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京都陰陽師・真琴の怪異譚  作者: K3
犬神の里

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第15話 許さなくていい

化け物の社を前に、その男は、のんびり煙草に火をつけます。

空気の止まった廃村で、なぜか煙だけが、まっすぐ上へ。

——真琴はまだ、気づきません。

隣で「一服いいですかー」と惚けている迷子が、いったい何者なのかを。


 子どもの手が、ひなたの鼻先へ触れた。


 ひなたは動かなかった。


 牙を見せない。


 尻尾も振らない。


 ただ、その手の匂いを嗅いだ。


「覚えてる?」


 肉の塊から、子どもの声がする。


 ひなたは答えない。


「私だよ」


 細い腕が、白い頬へ伸びる。


 ひなたは顔をそむけた。


 子どもの手が、宙で止まった。


「どうして」


「触られたくないのです」


 わたくしは、その間へ手を入れた。


「謝ったでしょう?」


「謝れば、触れてよいことにはなりません」


 子どもの指が曲がる。


 肉の表面に、目が一つ開いた。


「私も、嫌だった」


「何がですか?」


「この子を、穴に入れるの」


 目から黒い雫が落ちた。


「でも、お父さんが言った。やらなかったら、私が入るって」


 坂東先生が、破れた古文書を見つめる。


「飢饉の年……最初に選ばれたのは、犬ではなく子どもだったのか」


 肉の塊が震えた。


「白い子が、代わりに来た」


 ひなたは、その子を助けた。


 自分から穴へ入ったのかもしれない。


 だから子どもは生き残った。


「名前を教えてください」


「ない」


「呼ばれていた名前は?」


「忘れた」


 ひなたと同じだ。


 長い間、誰にも呼ばれず、自分でも失った。


「では、あなたは、どうしてここに?」


「ひなたを出そうとした」


 初めて、白犬の新しい名を呼んだ。


 ひなたの耳が少し動く。


「夜に戻った。穴を掘った。でも、お父さんたちに見つかった」


「あなたも殺されたのですか?」


「柱の下に埋められた」


 藤原の柱が割れた理由。


 その下に、この子がいた。


 助けようとした者まで、村は黙らせた。


「だから、選ばせた」


 子どもの声が低くなる。


「みんなにも、同じことをさせた」


「自分が助かるために、誰かを差し出させた」


「そう」


「何人を?」


「知らない」


「四十七人です」


 黒い目を見つめる。


「その前にも、大勢います」


「私だけが悪いの?」


 声が膨らんだ。


「お父さんは? 村の人は? 犬を置いて逃げた人は? 命令した人は?」


 地下の壁が震える。


 七本の柱に、ひびが走った。


「私だけ、また選ばれるの?」


 違う。


 この子一人へ罪を押しつければ、村がひなたへしたことと同じになる。


 けれど。


「あなただけが悪いとは言いません」


 子どもの目が細くなる。


「では、助けて」


「それと、あなたがしたことは別です」


 目が見開かれた。


「あなたは殺されました。お父様に脅されました。とても怖かったでしょう」


 肉の塊が、小さく頷く。


「それでも、四十七人へ同じ恐怖を渡しました」


「だって」


「理由はあります。なかったことにはしません」


「私も、被害者だよ」


「はい」


「なら、許して」


「それを決めるのは、わたくしではありません」


 地上から、人の呻き声が聞こえ始めた。


 四十七人が戻っている。


 彼らが許すかどうかは、彼らが決める。


 ひなたが許すかどうかは、ひなたが決める。


「ひなた」


 呼ぶと、白犬がこちらを見た。


「この子を、どうしたいですか?」


 黒瀬様が息を吐く。


「犬に裁かせるのか」


「裁くのではありません。自分とのつながりを、決めてもらいます」


 ひなたは、肉の塊へ近づいた。


 子どもの手が、また伸びる。


