第8話 道、間違えたみたいでー
――ここから先は、知ったかぶりが、命取りになる。
「わたしが、この子を食べる前に」
美咲さんが言った。
腕の中には、弟の隼くんがいる。
目を閉じたまま、動かない。
胸は、かすかに上下していた。
生きている。
間に合った。
そう思った直後。
境内の四十七匹が、いっせいに吠えた。
音が、戻った。
死んでいた村へ。
四十七人分の叫びが、一度に流れ込んできた。
犬の声。
人の声。
泣き声。
笑い声。
助けて。
帰りたい。
食べたくない。
耳を塞いでも、頭の中で鳴った。
「真琴様!」
坂東先生が、護符を四枚放つ。
社の入口に、光の壁が立った。
犬たちが階段を駆け上がってくる。
一匹目が壁へぶつかった。
青い火花。
二匹目。
三匹目。
光が大きく揺れる。
「長くは持ちません!」
「分かっています!」
わたくしは、社の中へ入った。
骨が、足元で乾いた音を立てる。
犬の骨と、人の骨。
踏まない場所がない。
「美咲さん」
「来ないで」
美咲さんが、隼くんを抱いたまま後ろへ下がる。
口には牙がある。
手の爪も黒く伸びていた。
けれど、目は人のままだ。
「隼くんを、こちらへ」
「だめ」
「食べたくないのでしょう?」
「だから、だめなの!」
美咲さんが叫んだ。
社の中に、声が響く。
犬たちの声が、一瞬だけ止まった。
「この子を離したら、わたしが追う。逃げても追う。絶対に、追いつく」
美咲さんの腕が震えている。
弟を守るために抱いている。
同時に、自分から逃がさないために抱いている。
犬へ変わる術は、家族を食べさせることで完成する。
姉が弟を食べる。
親が子を食べる。
食べた瞬間、人だった記憶まで壊れる。
だから、ほかの四十七人は戻れなかった。
「わたくしが、止めます」
「無理だよ」
「やってみなければ」
「あなた、犬を斬れないでしょう」
息が止まった。
美咲さんが、わたくしの手を見る。
桃木剣を握る指が、震えている。
「さっきから、みんなが言ってる」
「みんな?」
「屋根の上の人たち。家の中の人たち。あなたは斬れないって。だから、次はあなたにしようって」
四十七人は、犬神に従っているだけではない。
次の人間を選んでいる。
自分たちと同じところへ落とすために。
犬を斬れない陰陽師。
これほど都合のよい生贄はいない。
社の入口で、護符が一枚破れた。
光の壁に亀裂が走る。
「あと三枚です!」
坂東先生が叫ぶ。
時間がない。
美咲さんを縛るか。
隼くんだけを奪うか。
美咲さんを斬るか。
どれを選んでも、誰かを傷つける。
「真琴様。ご決断を!」
決めなければ。
父は言った。
見てこい。
読んでこい。
そのうえで、お前が決めろ。
見た。
読んだ。
けれど、まだ足りない。
この術を作った人間が見えない。
犬神大明神の姿も見ていない。
ここで美咲さんを斬れば、目の前の危険は止められる。
でも、次の四十八人目が生まれるだけだ。
「斬りません」
わたくしは言った。
坂東先生が振り返る。
「美咲さんも。外の方々も。まだ、人です」
「では、どうします!」
「犬神大明神を見つけます」
「その前に結界が破れます!」
「分かっています!」
分かっている。
だから困っている。
護符が、もう一枚破れた。
犬の鼻先が、光の隙間から入ってくる。
牙。
涎。
人の目。
坂東先生が桃木剣で押し返す。
あと二枚。
美咲さんが、急に身体を折った。
隼くんを抱いたまま、苦しそうに咳き込む。
「う……っ」
口から黒い液体がこぼれた。
犬の血。
変化が進んでいる。
「美咲さん!」
「来ないで!」
顔を上げる。
片方の目が、金色へ変わっていた。
「もう、時間ないから」
美咲さんは、隼くんの首へ顔を近づけた。
犬の牙が、弟の皮膚へ触れる。
わたくしは桃木剣を構えた。
首ではない。
牙だけを折る。
できる。
やらなければ。
踏み込む。
その瞬間。
社の奥から、黒い水が噴き出した。
「真琴様!」
坂東先生の声。
床の骨が、まとめて浮き上がる。
黒い水は壁のように膨らみ、わたくしたちの頭上へ立った。
津波。
社の中へ、ありえない高さの波が生まれている。
水の中に、人の顔がいくつも浮いていた。
四十七人ではない。
もっと多い。
百人。
二百人。
この村で、長い時間をかけて差し出された人たち。
犬神大明神へ食わせられたもの。
「伏せて!」
坂東先生が、わたくしへ覆いかぶさる。
桃木剣では止められない。
護符も間に合わない。
黒い波が落ちてくる。
冷たいものが、額へ触れた。
そう思った。
けれど。
波は、落ちなかった。
ぴた、と止まった。
頭上で。
無数の顔を浮かべたまま。
黒い水が、空中に静止している。
「……坂東先生?」
「私ではありません」
社の入口を見る。
最後の護符が破れた。
光の壁が消える。
犬たちが、なだれ込んでくる。
けれど、入口を越えたところで止まった。
先頭も。
続く犬も。
すべての犬が、同じ姿勢で固まっている。
前脚を上げたまま。
牙をむいたまま。
時間まで止められたように。
「何が……」
坂東先生にも分からない。
わたくしにも、分からない。
ただ一つ。
社の外から、足音が近づいてきた。
普通の足音だった。
砂利を踏む。
ゆっくり。
急ぎもせず。
危険を感じている様子もなく。
誰かが、石段を上ってくる。
止まった犬たちの間を通り抜ける。
黒いコート。
細い糸目。
口元には、困ったような笑み。
片手をポケットへ入れた男が、社の入口へ立った。
「すみませーん」
場違いなほど、気の抜けた声だった。
「道、間違えたみたいでー」
わたくしは、男を見た。
陰陽師の装束ではない。
武器もない。
護符も持っていない。
霊力も、ほとんど感じない。
どう見ても、一般人だった。
一般人が。
犬神の群れと、空中の津波を止めていた。
「……どちら様、ですの?」
男は、糸目のまま笑った。
「慈恩といいますー」
変わった名前だった。
「ただの、相談屋ですよ」
美咲さんが、震える声で言った。
「違う」
慈恩と名乗った男を見る。
金色になった目を、大きく見開いて。
「その人、人間じゃない」
瀬戸内海を越えて、二人は四国へ入りました。石鎚の、深い緑の奥へ。
坂東の言葉が、静かに効いてきます。
「わからないことを、わかったふりしない」
それが、あの村で生き残る作法になる。
――地元の誰もが避ける村へ、次の話で、
二人は着きます。
続きはブックマークから。




