第11話 その命令には従えません
人でないものを見て、心が壊れなかったら——それは、もう人間ではありません。
恐怖の果てに、真琴の身体は限界を超えます。
けれど、そこにいたのは、それを恥と呼ばない大人でした。
折れかけたお嬢様が、もう一度立つまでの話。
赤い護符から、焦げた髪の匂いがした。
まだ火はついていない。
それなのに、地下の温度が上がっていく。
白犬の腹にいた子犬たちが、一斉に身を寄せた。
「待ってください」
わたくしは、黒い狩衣の男との間に立った。
「何を待つ」
「ここにいるのは、化け物ではありません。失踪した方々です」
「だから焼くんだ」
男は、何でもないことのように言った。
「人へ戻せる保証はない。地上には、すでに犬になった者が四十七。さらに二人が術へ取り込まれかけている。被害が村の外へ広がる前に処分する」
処分。
人の名前を、たった二文字で消した。
「野上雅人さん」
わたくしの足元で、人の顔をした子犬が震えている。
「片桐奈緒さんもいます。ほかの方にも、全員、名前があります」
「名簿は読んだ」
「でしたら」
「名前があれば、人間なのか?」
言葉に詰まった。
男の護符が赤く光る。
「人の身体を失い、人の言葉もほとんど失った。家族を襲い、食らった者もいる。それを地上へ連れ帰って、誰が面倒を見る」
正しい問いだった。
だからこそ、腹が立った。
この男は、答えがないことを知っている。
答えがないから、燃やしてしまえばいいと言っている。
「国が見捨てた村です」
男の眉が、わずかに動いた。
「最初の失踪で調べていれば、四十七人にはならなかった。危険だと分かっていて、うちの父を先に寄こした。父が動けなければ、次はわたくしです」
「大津家は了承した」
「報告書には、犬の群れとしか書かれていませんでした」
「現場では、想定外も起こる」
「想定していなかったのではなく、確かめる役を押しつけたのでしょう」
男の後ろで、二人の術者が目を伏せた。
図星らしい。
「大津真琴」
男が、わたくしの名を呼ぶ。
「君は現場で恐怖に負け、任務を放棄した。戻ってきた判断は評価するが、指揮権はない」
胸の奥を、細い針で刺された。
逃げた。
漏らした。
その事実は変わらない。
けれど。
「はい。わたくしは逃げました」
桃木剣を下ろす。
剣先を男へ向けるためではない。
足元の雅人さんを、傷つけないために。
「ですから、逃げた人間がどういう顔で戻ってくるのか知っています」
雅人さんが、わたくしを見上げた。
「この方々にも、戻る場所を選ぶ権利があります」
「選べる状態ではない」
「決めつける前に、聞きます」
男は小さく息を吐いた。
「三分やる」
「え?」
「三分で、人へ戻せる証拠を示せ。できなければ焼く」
赤い護符を、柱へ向けたまま告げる。
猶予ではない。
失敗するところを見届けるための時間だ。
「三分って、短いですねえ」
慈恩様が、ようやく口を開いた。
「部外者は黙れ」
「はいはい」
そう言いながら、白犬の額から手を離さない。
「真琴ちゃん。柱、よく見たほうがいいですよ」
八本の石柱。
家の名字。
その下に刻まれた、生贄の名前。
古いものほど深い。
新しい美咲と隼の文字は、表面に浮いているだけだった。
何かが違う。
「坂東先生。記録を」
先生から村の古文書を受け取る。
最初の生贄は、白い犬。
次は、よそ者。
飢饉が起きるたび。病が流行るたび。村で悪いことが起きるたび。
八つの家が、一人ずつ差し出した。
けれど、名簿の名字は八家だけではない。
「これは、家の術ではありません」
石柱へ手を当てる。
冷たい。
ただ、藤原の柱だけが、人肌のように温かかった。
「八家が生贄を出して術を守ったのではない。八家が、生贄を選ぶ権利を守ってきた」