 今度は鼻先へ触れる前に止まった。


「触って、いい?」


 ひなたは、首を横へ振った。


 手が下がる。


「許して、くれる?」


 ひなたは長く黙っていた。


 やがて。


「ゆるさない」


 子どもの身体が縮んだ。


「でも」


 ひなたが続ける。


「もう、たべない」


「私を?」


「おまえの、こわい、も」


 何百年も、ひなたはこの子の恐れまで腹に抱えてきた。


 許さない。


 憎しみを引き受けない。


 その二つは、同時に選べる。


 子どもの腕が、床へ落ちた。


「では、私はどうなるの?」


「あなたも選ぶのです」


 わたくしは、割れた藤原の柱を指した。


「ここへ残り、また誰かを選ばせるか」


 次に、黒瀬様の護符を見る。


「祓われるか」


 子どもの顔が歪む。


「二つしかないの?」


 小さな声だった。


 わたくしは、答えかけて止まった。


 先ほど、自分で言ったばかりだ。


 二つしかないように見せるのが、この術だと。


「黒瀬様。この子を移せますか?」


「どこへ」


「人を選べない場所へ」


「封印か」


「いいえ。話せる場所です」


「甘いな。監視する者が必要になる」


「わたくしがします」


「大津家の札を割ったおまえに、その資格はない」


 胸が痛んだ。


 事実だった。


「なら、私が預かろう」


 坂東先生が言った。


「先生?」


「私の寺には、使っていない地蔵堂がある。人里から離れているが、陽は入る」


「危険です」


「だから、あなたたちに結界を作ってもらう」


 先生は、肉の塊へ目を向けた。


「一人で置くつもりもない。毎日、私が話を聞く」


「なぜ、そこまで」


「この村の記録を読みながら、私は昔のことだと思っていた」


 古文書を握る手が震えている。


「だが、見て見ぬふりをした私は、村人と同じだ」


 黒瀬様は先生を見た。


「一度でも結界を破れば焼く。それが条件だ」


 子どもの目が、黒瀬様へ向く。


「怖い」


「怖がれ」


 冷たい声。


「おまえがしたことを、怖くない話にはしない」


 けれど、護符の火は消した。


「選べ」


 子どもの目が、ひなたへ向く。


 ひなたは見返さない。


 もう答えを渡す気はないのだ。


「……話す場所へ、行く」


「分かりました」


 坂東先生が数珠を外し、肉の塊へ巻いた。


 黒い肉が少しずつ崩れる。


 中から、五つほどの女の子が現れた。


 麻の着物。


 泥だらけの裸足。


 顔は、まだ黒い霧で見えない。


 先生が手を差し出す。


「立てるか?」


 女の子は、その手を見つめた。


 触れない。


 自分で立ち上がった。


「名前は、あとで決めてもよい」


 わたくしが言う。


「決めなくてもよいです」


 女の子は、小さく頷いた。


 その瞬間。


 八本の石柱が音を立てて崩れた。


 地下の天井から、朝の光が差し込む。


 夜が明けていた。


 ひなたは光を見上げる。


 ゆっくり歩き、日の当たる場所へ身体を横たえた。


 白い毛が、金色に光る。


 わたくしは隣へ座った。


 触ってよいか、聞こうとしたとき。


 ひなたのほうから、頭を膝へ乗せた。


 重い。


 とても、重い。


「帰れましたね」


 ひなたは目を閉じた。


 地上から、隼くんの声がした。


「真琴さん!」


 続いて、美咲さんの声。


「一人、息をしていません!」


 ひなたの目が開いた。


 救出は、まだ終わっていなかった。



ちょっとお手洗いと社の裏へ消えた慈恩が、結界の内側から、忽然といなくなる。

二人がかりで探しても、どこにもいない。


——なのに、けろっと戻ってくる。「お腹痛くてー、奥まで行ってましたー」


どの奥ですか、と真琴は思う。

害はなさそう。

でも、明らかに変。

一般人の定義とは、いったい何なのでしょう。

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