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京都陰陽師・真琴の怪異譚  作者: K3
犬神の里

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第12話 姉のふりをするもの

人でないものを見て、心が壊れなかったら——それは、もう人間ではありません。

恐怖の果てに、真琴の身体は限界を超えます。

けれど、そこにいたのは、それを恥と呼ばない大人でした。

折れかけたお嬢様が、もう一度立つまでの話。


 藤原の柱が、縦に裂けた。


 中から出てきたのは、黒い髪だった。


 一本や二本ではない。


 濡れた髪の束が、石の割れ目から床へ流れ落ちる。


 土と、古い血の匂いがした。


「美咲さん?」


 返事の代わりに、髪が伸びた。


 人へ戻りかけていた雅人さんの足へ巻きつく。


「離れなさい!」


 桃木剣で髪を払う。


 手応えがない。


 刃は抜けたはずなのに、切れた髪が床で蠢き、また雅人さんへ向かった。


「真琴様、ほかの方々も!」


 坂東先生の声に振り返る。


 白犬の腹から落ちた子犬たちが、苦しそうに身をよじっている。


 人へ戻りかけた手が、また前足へ変わる。


 浮かび上がった名前も、黒ずみ始めていた。


「やはり失敗したな」


 黒い狩衣の男が、新しい護符を抜いた。


「違います」


「結果を見ろ」


「いま、見ています」


 言い返しながら、頭の中で数える。


 八本の柱。


 割れたのは藤原だけ。


 声は美咲さん。


 けれど、彼女はいま地上にいる。


 弟を抱き、自分が食べてしまうことを恐れていた。


 もし人を食う側なら、あんな顔はしない。


「姉ちゃん」


 小さな声がした。


 髪の奥からだ。


「助けて」


 隼くんの声。


 胸が動く。


 一歩、柱へ近づいた。


「真琴ちゃん」


 慈恩様に呼ばれ、足を止める。


 慈恩様は柱ではなく、わたくしを見ていた。


「何が聞こえました?」


「隼くんです。助けて、と」


「ぼくには、犬が鳴いてるようにしか聞こえませんねえ」


 耳を澄ます。


「姉ちゃん。暗いよ」


 確かに、隼くんの声だ。


 だが。


 隼くんが呼ぶ姉は、美咲さんである。


 わたくしではない。


 こちらを動かしたいなら、わたくしの名前を呼ぶはずだ。


「声を借りているだけです」


 わたくしが下がると、髪が床を叩いた。


 怒っている。


「おまえは、何者ですの?」


 柱へ問う。


 髪の間から、白い顔が浮かんだ。


 美咲さんの顔。


 口だけが、耳まで裂けている。


「私だよ」


「美咲さんは、自分を『私』とは言いません」


 笑みが止まった。


 地上で会った美咲さんは、自分を「お姉ちゃん」と呼んだ。


 弟を安心させるために。


 犬になりかけても、そこだけは変わらなかった。


「あなたは、美咲さんではない」


 顔が、ぐにゃりと崩れた。


 若い女。


 老人。


 子ども。


 いくつもの顔が、髪の中で入れ替わる。


「では、何だ」


 政府の男が問う。


「生贄を選ばせていたものです」


 村人が作った仕組み。


 それだけではない。


 長く続いた仕組みは、そこで死んだ人の恨みを吸った。


 選ばれたくない。


 だから、誰かを選ぶ。


 自分だけは助かりたい。


 その思いが重なって、意思を持った。


「名前は、ありません」


「あるよ」


 髪の中の口が言った。


「犬神」


 白犬が低く唸った。


 黒い髪が、びくりと縮む。


 嫌がっている。


「その名も、この子から奪ったのでしょう」


 白犬は最初の生贄だった。


 名を奪われ、災いの名を押しつけられた。


 目の前のこれは、その名に隠れて人を選び続けたものだ。


「名がないなら、祓える」


 男の護符が光る。


