第14話 名前を返す
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ぜひお楽しみに!
「帰りたい」
白犬は、もう一度言った。
声は幼かった。
これほど大きな身体から出たとは思えないほど、小さな声。
「どこへですか?」
白犬は、答えられない。
鼻を鳴らし、地下の天井を見上げた。
地上ではない。
もっと遠い場所を見ている。
黒い肉の塊が、床を這った。
「帰る場所などない」
いくつもの口が笑う。
「家は焼けた」
「飼い主は死んだ」
「おまえの名を覚える者はいない」
白犬の身体が縮こまった。
「聞いてはいけません」
首へ回した腕に力を入れる。
けれど、黒い声は止まらない。
「おまえは犬神だ」
「人を食うものだ」
「それ以外には、なれない」
白犬の裂けた腹が開く。
子犬たちが、また中へ引かれ始めた。
「黒瀬様!」
「分かっている!」
炎の輪が高くなる。
黒い塊は焼けない。
煙になり、炎の上を越えていく。
七本の柱へ、細い筋が伸びた。
「柱を使わせないでください!」
「七本同時は無理だ!」
「三本、お願いします!」
「残りはどうする」
「わたくしが四本」
「無茶を言うな」
「先ほど、わたくしに無茶を言ったでしょう」
黒瀬様の口元が歪んだ。
笑ったのか、怒ったのかは分からない。
三枚の護符が飛ぶ。
北側の柱へ張りつき、黒い筋を弾いた。
わたくしは桃木剣を抜く。
残り四本。
一本目を剣の柄で打つ。
壊さない。
石に刻まれた文字だけを、銀の札の欠片で削る。
《生贄》
その二文字へ横線を引いた。
柱が震えた。
黒い筋が離れる。
二本目。
三本目。
手の皮が破れた。
銀の欠片に、血がつく。
四本目へ走る。
黒髪が足首へ絡んだ。
転ぶ。
桃木剣が床を滑った。
「選べ」
足元の口が囁く。
「白犬を差し出せば、四十七人は戻る」
「四十七人を焼けば、白犬は自由になる」
「一人か、四十七人か」
まただ。
どちらを選んでも、誰かを生贄にする。
この術は、いつも二つしか道がないように見せる。
「選びません」
「選ばなければ、全員死ぬ」
「それも、あなたが用意した答えです」
黒髪を手でつかむ。
冷たい泥のような感触。
引きちぎり、四本目の柱へ這う。
銀の欠片を押し当てる。
《生贄》の文字へ、線を引いた。
七本の柱から、黒い筋が消えた。
黒い塊が大きく膨らむ。
「家が手放しても、犬神がいる!」
白犬の身体から、黒い煙が噴き出した。
そうだ。
柱とのつながりを切っても、名が残る。
犬神。
人を食う化け物として押しつけられた名前。
その名がある限り、白犬は術の中心から降りられない。
「この子の、本当の名前を調べます」
「記録にはないぞ」
坂東先生が古文書をめくる。
「最初のページが破られています。犬を捧げた、としか」
名前を知る者はいない。
白犬自身も、覚えていない。
何百年も呼ばれなかった名前を、いまから捜す時間はない。
「名前は、昔のものでなければ駄目ですか?」
口に出してから、自分で気づいた。
名前は、縛るためだけにあるのではない。
呼ばれた者が、振り返るためにある。
「白犬さん」
大きな耳が、こちらへ向いた。
「あなたは、昔の名前を取り戻したいですか?」
白犬は動かない。
「それとも、新しい名前が欲しいですか?」
黒い塊が叫ぶ。
「犬に選べるものか!」
「黙りなさい」
低い声が出た。
わたくしの声だった。
「この方へ聞いています」
白犬の前へしゃがむ。
「帰りたい場所を、覚えていますか?」
白犬は目を閉じた。
鼻先が、ゆっくり動く。
何かの匂いを探している。
「……ひ」
「火、ですか?」
首を横へ振る。
「……ひなた」
日の当たる場所。
「ほかには?」
「ちいさい、て」
子どもの手。
「その子の名前は?」
「わからない」
「顔は?」
「わからない」
それでも、手の温かさは覚えている。
名前より先に。
顔より長く。
「その子のところへ帰りたいのですか?」
白犬は、首を横へ振った。
「では、どこへ」
「あのこ、もう、いない」
目から涙が落ちた。
「だから」
一度、息を吸う。
「こんどは、ぼくが、まつ」
胸の奥が痛んだ。
帰るとは、昔へ戻ることではなかった。
誰かが来られる場所へ行くこと。
日の当たる場所で、今度は自分が待つこと。
「でしたら」
白い毛へ触れる。
「陽向――ひなた、という名前はいかがですか?」
白犬が、目を開けた。
「あなたが覚えていた場所の名前です」
大きな尻尾が、床を一度叩いた。
黒い塊が暴れる。
「違う!」
「おまえは犬神だ!」
「おまえは災いだ!」
白犬は、黒い塊を見た。
今までのように怯えない。
「ぼくは」
ゆっくりと立ち上がる。
「ひなた」
地下が白い光に包まれた。
八本の柱に刻まれた《犬神》の文字が、砕けていく。
ひなたの腹から、四十七の光が飛び出した。
子犬の形をした光。
それぞれに、人の顔がある。
光は地下の天井を抜け、地上へ昇った。
境内で倒れている犬たちの身体へ戻っていく。
黒い塊が、急に小さくなった。
人の恐れと、ひなたの名を使って膨らんでいたもの。
借り物を失えば、残るのは握り拳ほどの肉だけだった。
「黒瀬様」
「ああ」
赤い護符が、その肉を包む。
「待って」
肉の口が、一つだけ開いた。
子どもの声だった。
「私も、選ばれただけ」
黒瀬様の手が止まる。
炎を消せば、また逃げるかもしれない。
焼けば終わる。
けれど、いまの言葉が嘘だという証拠もない。
「真琴」
黒瀬様が、初めて敬称なしで呼んだ。
「おまえが始めたことだ。決めろ」
また、選べと言われた。
燃やすか。
残すか。
二つの道。
わたくしは、肉の前へしゃがんだ。
「あなたのお名前は?」
口が震えた。
「……ない」
「では、誰に選ばれたのですか?」
「わからない」
「何をさせられたのですか?」
長い沈黙。
「最初の犬を、穴へ入れた」
ひなたが、低く鳴いた。
肉の塊から、二本の細い腕が生えた。
子どもの手。
ひなたが覚えていた、小さな手だった。
「ごめんね」
その手が、白い鼻先へ伸びる。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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