第7話 ミツケタ
――はじめに捨てたのは、人だった。
「おねえちゃん」
神社の方角から、幼い声がした。
「もう、ぼく、犬になっていい?」
藤原隼。
七歳。
姉を探して、昨夜、一人で家を出た男の子。
まだ、生きている。
わたくしは走り出した。
「真琴様、待ってください!」
坂東先生の声が追ってくる。
道には、無数の犬の足跡が残っていた。
どれも神社へ向かっている。
先ほどまで、わたくしたちを囲んでいた犬たちだ。
四十七人。
人の形を奪われたまま、同じ場所へ集められている。
足跡を踏まないように走る。
理由は分からない。
ただ、踏んではいけない気がした。
道の両側で、家々の戸が揺れていた。
風はない。
それでも、開いた戸が少しずつ閉じていく。
わたくしたちが通り過ぎるたびに。
一軒。
また一軒。
村が、背後の道を塞いでいる。
「帰り道を閉じています」
坂東先生が言った。
「帰るつもりは、まだありません」
「そういう意味ではありません」
「分かっていますわ」
強がりだった。
振り返るのが、怖かった。
門が消えていたら。
山道そのものがなくなっていたら。
もう一度、身体が動かなくなるかもしれない。
前を見る。
木々の向こうに、黒い鳥居が立っていた。
柱には、太い注連縄が巻かれている。
新しい縄だった。
廃村になって三十年。
誰もいないはずの神社で、縄だけが新しい。
「誰かが、いまも手入れしています」
「村の外から?」
「あるいは」
人の姿を失った者たちが。
続きを口にするのは、やめた。
鳥居の前へ着く。
石段が、上へ続いていた。
三十三段。
すべての段に、黒い染みがある。
血のように見える。
けれど、鉄の匂いはしなかった。
代わりに、獣の脂と、古い香の匂いがした。
「犬の血です」
坂東先生が、染みを見て言う。
「いいえ」
わたくしは、首を振った。
「犬へ変えられた人の血です」
懐紙を一枚、染みへ近づける。
紙には何も起きない。
呪いがない。
血から、人の念だけを抜き取っている。
残されたのは、ただの器だった。
「この石段を上った人は、上るたびに人だったものを一つずつ落としています」
名前。
顔。
声。
家族の記憶。
最後に人の姿まで失い、犬になる。
三十三段は、そのための道だ。
「隼くんを、ここへ上らせてはいけません」
最初の段へ足を置く。
耳の奥で、犬の鳴き声がした。
現実の音ではない。
石へ染み込んだ記憶だ。
二段目。
誰かが泣いている。
三段目。
母親を呼ぶ声。
四段目。
自分の名前を繰り返す男の声。
忘れないために。
消される前に。
一段上るたび、知らない人の最後の言葉が流れ込んでくる。
足が重い。
坂東先生が、すぐ後ろを上っている。
何も言わない。
わたくしの歩調へ合わせている。
二十段目で、少女の声がした。
「隼」
美咲さんだ。
「来ちゃ、だめ」
短い声だった。
けれど、ほかの声と違った。
薄れていない。
いまも、ここに残そうとしている。
姉は、自分が消えかけても、弟へ伝えようとしていた。
「聞こえましたか」
「いえ」
坂東先生には聞こえていない。
「美咲さんが、隼くんへ来るなと言っています」
「では、先ほどの声は」
「隼くん本人かもしれません。でも、呼んでいるのは別のものです」
隼の声を使い。
姉を呼ぶ。
姉の記憶を使い。
弟を呼ぶ。
家族同士を、互いに神社へ連れてくる仕組み。
二十九段目。
手首が痛んだ。
消えたはずの黒い印が、一瞬だけ浮かぶ。
三十段目。
胸の奥で、誰かが笑った。
三十一段目。
「ミツケタ」
三十二段目。
「ミツケタ」
三十三段目へ足を置く。
耳元で、はっきり声がした。
「オマエガ、ツギ」
振り返る。
誰もいない。
坂東先生が、二段下にいるだけだ。
けれど。
石段の下。
