第13話 食べないと決めた
蛙の鳴かない村を抜けた先に、蔦に呑まれた社がありました。
古い血と、新しい血の匂い。
——最近、ここで、誰かが。
犬を祀るはずの神が、いま何になっているのか。真琴は、その姿を見てしまいます。
血の匂いで、犬たちが動いた。
境内を埋めていた顔が、一斉に上がる。
牙の間から、低い唸り声が漏れた。
「慈恩様。犬たちを」
「止めるだけでいいですか?」
「傷つけないでください」
「注文、多いですねえ」
慈恩様が片足で地面を踏んだ。
乾いた音が、一つ。
拝殿を中心に、薄い煙が円になって広がる。
犬たちは走り出した。
けれど、煙の線を越えた瞬間、同じ場所へ戻される。
何度走っても、鳥居の外へ出てしまう。
「長くは持ちませんよ」
「十分です」
十分でなければならない。
美咲さんの牙は、隼くんの首に触れている。
血は一滴だけ。
まだ、噛み切ってはいない。
「美咲さん。聞こえますか?」
「来ないで!」
「そちらへは行きません」
足を止める。
桃木剣も床へ置いた。
「何をしているの?」
「わたくしが近づけば、あなたは隼くんを守ろうとします。いまは、その気持ちまで術に利用されます」
美咲さんの耳が伏せられた。
理解している。
「だから、ここで話します」
地下のものは、美咲さんを操っているのではない。
姉なら弟を守れ。
家族なら自分を犠牲にしろ。
その思いを、食べる命令へすり替えている。
「隼くん」
男の子が、こちらを見た。
「お姉さんから離れられますか?」
「いや」
すぐに答えた。
「このままでは、噛まれます」
「姉ちゃんは噛まない」
「もう血が出ています」
「それでも」
隼くんは、美咲さんの首を強く抱いた。
「ぼくが離れたら、姉ちゃん、一人になる」
美咲さんの喉が震えた。
泣き声だった。
それでも牙は離れない。
優しい子だ。
だから危ない。
この村の術は、優しい者から食べる。
「隼くん。それは、あなたが決めたことですか?」
「ぼくが決めた」
「本当に?」
「本当だよ!」
「お姉さんを一人にしたらいけない、と誰かに言われませんでしたか?」
隼くんの口が止まった。
「お母様に?」
目が揺れた。
当たった。
「お姉ちゃんなんだから、弟を守りなさい。男の子なんだから、お姉ちゃんを守りなさい。そう言われ続けたのではありませんか?」
「それの、何が悪いの」
美咲さんが、牙の間から言った。
「悪くありません」
わたくしにも覚えがある。
大津家の娘だから。
陰陽師だから。
父が行けないなら、わたくしが行く。
それを自分で選んだつもりだった。
「ですが、守れないときまで守らなくていい」
美咲さんの目から涙が落ちた。
「では、どうすればいいの」
「助けて、と言ってください」
「もう、言った」
「隼くんにです」
美咲さんが固まった。
姉が、弟へ助けを求める。
守る側が、守られる。
この姉弟には、許されてこなかったことだ。
地下から声がした。
「あと一分!」
黒瀬様。
犬たちが、煙の境を何度も引っかく。
慈恩様の額に、汗が浮かんでいた。
「美咲さん」
わたくしは待った。
答えを代わりに言ってはいけない。
牙が、隼くんの皮膚へさらに沈む。
隼くんの顔が痛みで歪んだ。
それでも、姉を抱く腕を離さない。
「……隼」
美咲さんが呼んだ。
「うん」
「お姉ちゃんを」
息を吸う。
「助けて」
隼くんは、目を見開いた。
それから。
「うん」
姉の首から、腕を離した。
小さな両手を、美咲さんの口へ当てる。
無理に牙を外すのではない。
頬を包んだ。
「姉ちゃん。ぼくを食べたくない?」
「食べたく、ない」
「ぼくも、食べられたくない」
美咲さんの身体が震えた。
隼くんは、はっきり言った。
「だから、離して」
姉だからではない。
弟だからでもない。
二人が、それぞれ自分の望みを口にした。