「お待ちください」


「まだかばうのか」


「これはかばいません」


 桃木剣を構える。


「ですが、いま焼けば、つながっている四十七人も巻き込まれます」


「なら、切り離せ」


「そのために、美咲さんが必要です」


 黒髪が笑った。


「来ないよ」


 今度は、美咲さんの声ではなかった。


 何人もの声が重なっている。


「あの子は、弟を食べる」


 地上から、犬の遠吠えが聞こえた。


 一匹。


 続いて、もう一匹。


 遠吠えが近づいてくる。


 地上にいた犬たちが、神社へ集まっている。


「先生。隼くんたちは?」


 坂東先生が、顔色を変えた。


「拝殿です。結界の中に」


 床が揺れた。


 天井の土が落ちてくる。


 黒髪の一部が、地面へ潜った。


 拝殿へ向かっている。


「行きます」


 梯子へ走る。


「逃げるのか」


 男の声が背中へ刺さった。


「救いに行くのです」


「ここを放置すれば、全員が再び犬になる」


 分かっている。


 地下を離れれば、黒髪が四十七人を奪う。


 残れば、美咲さんと隼くんが危ない。


 一人では、両方を守れない。


 だから。


「あなたのお名前は?」


 男を見る。


「何?」


「役職ではなく、お名前です」


 男は、答えなかった。


「人に名前があるとおっしゃるなら、ご自分も名乗ってください」


 黒髪が子犬を引き寄せる。


 時間がない。


「……黒瀬」


「下のお名前も」


「黒瀬征一だ」


「黒瀬様。ここをお願いします」


 男の目が見開いた。


「私に命令するな」


「お願いです」


 頭を下げる。


「焼かずに、三分だけ持たせてください」


「できなければ」


「わたくしが戻って、責任を取ります」


「命でか」


 喉が詰まった。


 死ぬのは怖い。


 先ほど逃げたことを認めたばかりで、勇敢なふりはできない。


「分かりません」


 正直に答えた。


「ですが、戻ります」


 黒瀬様は、しばらく黙っていた。


 やがて燃える護符を、黒髪ではなく床へ突き立てた。


 炎が円を描き、子犬たちを囲む。


 熱はある。


 けれど、燃えない。


 黒髪だけが、火を嫌って後ろへ下がった。


「三分だ」


「ありがとうございます」


「礼は、戻ってから言え」


 梯子を上る。


 慈恩様もついてくる。


「地下に残ってくださらないのですか?」


「黒瀬さん、強いですよ」


「ですが」


「それに、真琴ちゃんの三分って、たぶん地上のほうが大変でしょう」


 拝殿へ出た瞬間、冷たい風が顔へ当たった。


 外は、犬で埋まっていた。


 石段。


 境内。


 鳥居の向こうまで。


 何十匹もの犬が、拝殿を見つめている。


 吠えない。


 ただ、口元から涎を垂らしていた。


 結界の中央で、美咲さんが隼くんを抱いている。


 美咲さんの顔は、もうほとんど犬だった。


 隼くんの首へ、牙を当てている。


「来ないで!」


 美咲さんが叫んだ。


 声は、まだ人だった。


「もう、抑えられない!」


 隼くんは泣いていない。


 姉の首へ、両腕を回していた。


「大丈夫」


 小さな手が、犬の毛を撫でる。


「姉ちゃんは、ぼくを食べないよ」


 美咲さんの牙が、首の皮膚へ食い込んだ。


 血が一滴、落ちた。


 地下から、黒瀬様の声が響く。


「あと二分だ!」



失神も、嘔吐も、失禁も、身体があなたを守った証。

オシガマの地獄企画の結果だな ('ω')


——お父上も、初めての役目で、同じ道を通りました。


坂東のその一言に、真琴はようやく、自分を許します。

フォローになっていないがな( 一一)


けれど背後の戸の向こうから——カタ、カタ、と、何かが動く音。

カサカサもいるよ。

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