閉じた家々の屋根に、犬が並んでいた。
四十七匹。
黒い犬たちが、すべてこちらを見上げている。
吠えない。
動かない。
ただ、見ている。
わたくしが、最後の段を上ったのを確かめるように。
「真琴様」
坂東先生が、わたくしの視線を追った。
剣を構える。
「まだ来ません」
「なぜ分かるのです」
「見届けるのが先だからです」
四十七匹は、襲うために集まったのではない。
新しく犬へ変わる人間を、見届けるために呼ばれた。
次は、わたくし。
神社の境内には、古い社が一つあった。
扉は閉じている。
その前に、子どもの靴がそろえて置かれていた。
隼くんのスニーカーだった。
藤原家の玄関にあったものと、同じ泥が付いている。
片方の紐が、ほどけたままだ。
「中にいます」
社へ近づく。
「おねえちゃん」
扉の向こうから、隼の声がする。
「ぼく、来たよ」
「隼くん」
呼びかけそうになり、口を閉じた。
返事をしてはいけない。
声と道がつながる。
社の周りを見る。
小さな足跡が、石段から扉まで続いている。
けれど、おかしい。
泥が乾いていた。
隼が消えたのは昨夜。
昨夜から今朝にかけて、山には雨が降っている。
藤原家の靴には、濡れた泥が付いていた。
ここにある足跡は、それより古い。
一日ではない。
何年も前から、同じ場所へ何度も付けられた跡だ。
「隼くんは、中にいません」
坂東先生が、扉を見る。
「声がします」
「声だけです」
「靴もある」
「それも、見せるために置かれています」
しゃがみ、靴へ顔を近づける。
子どもの靴なのに、獣の脂の匂いがした。
内側には、毛が詰められている。
隼の靴ではない。
隼の靴を真似て作ったものだ。
「開ければ、わたくしたちを中へ入れられる」
「では、開けませんか」
「いいえ」
桃木剣を抜く。
「罠だと分かったうえで、開けます」
扉の左右に、古い札が貼られていた。
文字は消えかけている。
それでも読めた。
左に、《家》。
右に、《供》。
家族を、供物にする。
この社は、犬を祀っているのではない。
家族を呼び寄せ、互いを差し出させるための場所だ。
失踪者が一人ずつではなく、家族単位で消えた理由も、それなら分かる。
「坂東先生。扉を開けたら、声ではなく床を見てください」
「床を?」
「人を犬へ変える術は、足元から始まっています」
藤原家の足跡。
三十三段の血。
すべて、足から人を奪っている。
坂東先生が、扉の右へ立つ。
わたくしは左へ。
桃木剣の先を、扉の隙間へ差し込んだ。
「開けます」
力を入れる。
木が、低く鳴った。
この村へ入ってから、初めて聞く、普通の木の音だった。
扉が少しずつ開く。
暗い社の中に、白いものが見えた。
骨だった。
犬の骨。
人の骨。
何十体分もの骨が、床いっぱいに敷き詰められている。
その中央に、赤い着物の少女が座っていた。
背中を向けている。
長い黒髪。
細い肩。
首に、犬の歯形。
「美咲さん」
少女の肩が動いた。
ゆっくり、こちらを振り返る。
顔は、写真の美咲だった。
けれど、口には犬の牙が生えている。
胸に、小さな男の子を抱いていた。
隼くん。
目を閉じている。
生きているのか、分からない。
美咲は、弟を強く抱いたまま言った。
「来ないで」
人の言葉だった。
「わたしが、この子を食べる前に」
境内の四十七匹が、いっせいに吠えた。
犬神大明神は、悪霊です。近づく者を、呪い殺す。
でも、その始まりは――戦争と食糧難で山へ捨てられた、犬たちでした。神は、自分を祀ってくれた犬を、攻撃できなかった。だから、村を守れなかった。
可哀想な神。けれど、もう、哀れむだけでは済まない。
この神の哀しさが少しでも刺さったら、
★の評価で教えてください。次から、二人は四国へ入ります。