牙が抜けた。
隼くんの首から、細い血が流れる。
美咲さんは自分から後ろへ下がった。
「食べない」
一歩。
「私は、隼を食べない」
もう一歩。
「お姉ちゃんだからじゃない」
犬の顔が、少しずつ人へ戻っていく。
「私が、食べたくないから!」
叫びと同時に、藤原家の家紋が美咲さんの額に浮かんだ。
黒い印。
それが、中央から割れた。
境内の犬たちが、一斉に倒れる。
地面の下で、何かが絶叫した。
美咲さんの髪が黒く戻る。
手も、足も、人の形になった。
服は破れたまま。
身体中に傷がある。
それでも、人だった。
隼くんが駆け寄る。
「待って」
美咲さんが片手を上げた。
隼くんの足が止まる。
「いまは、触らないで」
「うん」
「でも、そこにいて」
「うん」
隼くんは、一歩分の距離を空けて座った。
美咲さんも、その場へ座り込む。
二人は触れない。
でも、離れなかった。
「よく、言えましたね」
わたくしが近づこうとすると、美咲さんは首を横へ振った。
「まだです」
声が震えている。
「まだ、食べたい気持ちが残っています」
自分で気づいた。
自分で、距離を選んだ。
「分かりました。そこにいてください」
地下から、爆発音がした。
拝殿の床板が跳ね上がる。
赤い火柱が噴き出した。
「三分だ!」
黒瀬様の声。
「もう持たん!」
急いで床下へ戻る。
熱風が梯子を上ってきた。
地下では、炎の輪が半分まで破られていた。
黒瀬様は片膝をつき、燃える護符を両手で押さえている。
黒い髪が、その腕へ食い込んでいた。
「遅い」
「申し訳ありません」
「結果は」
「美咲さんが、自分で拒みました」
藤原の柱を見る。
新しく刻まれた二つの名。
《美咲》
《隼》
文字に、ひびが走る。
二人の名前が、石から剥がれ落ちた。
黒髪が悲鳴を上げる。
ほかの七本の柱へ逃げようとした。
「させません」
桃木剣で、黒髪を床へ縫い止める。
今度は手応えがあった。
美咲さんが拒んだことで、藤原家とのつながりが切れた。
声も、顔も借りられない。
黒髪の中に、醜い肉の塊が現れる。
口だけが、いくつもついていた。
「食べろ」
「おまえが食べられる前に」
「選べ」
「誰か一人を差し出せ」
違う声で、同じことを繰り返す。
黒瀬様が護符を構えた。
「切り離したな」
「まだです」
「藤原からは外れた」
「七家が残っています」
子犬たちは、炎の中で震えている。
四十七人を救うには、残る七家にも選ぶことをやめさせなければならない。
だが、村に人はいない。
七家の子孫が、どこにいるかも分からない。
「時間を稼ぎます。子孫を捜してください」
「何日かかると思っている」
「では、ほかに――」
白犬が、身体を起こした。
四本の杭は、すでに抜けている。
裂けた腹から血を流しながら、黒い塊の前へ立った。
「駄目です」
白犬は振り返らない。
黒い塊が、笑った。
「また、代わりになるのか」
白犬が、大きく口を開ける。
食べるつもりだ。
何百年もそうしてきたように。
人の罪を、自分の腹へ戻そうとしている。
「それでは、何も変わりません!」
わたくしは、白犬の首へしがみついた。
毛は冷たく、血で濡れていた。
「今度は、あなたが決めてください」
白犬の動きが止まる。
「守るか、守らないかではありません」
大きな目が、わたくしを見る。
「あなたは、どうしたいのですか?」
白犬の喉から、かすれた音が出た。
犬の声ではなかった。
「……かえり、たい」
逆さに吊られた女。頭を砕かれた狛犬。背後から垂れる、濡れた黒髪。
『かえして。わたしの、こども。いぬに、たべられた』
そして社の奥から立ち上がったのは、犬でも人でもない、何個もの顔を持つ巨大な影。
『ミツケタ』
弾ける結界札。溢れ出す黒い水の津波。——ここからが、本当の対峙です。