罪を負う者を、村の有力者が決めた。
よそ者。
身寄りのない者。
逆らった者。
家にとって都合の悪い者。
犬へ変えたあとなら、何を言っても人の言葉には聞こえない。
「犬神の呪いなどではない」
白犬を見る。
「人が、人を黙らせるための仕組みです」
柱の文字が、ざわりと動いた。
四十七人の名が、石の上を虫のように這う。
やはり。
術は、見破られたことを嫌がっている。
「あと一分だ」
男の声。
人へ戻すには、変化の術を解かなければならない。
だが、術は村全体へ伸びている。
一本の柱を壊せば、白犬が死ぬ。
八本とも壊せば、中の魂まで消えるかもしれない。
壊すのではない。
役目を終わらせる。
「雅人さん」
しゃがんで、子犬と目を合わせる。
「あなたは、ご家族を食べましたか?」
子犬の顔が歪んだ。
喉の奥から、細い音が漏れる。
「……お、と……と」
弟。
「食べたのですか?」
雅人さんは、首を横へ振った。
「食べろと、言われた?」
今度は縦に振る。
「それでも、拒んだ」
また、縦に振った。
人の身体は奪われた。
言葉も奪われた。
それでも、自分で選ぶ力までは奪われていない。
「証拠は、この方です」
わたくしは立ち上がった。
「犬の姿でも、人として選んでいます」
「詭弁だ」
「では、あなたの命令に従うだけの術者は、人間ですか?」
後ろの二人が顔を上げた。
男の目が冷たくなる。
「時間だ」
護符に火がついた。
赤い炎が、音もなく立ち上がる。
「慈恩様!」
「ぼくが止めると、あとで話が面倒なんですよねえ」
慈恩様は動かない。
助けないのではない。
わたくしが、何を選ぶか待っている。
なら。
わたくしは桃木剣を床へ置いた。
懐から、大津家の銀の札を出す。
陰陽師が任務を受けたときに持つ、身分の証。
父から預かったものだ。
それを、藤原の柱へ押し当てた。
「大津家は、本件から手を引きます」
「何をしている」
「これは討伐ではありません。証拠隠滅です」
銀の札に、ひびが入った。
家の名を使って結んだ契約を、わたくし自身が切る。
父に叱られる。
陰陽師を続けられなくなるかもしれない。
それでも。
「その命令には、従えません」
札が割れた。
澄んだ音が、地下に響いた。
八本の柱から、文字が浮かび上がる。
四十七人分の名前。
名前は白い光になり、それぞれの子犬へ戻っていった。
雅人さんの身体が、大きく震えた。
前足が、指へ変わる。
「戻っている……」
坂東先生が息をのんだ。
人へ戻す鍵は、柱を壊すことではなかった。
術を正しいものとして扱う者が、従うのをやめること。
生贄を選ぶ側から、降りること。
それだけだった。
「止めろ!」
男が、燃える護符を放った。
わたくしは動けなかった。
護符が、目の前で止まる。
二本の指が、赤い炎を挟んでいた。
「いやあ」
慈恩様が、わたくしの隣に立っている。
「話が面倒になるほうを選びましたねえ」
指先で護符を潰す。
炎が消えた。
ほっとしたのは、一瞬だった。
白犬が、低く鳴いた。
四本の黒い杭が、ひとりでに抜けていく。
柱から解放されたせいではない。
杭の下に隠れていたものが、目を覚ましたのだ。
白犬の裂けた腹の奥。
子犬たちより、さらに深い場所で。
誰かが笑った。
「やっと、八つの家が手放した」
美咲さんの声だった。
けれど、美咲さんはここにいない。
「これで、全部、私のもの」
藤原の柱が、内側から割れた。
失神も、嘔吐も、失禁も、身体があなたを守った証。
——お父上も、初めての役目で、同じ道を通りました。
坂東のその一言に、真琴はようやく、自分を許します。
着替えて、覚悟を決めて、もう一度村の奥へ。
けれど背後の戸の向こうから——カタ、カタ、と、何かが動く音。




