足を踏み入れる。
その瞬間。
腐臭が、濃くなった。
獣の臭いだった。
濡れた毛皮。
腐った腹。
泥水に沈んだ肉。
しかも新しい臭いではない。
何十年も床下で腐り続けたものが、湿気と一緒に滲み出している臭い。
真琴は思わず眉を寄せた。
——臭う。
——この家、まだ、"いる"。
居間があった。
古いちゃぶ台。
倒れた茶碗。
腐った座布団。
時間だけが、そこで止まっている。
そして。
畳の上に、それはあった。
人の形。
真琴は、その場で止まった。
黒い染み。
だが、ただの染みではない。
頭の輪郭。
肩。
腕。
背中。
腰。
人間が、仰向けに倒れた形そのままに、畳へ焼き付いていた。
色は黒。
けれど、その中心だけが、赤茶けている。
乾ききった血の色だった。
「……っ」
喉が鳴る。
死体はない。
なのに、"死"だけが残っている。
しかも。
その染みは、妙に濡れて見えた。
二十三年前の血痕のはずなのに。
じわり。
じわり。
まるで今も畳の奥から血が滲み続けているみたいだった。
「先生……」
坂東も、それを見ていた。
「犠牲者でしょう」
低い声だった。
真琴は、目を逸らせなかった。
——ここで、死んだ。
——逃げられなかった。
——犬に、食われた。
その想像が、頭に浮かんだ瞬間。
ぶち。
何かが、脳の奥で切れた。
視界が揺れる。
畳の染みが、動いた。
「……え?」
染みが、膨らむ。
黒い平面だったはずのものが、ゆっくり、立体になる。
肉。
赤黒い肉が、畳の奥から押し出される。
筋繊維。
脂。
裂けた皮膚。
肋骨。
人間の形が、畳から這い出てくる。
「っ!!」
真琴は後ろへ飛び退いた。
「先生!!」
坂東が真琴の肩を掴む。
「何が見えました!」
「肉が……!」
喉が震える。
「染みから、肉が出てきましたわ……!」
その瞬間。
——ぐちゃ。
音がした。
真琴は凍りつく。
畳の染みの上。
そこへ。
水が、落ちていた。
ぽたり。
黒い水。
いや。
血と泥が混ざったような、濁った液体。
それが、天井から落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
真琴は、ゆっくり上を見た。
天井板。
黒く染みている。
その中央が、微かに膨らんでいた。
何かが…いる。
天井裏に…
死体はないのに、"死"だけが残っている。
真琴が見たのは、犬に喰われた誰かの、消えない形でした。
そして今、その頭上で——天井裏の何かが、こちらを覗いています。
次回、真琴の目が捉えるものとは!!




